2014/05/28

【読書メモ】 戦後世界経済史

※ 本投稿は印刷等の便宜を図って、一本化しました。 

僕は本の購入にあたって、掲載されている知識情報が社会科ないし理科の基礎教養を踏まえているか、かつ、着眼点や論旨が概ね一貫しているか、かつまた新書版などの廉価本であるかどうかといった観点で本を選ぶ。
その理由は、僕なりに一般人はもとより学生(高校生も含む)への推奨をも想定しているからである。
とはいえ、そうやって僕なりに選んだ本のうち多くは、一通り読み進めてはみるが、そのコンテンツの分量に圧倒され、随時メモを書き散らしたまましばし放置してしまうことを白状しておく。
実は、今回紹介する本もそういうものである。
『戦後世界経済史 猪木武徳・著 中公新書』

経済史とはいっても、本書は財貨取引のバラエティや変容を描いたものではなく、むしろサブタイトルとして「自由と平等の視点から」と添えられているように、財政/金融政策のパブリックな「成否」を分析展開している。
なるほど経済「学」は自由選択と希少資源の調整を前提としている、だから効率の良い市場と悪い市場がある ─ ならば経済「史」としても、時代局面に応じた先進経済地域の財政/政策の考証こそが、世界経済の在りようを大きく捉える上で合理的ではなかろうか。
…といったことを思い返しつつ、あらためて読み込んでみれば、本書は特にアメリカとEU主要国が第二次大戦後から21世紀初頭までいかに世界の財政/金融を誘導し、更に頓挫させてきたかを深く学び直すことが出来る。

著者の猪木氏は本書を小冊子に過ぎないと自嘲されているが、それでも新書版としては厚めの400ページもの、とりわけ各章のコンテンツは独立構成に近く、それら集大成としての本書はもちろんアメリカやEUのみならず、世界諸地域における貿易や金融の拮抗についても記述は豊富。
さらに要所要所に引用される政策エピソードはむしろ緊張感抜群。
よってページを捲る度に新発見の連続でもあり、そのためだろうか、本書は2009年初刊ながら、今も多くの読者が高評価を投じ続けていると聞く。

なお、本書にて随所に展開されるエッセンシャルなメッセージを、とりあえず僕なりに丸めて記すと ─
● 経済発展とは、市場における財貨の「回転効率」と、質・量の向上、そして市場の拡大である。
だが、媒体であるはずのカネはいつも偏在しがちであり、いくらカネの量を増やしても財貨が一様に回転するとは限らない。
● 人間の投資欲はけして阻害されるべきではない、但し投資する側とされる側がいつも同じ動機、同じヴィジョンに在るとは限らないし、またいったんカネの貸し借りがなされれば、それが無かった状態には二度と戻せない。
● 自由な交換が前提であるかぎり、カネの流通量/速度、財政収支、政策金利、市中金利、投資率、貯蓄率、インフレ率、雇用/失業率、GDP(GNP)、国際収支(輸出/輸入)…これら上っ面の「数値」はどれもが常に独自に変動する。
それら数値を根源的に決定するものは、人口、食糧、教育水準、エネルギー利用効率/量、工業技術力である。
● あらゆる財貨の交換自由化は、それら取り扱い事業者のビジネス効率化を導くが、だからこそ自由化は当初の制度設計に依るところが大きい。
● 自由競争経済は、匿名の価格情報がその財貨の希少性をあらわし、だから事業者一人ひとりの随時の判断責任を求める。が、社会主義経済は価格情報を無視すればこそ特定の意思決定のみが教条化、権力化し、総じて経済を非効率化させる。 
● 農地改革による農業自由化は、効率化と競争と資本蓄積をもたらし、さらに先行投資ももたらす、だからこそ農業活性化のみならず工業化をも導く。
● 財政の出動と撤退が全く異なるコスト要因で為されると、結局は財政が行き詰まるから経済も停滞する、だから政策が安定している平和時の国家の方が経済も順調に伸びる。
…などなど。

尤も、まさにページ数制限によるためか、経済政策の常識がやや圧縮され(?)た文章が目立ち、よって基礎素養が無いと論旨全体を補足し難いことが惜しまれる。
本書ほど考察対象事例のヴァラエティに富んだ傑作であれば、上下巻編成としてもっと多角的な政策分析が有ってもよかったのではないか。

さて、今回の本ブログの【読書メモ】も、書籍の章立てには敢えて拘らず、いつものように僕なりの箇条書きにて以下記す。



・第二次大戦を通して、ヨーロッパ諸国は外貨準備を使い果たしていたため、復興に必要な食糧や物資の輸入が極めて困難となる。
そこでアメリカがヨーロッパ復興計画としてマーシャルプラン(1947)を発表、それら輸入のための資金をヨーロッパに融資することとなった。
ヨーロッパ側の窓口として、OEEC(欧州経済協力機構)がまとめられてその融資資金の配分にあたり、またヨーロッパ各国政府もこの資金をヨーロッパ全体の復興に運用するようにことが義務付けられた。
さらにヨーロッパ諸国間の通貨融通や賠償金整理が簡易迅速に進むよう、諸国の中央銀行間の外為/決済システムも構築され、これが欧州支払制度の原型となった。

・マーシャルプランによる融資資金は1952年の終了時までに約130億ドル、その7割はアメリカの余剰農産物や生産物の購入に充てられた。
(朝鮮戦争が始まると、反共防衛のための軍事物資もこうして購入されることになった。)
マーシャルプランによる融資によって、OEEC加盟の西側諸国の生産力は1951年には戦間期の最高水準を超えるに至った。
一方でOEECは、諸国の優れた技術や人材をECSC(石炭鉄鋼共同体)へと促し、これはドイツの再強国化を抑制する目的もあったものの、のちのヨーロッパ経済統合の礎ともなった。

・ドイツは敗戦国ではあったが、既に戦前からヨーロッパ工業のあらゆる技術設備と人材をフルセットでリードしていた。
ゆえに、ヨーロッパ経済復興を図るマーシャルプランはドイツ潰しどころか、むしろドイツの生産力回復を図ることとなった。
あわせて、ドイツの購買力を回復させ、ヨーロッパ諸国による対独輸出を拡大させる目的も有った。

・なお、マーシャルプランによる巨額の融資は戦前の経済システムを保守する方向に働いたため、むしろヨーロッパ諸国で本格化しつつあった自由競争を妨げる要因となった ─ という見方も根強い。

・一方、東部ドイツを占領していたソ連は、このマーシャルプランを拒否、ドイツから大量の産業機械を戦争賠償として押収したが、その押収物件の相当金額は、マーシャルプランによるヨーロッパ一国平均への融資額をはるかに上回るものであった。
ソ連が結成させたコメコンにおいては、ソ連が東欧に原油を提供し、東欧諸国がソ連に農産物、工業機械、消費財を提供する枠組みが固められた。

・ドイツでは旧来の通貨(ライヒスマルク)の信用が失われ物々交換経済の状態にて、物流の非効率化から激しいインフレーション状態にあり、物価の価格統制や配給制が敷かれていた。 
ソ連占領のドイツ東部地区は、食糧不足を強制労働などで強引に克服、だが大量のドイツ人難民が米英仏占領の西側ドイツ地区に流入していった。
こうして人口増の西側地区では食糧不足が深刻となり、アメリカがその食糧の2/3を調達するほどだった。

・かかる状況で、1948年に西側(米英仏)地区は新規のマルク通貨の発行流通を決定、アメリカで印刷して西側地区に持ち込まれた。
この新マルク通貨が、極度にダブついていた旧マルクとの交換比率(および物価とのバランス)において、いちかばちかの絶妙の価値設定に成功。
こうしてドイツ西側地区で旧・新マルク通貨が入れ替わった結果、カネの流通量が一気に沈静化、物価インフレが急速に収束し、価格統制も配給制も解除され、常態の市場経済が復活するに至った。
なお、この通貨改革とあわせ、ドイツ西側地区では低所得者層への減税措置、また社会保障整備も遂行されたので、生産労働への意欲が増し、自由競争経済を一層復興させた。
(旧マルク通貨の流通量に便乗してカネ回しや証券化で儲けてきた債権者たちだけが、損失を被ることとなった。)

・この新マルク通貨の発行流通は、東側地区の承認無しで実施されたこと周知のとおり、それでベルリン封鎖や食糧空輸とドイツの分断化が進み ─ やがてNATO結成と東西ドイツ分離独立(1949)に至る。
しかしヨーロッパ経済共同体(EEC)では、東ドイツと西ドイツの貿易は国内貿易と見做され、税制上の相互障壁はほとんど置かれなかった。

・ソ連では国富(ここでは有形固定資産の意か)の1/3が第二次大戦で消失したと推定されている。
しかし戦後翌年には、第4次5ヵ年計画にて、原子力エネルギーの開発による重化学工業の推進が図られた。

・ソ連は集団農場の時代でも、ごくわずかな私有地における農業だけは盛んであり、全ソ連のミルクの2割、肉の3割以上、果実や野菜のほとんどが私有地農業で生産されていた。
それでも総じてソ連の農業力は弱体化する一方で、ついには金塊を輸出して農産物を輸入するに至った。

・第二次大戦で日本が失った国富は、推計によれば、船舶の80%、建築物の25%、工場用機械34%、生産物の24%、再生産可能な物的国富の1/4に相当することになっている。
日本経済の戦後の復活は朝鮮戦争による特需が大きなきっかけとなった ─  という通説に対して、経済史家はこの特需はそれほど大きくなかったとしている。

・西ドイツは1950年代~60年代にかけて、物価安定かつデフレ政策をとりつつ、輸出志向で経済発展した (対GNP比で、西ドイツの60年代後半の輸出額は18%も占め、同じ頃の日本でさえも10%弱であった。)
貿易黒字が拡大し過ぎたため、その結果としての資本(投資)の過剰流入そしてインフレに留意し、67年に不況局面に入ったのちも、マルク価値の対外的な上昇に応じて固定レートを切り上げた。
西ドイツの失業率は60年代には1%以下であり、外国移民を受け入れるほど人手不足の活況ぶりであった。

・同じ時期、フランスのド=ゴールはフラン通貨の価値の維持を図りつつ海外投資拡大も優先したため、フラン通貨の価値切り下げと国内のフランの流動性拡大には消極的。
一方でフランス企業では賃上げもなされ、価格競争力が落ちて輸入が増えてしまった。
このときドイツがマルク価値を切り上げたことによって、フランの価値が相対的に下がったことになり、結果的には欧州連合における両国の経済バランスが図られたことになった。
(もちろん、いくら欧州連合内での調整だとはいえ、このように通貨の価値と商品の輸出/輸入価格を調整したくらいで自国の産業競争力が高まるとは限らない。産業のパワーの源泉は価格ゲームではなく技術テクノロジーである。)

・英国がEC(ヨーロッパ共同体)への加盟を遅らせた理由は、フランスのドゴールが執拗に拒否したことにも因るが、ヨリ現実的にはECの(EEC以来の)共通農業政策に賛同しきれなかったため。
これはEC加盟国にて農産物の価格安定と補助金確保を課す政策で、英国産業は既に農業への依存度が低く、積極的に賛同する理由が無かった。
結局は英国はECに加盟するが、これによって従来のアメリカや英連邦諸国との取引は相対的に減っていった。
なお英国の北海油田は60年代から開発が進められていたが、英国が原油で輸出国に転じたのは80年代のサッチャー時代になってから。

・アメリカの財政は第二次大戦後、あくまで税収と社会保障を景気変動による自動安定化(いわゆるビルト=イン=スタビライザ機能)に委ねており、だから軍事支出や過度なインフレ懸念への特別な対応を除けば、恣意的な財政・金融の出動はほとんどなされなかった。

・ただ、一方では第二次大戦中に、アメリカと英国の通貨交渉において、米ドルを基軸通貨として世界中に流通させるためにアメリカはある程度の輸入超過で在り続けるよう求められた。
そのため、国内でもドルの流動性維持のため雇用の確保にもあたることなった(総じて有効需要の安定を図ったといえる)。
第二次大戦後のブレトンウッズ体制はこうして始まった。

・またアメリカでは1950年代初めから、自動車産業によるいわゆる「デトロイト条約」で、企業側が賃金を物価変動させつつ社会保障全般を負担する代わりに、労働者側はストライキを打たないという旨の合意が更新され続けた。
この形態の労使合意は、他の産業界でも適用されていった。
1970年代を通した経済停滞期まで、この形態が産業界を通じて維持され、雇用を確保しつつ、また労使の所得格差は拡大しなかった。

・しかしアメリカは60年代半ば、ジョンソン大統領による「偉大な社会」プログラム実現のため、かつヴェトナム戦争のため、巨額の財政支出から財政赤字へ。
財政赤字にも拘らず更に財政支出が進む一方なので、ドル金利を上昇させざるをえず、政府は通貨供給量を増やして景気を維持させつつ、税収も賄った。
この時点でもアメリカは(ドルの世界流通のために)輸入超過と内需の維持=完全雇用の確保が続けられ、だから市場の経費も物価も上昇するばかり、やはり政府は通貨供給量を増やし続けて対応した。
これらが、レーガン時代まで長く続くインフレ(ドル安)への直因となった。

・インフレが継続したため、アメリカ企業の経費も売価も一方的に割高になり(価格競争力が無くなり)、よって貿易収支赤字が拡大。
さらに諸外国がドルを外貨準備資産として保有し続けた。
こうして、ドルの海外流出もアメリカ自身が制御不可能になっていった。
(※ このあたりまでは、アメリカ産業力の減衰は物価高に依ると本書で簡素に概説しているが、産業力とは物価だけで左右されるものではないこと、言わずもがな。)

・国際基軸通貨であるドルの実質的な価値下落に際して、なおも従来通りのドル/金の固定相場の維持が求められ、かつ、主要国間でおのおの通貨間の安定流通も求められた。
そこでIMFがいわゆる「特別引き出し権(SDR)」を創設、これは新規に発行した資産ではなく、IMF加盟国がおのおのの資産力に応じて互いに通貨調達を可能とする論理的な通貨「権」であり、これを介しての加盟国同士の決済であればドル価値が揺れることはない、との期待に則っていた。
(なおIMF当局は周知のとおり国際的なドル運用の中期的調整を行っている。)

・よく知られるプレビシュ理論は、中南米に多い「"輸入代替工業化"政策」を推し進めるもの ─ 産業競争力の弱い国々は原材料の輸出に頼りがちだが、これではいつも国際貿易で不利な立場に立つため、先進国からの工業製品を輸入関税で防衛する一方で、自国内の公営企業を育成し工業力を強化していくとした。
国連の経済委員会でも認められ、プレビシュのアルゼンチンのみならず中南米からアジア諸国まで本理論で工業の公営化をはかった。
(但し、実際はアジア諸国の工業化は別のかたちで進展していくこととなる。)


・1971年、アメリカが未曾有の貿易赤字を計上すると、ニクソン大統領はドルの金との固定相場を停止、海外からの輸入物件に対しては暫定的な課徴金を発表。
それでもアメリカ国内インフレの継続のため輸入は増え続け、ドルの世界的なダブつきには歯止めがかからなかった。
ドルはそのご一時的には固定相場に戻ったが(スミソニアン協定)、1973年にはついに変動相場制に移行し、自然なドル安進行によって輸出増(貿易収支の改善)が期待された。
が、その秋には今度はオイルショックが始まった。

・1950年代まではアメリカは世界の石油「生産」の5割を占めていたが、60年代以降は国内消費量の増大にあわせて輸入依存度が高まっており、これもドルを世界に流出する要因であった。
1973年に始まる第一次オイルショックで、アメリカは生産コストが上昇し過ぎ、せっかくのドル安メリットも無くなってしまった。

・オイルショックがアメリカ、ヨーロッパ、日本の物価インフレを加速させつつ、労働者側が大幅な賃金上昇を要求継続したため、社会の不確定性が増して需要/供給の均衡回復への期待がゆらいだ。

・この時点で、先進国では財政支出が拡大し過ぎていたため、財政政策(投資)によるインフレ抑制も難しくなっていた。
たとえば1973年は日本の「福祉元年」でもあり、厚生年金の物価スライド方式、高齢者医療無償化、高額療養費支給制度などがスタートして、社会保障支出が著しく拡大した超大型予算の年度。
このため日本は国債発行残高の対GNP比が著しく増加、70年代末には英国に次いで世界二位となってしまった。

・こうして70年代前半からは、先進国において消費のみならず、公共投資も貿易黒字も萎み続けて(つまり有効需要が減衰し続けて)、結果的に失業者も大幅に上昇させた。
それまでのケインズらの経済学に反して、この時代からインフレと失業が同時進行することとなった(この新現象はstagnation+inflation つまりスタグフレーションという造語で定義され始めたこと周知のとおり。)
さらに、ほぼ同時期のソ連における凶作が農産物の高騰ももたらしていた。

・かかる状況にて、先進国では賃金と物価の上限統制策も講じられてきたが、インフレはなおも70年代末まで継続。
ただし、一次エネルギー源の乏しいオーストリア、スウェーデン、ドイツは他国に比べむしろ失業率の上昇は無かったが、その理由は組合、経営者、政府間での賃金調整制度が機能したためとされる(このような横断的な協調路線はネオコーポラティズムと称される)。

・また日本は諸外国と比べ、実質賃金が労働市場の需給に感応的であり、技術革新による設備投資も積極的で、貨幣供給量は統制され、金利自由化による低下もあって、特に79年からの第二次オイルショックに際してはインフレをかなり抑えることが出来た。
だが他の先進国では、やはり貨幣供給量の制限を図りこそすれ、インフレが継続したため総需要は依然として弱いまま、経済は好回転しなかった。

・ただし、アメリカは60年代以降、研究開発における政府支出が他の先進国に比べて傑出して多く、また大資本が動きやすいアメリカの方が、中小規模ばかりのヨーロッパ企業よりも新規の技術開発も多かった。
更に70年代以降は、アメリカ女性の(家庭外の)労働力参加率がどんどん高くなった。
(それまでは、実は日本の女性が家庭外の労働力参加率で世界一の物凄い働き者であった。)
これらがアメリカの「供給面」における強みではあった、が、日本は技術革新によって製品供給力においてもアメリカを凌いでしまった。

・東側COMECON諸国では、域内で原油調達を担っていたソ連とルーマニアが、オイルショックに乗じて原油価格を上げたが、ドルなど国際的な通貨の準備高が少なく、むしろインフレで値上がりする海外の高価な機械類を買えなくなってしまった。

・英国保守党のサッチャー政権は、貨幣供給量を収縮させつつ、賃上げ要求根強かった組合を政府部門と切り離し、失業救済も圧縮して、小さな政府機能を追求しはじめた。
ここからようやくインフレの収束が始まり、ネオコーポラティズムに代わって、いわゆる新自由主義への大転換が先進国で始まっていくことになった。

・同じく新自由主義への転換の代表例として、80年代アメリカのレーガン政権下における緊縮財政と規制緩和の推進も挙げられる。
とりあえずアメリカでもインフレは収束したが、また労使間の「デトロイト条約」形態の合意も終焉していった。
なお、アメリカ国内の金利はインフレ率低減にも拘らず高止まりしており、実質金利はむしろ高くなっていったので、証券への投機需要も高まっていく一方、実体産業への投資は減っていった。
かつ、対外的なドル高も進んでいったため、アメリカ産業の輸出力はやはり衰退していった。

・東アジアNIES諸国の60年代以降の工業発展は、政府による開発主導(あるいは開発独裁)によるというよりも、むしろイギリスやヨーロッパの地域撤退の時勢において、地域内外で市場取引を拡大させてきたため。
日本が製品輸出に自主規制を強めると、その機に一般特恵制度を利用して繊維や家電製品の対欧米輸出を急増させ、一方でアメリカ他の資源国からはエネルギー源を輸入した。

・70年代以降はNIESに続いてひろくASEAN諸国も工業化を進め、輸出品目も重化学工業製品が増え、アメリカとともに太平洋を囲む大経済圏を確立していった。
アジア諸国における一連の工業拡大パターンは、中南米などで主に見られる輸出代替工業化(輸入防衛と自国工業化)ではなく、むしろ域内で互いに市場を共有する着想の「輸出志向型工業化」である。

・かつ、NIESやASEANの工業化は、欧米との貿易を通じての外資の流入、および諸国内での貯蓄拡大に大きく依っており、これが積極な国内投資の主要な財源となった。
国内における所得の平等分配も、高い教育(職能)水準も国内経済の拡大に機能した。

・だが、アジア諸国は資本の調達効率と人口増大によって経済成長したに過ぎない、という見方も挙げられており、ノーベル賞経済学者クルーグマンも、アジア諸国経済のいわゆる「全要素における生産性」は先進国より低い(だからのちの通貨危機で経済が大打撃を受けた)と主張。
しかし現在では、アジア諸国の産業組織構造、労働力および貿易こそがアジアの経済成長を可能にした、との見方が主流である。

・なお、80年代に日本企業がアジア諸国に投資する過程での「水平分業」の推進も、アジア諸国の工業力を集中特化させる効果があった。
(欧米企業がかつてアジア諸国で、規制や税制を恣意的に操作しつつ搾取型の貿易を強制していたことを勘案すれば、日本企業の在り方はかなり共存的である。)

・ところで農業に目を向ければ、発展途上国の多くは、工業化優先の政策から1950年代~60年代に人口が都市部に集中するようになったが、1970年代半ば以降に食糧不足が世界的な問題となると今度は農業の新規開発へ。
しかし必ずしも農業生産能力が充実してきたわけではない。
ラテンアメリカ諸国では土地所有権の極端な偏在がみられるが、土地活用に遅れがちの大規模農業経営よりも、土地開発に積極的であった小規模家族農業の方が生産額/耕地面積において上回った。

・インドやインドネシア、フィリピンなど旧植民地では農地の所有権が認められたがゆえ、土地担保での金融取引も増えた。
一方ではまた、農村の人口増加が起こった。
こうして、農民一人あたり耕作地はむしろ減少し続け、過度に貧窮化した農民は土地を手放し小作農となり、さらに都市の貧民となっている。

・アフリカ農業は主に焼畑農業から成るため遊休地が多く、まとまった投資対象になりにくい。
しかも伝統農法に頼り続けたため、農業の規模拡大が難しい。
さらに労働者は家族や村落からの調達に頼ってきたため、農繁期と農閑期の労働力調整が難しく、なおさら農業規模の拡大に行き着かない。

・中国では60年代の文化大革命とそのごの混乱による経済的停滞を経て、70年代末からはいわゆる四つの近代化計画に則り、経済特区が設けられ始めて、西側諸国からの資本導入、さらにプラント設備と技術の導入が進み、中国側の生産力向上をもたらす。

・登小平は特に人民公社の解体をすすめ、農地のリースほか農家の事業化も認めたので、80年代には農家の所得が倍増、技術も向上し穀物の自給を達成。
さらにサービス業や軽工業での民間化も進む。
しかし、重工業や金融や交通産業は共産党政府による統制がなおも徹底されていた。

・中国は市場経済の進展とともに80年代半ばからインフレも進んだが、一方で政治権力が固定化されていたため財政改革や制度改革はなされず、民間の格差拡大と失業増大をもたらす。
民間で増え続けた貯蓄は国有企業の赤字補填に回され、汚職も増えて権力筋のみが利益増大させた。

・ベトナムはベトナム戦争後に南部の産業の国有化を進めたため、多くの失業者が生まれた。
さらに、中国同様に政府統制下での重工業への偏重は市場全体の活性化を損ねた。
それどころか中国との関係が悪化し、一方で周辺ASEAN諸国との市場相互拡大も無く、またソ連の技術援助も削減されていき、経済的な孤立化が進む一方。
80年代以降には経済成長するが、統制された重工業と停滞した農業のためにインフレも進み、財政赤字と汚職も増えた。

・危機感を高めた86年に改革派のグエン・バン・リンが「ドイモイ(刷新)」と称する経済改革を開始。
重化学工業偏重政策をあらためつつ、主力産業である農業の民間市場化を進め、もともと南部で盛んであった市場ノウハウも活かして、インフレを克服していった。
さらに80年代末には通貨切り下げや貿易自由化によって石油の輸出も増えた。


・1980年代以降のアメリカの経済社会体制は、従来の労使間の賃金協調と合意(デトロイト条約ベース)が財政面の撤退によって崩れ、入れ替わりにいわゆる「ワシントン・コンセンサス」の局面に入る。
ワシントン・コンセンサスとは、アメリカ政府、世銀、IMF、各地域の開発銀行が支持する「経済社会への新たな諸政策」を指した経済用語。
そこで定義された政策上の転換は、諸国財政の改善、税制の改革、金利自由化、貿易や投資の促進、民営化、所有権法確立にかかる枠組みである(むろんアメリカのみに留まらない。)

・アメリカではジョンソン政権からニクソン政権の時代まで、各種産業への規制を図る委員会活動はむしろ活発で、雇用機会均等委員会、環境保護庁、労働安全衛生局、消費者製品安全委員会などが設立されていた。
これら規制委員会がアメリカの競争力を損ねてしまったとが指摘され続けた結果、70年代の末以降からは「規制緩和」が進み始め、レーガン政権が推し進めることになる。

・アメリカで最も早く規制緩和の対象とされたのが航空輸送で、運賃の自由化、新規参入の自由化が率先され、これら競争激化のあまり大手航空輸送会社が資産売却する次第となった。
トラック輸送も鉄道輸送も、規制緩和が進み自由競争へ。
長く電信電話の事業を独占してきたベル・テレフォン・システムズも、84年には業界の自由競争促進のため分割された。
規制緩和はそのごも進み、最も古い連邦規制機関であった州際通商委員会も95年に廃止。

・規制緩和によって自由競争が激化すれば、それぞれの産業にて事故件数が増えるだろうと予測されたが、事故はむしろ減っていった。
ただし、自由競争によって新規雇用増大がもたらされたケースも、ほとんど無かった。
(なお実際には ─ アメリカでは健康や環境など多様な配慮事由に則り、現在に至るまで規制は総じてむしろ増え続けている。)

・アメリカの貯蓄貸付組合(S&L)は、産業界の規制緩和の進行ために破綻し、これが銀行、証券業界に金融危機をもたらした。
金融業界の規制緩和が、さらに世界の金融危機の重要な原因のひとつとなる。

・レーガン政権の目玉は税制改革でもあり、81年の経済再建税法によって、法人/個人所得の税率を下げて勤労意欲向上をはかった(いわゆるサプライサイドエコノミクスに則った典型的政策)。
その税率は、まだ進行中であったインフレベースの名目所得ではなく、消費者物価指数に応じた実質所得に拠るものとし、さらにキャピタルゲインへの課税率も下げた。

・軍事支出の増加についてはよく指摘されるが、実はアメリカの実質GDPは80年代に減少してしまったため、軍事費は経済成長からの自然増収ではなかった。
なお、アメリカの軍事支出(連邦政府予算における)は、第二次大戦後から朝鮮戦争を経て70年代の初頭まで概ね半分を占めていたが、そのごデタント(緊張緩和)の時勢で減少し、レーガン政権下でさえも25%程度であって歴史的にみれば支出が多いとはいえない。

・レーガン政権下では財政が縮小するどころか、国債とその利払い額が増え続け、財政赤字は毎年3000億ドルにまで膨れ上がる(国債の残高合計は92年には4兆ドルにまで上った。)
もとはメディケアと社会保障への財政支出を削減する積もりであったが、これらもむしろ50%以上も増えてしまった。


・79年~90年までのサッチャーは、20世紀の英国における最も長い政権指導者となり、国有企業の独占事業を次々と民営化、規模を縮小し債務も削減する一方で、株式の売却と多様化も推し進めた。
それら国有企業の半分が、サッチャー政権が終わるころには民営化されていた。

・英国の規制緩和の事例としては、82年の石油・ガス法では、ブリティッシュガスから他の参入事業者へ設備提供を義務付け、83年のエネルギー法では民間産業の余剰電力を電力評議会が買い取るよう義務付けた。
為替管理自由化で、外国と国内双方の証券運用も可能となり、さらに外国資産を直接入手出来るようになった。
消費者の分割購入における信用能力査定も国内に限られなくなったため、この信用供与の国内規制も撤廃された。

・84年の英国の法人税改革では、法人税が50%から35%まで引き下げられ、これが企業活動へのインセンティブと期待された。
が、一方ではサッチャー政権末期の89年から人頭税が導入され、これへの不払い運動が英国各地で起こって地方政府がむしろ減収へ。

・ドイツは東西統一以前から、エネルギー資産のうち石油やガスなどで民営化が進み、EC全体の市場統合にあわせて統一ドイツにおける独占禁止法も整備され、石炭事業や電力事業の民営化も進められていった。
航空輸送ではルフトハンザ社の株式を政府独占から開放し、かつ、民間航空会社の参入も始まり、またドイツの連邦郵便事業も郵便、金融、電気通信の各事業に分割された。

・ドイツ東西統一後にも、ドイツ国鉄の赤字額はドイツ国家歳出の5%を充てるほどの規模。
しかし、日本の国鉄民営化の事例を参考としつつ、94年にドイツ国鉄も民営化、ドイツ鉄道株式会社として新たにスタートし、黒字経営に向けて努力が始まった。

・ 1986年にヨーロッパ主要国間で結ばれたSEA(Single European Act)は、域内のインフラ整備のための基金拡張など宣言の他、域内共通通貨の必要性を強く説き、規制緩和を進めていた西ドイツも対米経済圏を意識してい たフランスも協力的姿勢を示した。
ヨーロッパ市場との利害の強弱から賛成派と反対派に割れた英国などの例はあるにせよ、おおむね欧州の通貨統合/市場統合への動きはドイツ統一、冷戦終結の局面を経ていよいよ進行。

・91年調印のマーストリヒトでの「欧州連合(EU)条約」で共通通貨のプロセスが規定され、99年には「経済・通貨同盟(EMU)」が設立され、共通通貨としてユーロの導入開始。
(実際にはまず論理通貨として決済のみに導入され、それからハードカレンシーとして流通も始まった。)
ユーロの金融政策を担う権限は、ユーロ加盟各国の政府から独立した欧州中央銀行(ECB)が一義的に有しており、この独立性はインフレにズボラな各加盟国の意向に左右されず、欧州中央銀行が常にユーロ通貨を低インフレ率に抑える目的意思を有するため。
ただし、ユーロ各国の中央銀行でもそれぞれ自国独自の金融政策権限は保持している。

・なおEUの政治的な統合は、EU連邦のごときとなるのか、諸国連合に留まるのか、どのような形で実現するのか誰も明確に出来ていない。
ゆえにEU統一憲法も未だ存在しておらず、2007年ブリュッセルで合意された「改革条約」では「憲法の概念は放棄された」と宣言されている。
 

・日米貿易摩擦の略史。
60年代後半から70年代初め、日本からの毛繊維と化合繊維のアメリカへの輸出急増すると、アメリカ側が日方に輸出規制を要求。
ニクソン政権と佐藤政権の間で、沖縄の非核状態での返還を条件においた妥協案など、対米輸出交渉が続く。
ニクソン側が日本へ「対敵取引法」適用し輸入規制を宣言すると、日本側はこれに屈してやむなくアメリカへの輸出自主規制へ。
鉄鋼も、やはり60年代から70年代にかけて日本側の対アメリカ輸出自主規制、84年から92年までは日米鉄鋼協定。
自動車も、81年に対米輸出の自主規制、95年のアメリカ国内における日本メーカの増産計画公表の義務付け。

・一方で、アメリカ側からの日本への市場開放圧力としては、70年代後半の牛肉、オレンジ、80年代のコメ、半導体、スーパーコンピュータ、90年代のフィルムや印画紙、港湾荷役。
関西新空港の建設にあたって、アメリカ企業が参入を要求すると、大型公共事業は国内外企業を無差別起用すべしという論法のもとに、1988年にこれに合意。
半導体は、日本の対米輸出をダンピングと非難しつつも、アメリカから日本への輸入は多国間協議の枠組みをとりつつ認めさせた。



・1980年代以降の途上国の累積債務問題は、オイルショックに端を発している。
もともと先進国による途上国向けの支援は、70年代初めまではODAと直接投資が主流であったが、やがて国際業務の民間銀行による融資が増え始める。 
これら民間銀行は、オイルショックに乗じて増えた産油国の資金をあずかり、その運用先を求めており、高い成長率(利益率)が期待出来そうな途上国への貸付を増やしていくこととなった。

・たとえば中南米の新興工業国は輸出代替工業化をはかり、資本財、石油、食糧を輸入しつつ、自国工業化をはかり輸出を増やしてきたが、オイルショックで輸入額が上昇し、一方では輸出先の先進国が経済成長鈍化して輸入を減らしていた。
それでも新興工業国は工業化と輸出を更に継続するため、国際的な民間銀行からカネ(おもに米ドル)を借り入れた。
尤も、第二次オイルショック以降になると、新興工業国では資本財の輸入価格が更に上昇し、輸出はいよいよふるわなくなって、民間企業は海外に逃避していった。
せっかく借入れてきた米ドルは、債務の元本償還分と利払い分としてまた出て行ってしまい、80年代半ばには利払いすら不可能となってしまった(石油で潤ったはずのヴェネズエラでさえも債務不履行へ。)
しかも、累積債務諸国が破綻するのではという危機意識から、国際相場におけるドル買いドル高が進み、このためドル債務の返済はいよいよ困難となっていった。

・この累積債務問題に民間銀行機関ではもはや対応しきれず、としてIMFが乗り出すことになる。
IMFはドルによる金融救済措置をとる条件として、累積債務諸国に対し、物価インフレの制御かつ物価統制の撤廃、財政赤字の是正、為替レート適正化、金融の自由化などの「安定化政策」を要求(早い話が、先進国とくにアメリカの市場経済スタンダードに適合させたわけ。)
この強引な是正策を受け入れ、累積債務諸国は国際収支だけは改善させたが、実際に救われたのはもともと先進国寄りの豊かな富裕層だけで、低所得者や中間層など弱者は従来の経済機会を失い条件が悪化してしまった。

・IMFへの批判として、世界最大の債務国となっていたアメリカに対してこの「安定化政策」を強要しないのは何故か、と疑義の声もあがった。
しかし、ヨリ本質的な批判として ─ IMFは元来が短期的なドル支援の制度機関ゆえ、途上国の累積債務を長期的にカバーするなどもとより出来るわけがない、むしろ、累積債務諸国を先進国(アメリカ)に長期的に従属させるのが目的だったのだろう、との指摘もある。
実際80年代を通じて、IMF金融支援を受けた中南米の国々は、引き続き経済の停滞と失業増加に苛まれ続けた。

・国際金融機関(投資家)は90年代以降の先進国の景気悪化に際して、高い成長率と利益率を求めてアジアにも進出。
気まぐれな短期の融資を積極的に行うようになった。
やがて、貿易依存かつ累積債務のアジア経済が立ち行かなくなり、諸通貨が大暴落すると、またもIMFが遅れて登場し、経済安定化策を強要することになる。

・97年のタイバーツ大暴落の直因は、もともと為替変動リスク回避のためにドルペッグをとっていたこと(これでドルでの輸出/輸入価格は安定する)、かつ、直前の円安の反動で国際的にドル=バーツ高になっていたことである。
し かし、ヨリ総括的にみれば、タイに強力な産業が存在しなかったこと、それなのに中国との競合のため低価格での輸出競争を続けていたこと、そして93年頃か ら日本の直接投資が中国向けにシフトしたため、タイは短期金融資本を受け入れるしかなかったこと…などがタイ経済の脆弱性の理由。

・そんな状態にて、国際外為相場でタイバーツが売られ始めると、タイ経済の脆さを心配していた誰もがバーツ下落を予想して売り始め、本当にバーツが大暴落してしまった。
(この過程でドルペッグを廃止するなどの諸施策をとるが、バーツ暴落はなおさら進んだこと、周知の通り。)
似たような事情と経緯をたどって、インドネシアルピア、フィリピンペソ、韓国ウォンも大暴落した。
なお、韓国の場合は96年のOECD加盟、貿易/経常赤字と対外債務の増大にも関わらず、債務の政府保証や財閥独占の経済運営など非市場的な施策が続けられていたため、いざウォン通貨が大暴落すると債務返済が不可能となった。
結局、これら諸国もIMFによる経済改善要求と短期金融支援を受け入れることとなった。

・通貨暴落は、98年以降もロシア、ブラジル、アルゼンチン、トルコで起こっているが、これは複合的な要因による経緯でもあるため、発生メカニズムについての「実用性のある議論」は未だに特定されていない。

・ 2007年のサブプライムローン破綻(要するにバブル崩壊)に始まった世界金融危機も、先進国はじめ世界の中央銀行による低金利政策によるものか、諸国民 の貯蓄超過の必然か、アメリカ政府が格付け機関と連携して世界中の貪欲なカネを呼び込んだためか ─ 解釈はまだ統一がなされていない。
ただ、主要国の金融流動性不足から起こった1920~30年代の世界恐慌とくらべ、現行の世界金融危機の原因理由がグローバルかつ多岐に亘るとする以上は、更なる具体的な検証と相応の諸々の対応策が求められる。


以上



2014/05/14

【読書メモ】 現代史の中で考える (文明の動因)

『現代史の中で考える 高坂正堯・著 新潮選書』 
著者の高坂正堯(こうさか・まさたか)氏は我が国最高の国際政治学者として広く知られること、言わずもがなであるが、また一般読者向けにも多くの著作を残されている。
本書は氏が亡くなられた翌年(1997年)に初版発行のものにて、やはりそういう大衆向けの親しみ易い文体のもの。
それでも、情動的な形容表現など極力廃した論旨展開および、そこここに引用された驚くほど多方面の歴史知識にすっかり恐れいってしまうかぎりであり、もはや即答型の豆知識など到底入り込む余地の無い本格派の社会科教養書である。

本書ほか高坂氏による大衆向けの類書は、僕なりに了察する限りでは ─ 科学技術が文明の容量を決定し、一方では自由選択(経済)が文明の保持力を決定し、さらにまた一方では野性の意思(政治)が文明の復元力を決定する ─ という文明の多元的な動因分析を極めているのではないか。
だからこそ、本書における弱体化や衰亡といった主題も、断じて厭世論などではなく、むしろ主幹メッセージのひとつとして、「文明は徐々にしかし確実に変容していく」というものではないか。 

さて、本書掲載のコラムや講演録は、最も新しくて95年のもの、古きは実に79年のものもあり、テーマとして挙げられている事例はイギリスの興亡、旧ソ連の解体と今後、中国と日本の相関、そして日本人論などである。 
とりわけ、「10年」「40年」などといった中期的なタイムスパンにおいて主要プレイヤーが完全に入れ替わる由、しばしば指摘されているところが興味深い。
ゆえに、発刊から10数年経ったからという程度の小さな理由で、本書の是非を評価してよろしいものでもなかろう。 
そこで、とりあえずは特に読み取り易かったイギリスとソ連東欧について、僕なりにいつものように章立てを超えた箇条書きとして以下の【読書メモ】としてブロっておく。

※ 一方で、日本については例えば、『日本が戦時において孤立してしまうのは、国際的な戦闘チームづくりが欧米諸国に比べて下手だから』、 『太平洋戦争中の日本軍は将校がみな逃げ隠れして若い兵隊ばかりが犠牲になった』…といったニュアンスの記述など、政治学者ならではの人間洞察が眩しいほどではあるが、これらは世代間で思い入れの異なる際どい主題でもあり、だから別途あらためて比較引用しようと思う。
※※ ほぼ同時期に高坂氏が遺された新潮選書の『世界史の中から考える』も、概ね同旨のお薦めの一冊である。




・19世紀半ば、イギリスの狭い国土でのコスト高の農産物は、広大なアメリカからの低コストかつ大量の農産物流入に太刀打ち出来なくなったため、イギリスはそれまで自国の農業の既得権益を守ってきた穀物法を廃止。
自国の農業を潰してでも安価な食料を輸入すべきである、というこの措置はそれまでの世界史上例が無い。
もちろん自由貿易も分業も、産業革命による工業化が進んでいたイギリスに有利な経済哲学ではあり、だから偽善ともいえるが、いったん自らが主張したこの原則を自ら率先実行したという点においてイギリスは正当性を主張出来た。

・1840年代はイギリス労働者階級が飢え、ヨーロッパ大陸諸国の市民革命と鎮圧の時代。
にも拘らず、1851年のロンドンにおける第一回万国博覧会は、人類史上初の万国国民による通商・平和目的に則って催され、暴動も無く進行された。
イギリス人の労働者階級の多くは、むしろこの時代から所得も増え、旅行者も増え、スコットランドの多くの古城が見世物用に整備されるほどだった。
カナダに多いステーション・ホテルも、この時代のイギリスの海外旅行ブームに応じて建てられたもの。

・このロンドン万国博覧会は、各出展国のエネルギー(石炭)と鉄の融合による製造技術を広く世界に知らしめることとなった。
さすがに開催国イギリスの展示物件が概ね高得点であったが、鉄鋼部門ではドイツのクルップ社が展示の巨大な鉄塊が最高傑作とされた。
クルップ社の鉄鋼は、イギリスの製鉄技術をもとにしつつ、高熱による鋼鉄溶解を独自に実現しての成果品。
一方、アメリカのマコーミック社が出展した刈り取り機は農業の一斉自動化を約束するもの、そしてホイットニー社が展示の短銃は部品共通化と大量生産の先駆。
つまりこれら製品は、巨大な国土を有するアメリカの農工業大発展の予告編のような展示物であった。
ロンドン万博は大英帝国の絶頂期を演出するとともに、衰亡のきざしでもあったといえる。

・イギリスはよく知られるベッセマー方式により、鉄鋼の大量生産で世界をリード。
尤も、多くの鉄鉱石はリンと硫黄を多く含み、ベッセマー方式ではこの分解能力に限りがあったが、鉄鋼精製に向いた鉄鉱石をスペインから安価に調達したため全体としては損失は少なく、イギリス産業界は大いに投資した。
やはりイギリスの発明家シドニー=トーマスは鉄鉱石からリンと硫黄の分離に成功、これではるかに大量な鉄鋼製造を可能にした、が、既にベッセマー方式技術を採用していたイギリス産業界はトーマスの方式への投資を控えた。
一方、普仏戦争でロレーヌ地方を奪ったドイツは、そこの鉄鉱石の硫黄分が多すぎたため、早速トーマスの方式を大胆に取り入れた。
こうして、イギリス製鉄業はドイツに大きく遅れをとることになった。

・イギリスの産業革命はもともと繊維産業における効率化と動力化から始まり、19世紀を通じて繊維は石炭や鉄鋼とならんで主要な輸出産品でもあった。
しかも既にインドなど植民地も多く、黒字の輸出を維持することが出来た。
だから新規の技術革新も市場開拓もなされず、繊維産業では20世紀に入ってもミュール紡績機が使われ続けた。

・1873年からイギリスはいわゆる景気の「大沈滞時代」に突入。
とはいえ、沈滞したのは価格と利子と利潤だけ、つまり地主と中産階級の不平不満に過ぎなかったというくだらなさ。
(経済学の用語というのは得てしてこんな程度の、投機家たちの憂さ晴らしに過ぎないのか。)
一方で労働者の実質賃金はむしろ向上したため、もちろん(額面としての)労働生産性と製品輸出は伸びなくなった。

・1889年パリの万国博覧会では、エッフェル塔が最大の見世物、これは圧延鋼素材の生成によって実現した建造物であり、白熱灯とアーク灯で飾られた。
さらに、ダイムラーやベンツの自動車も展示されていた。
だがこのころイギリスはまだガス灯で、自動車は一台も製造されていなかった。

・1870年から第一次大戦の終わりまでの期間、イギリスGNPの5%、ロンドンの資本活動の80%が国外投資向け。
これほど長い期間に亘り巨大な国外投資を続けた国は歴史上ほかに例がなく、20世紀半ばのアメリカの水準も超える。
ともあれ、海運産業や保険産業などの安定的な利益や利子によって経常収支全体としては大幅な黒字、こうして国外への投資が積極的に続けられたため、イギリス国内での新規産業技術への投資は相対的に滞ってしまった。

・イギリスは近代以降、欧米での戦争で負けたことはないが、しかし相手を粉砕したこともない。
イギリスが執拗に粘っているうちに、相手の財力や軍事力が底をついて勝手に負けていたというのが真相。
相手がナポレオンでもナチスドイツでも、同じ。
とくに19世紀から20世紀始めまでのヨーロッパ勢力均衡の時代、大英帝国としての陸軍は無く、海軍力だけがヨーロッパで傑出、そして常に強者の側につくも自ら紛争を引き起こすことはなかった(これを、イギリスの光栄ある孤立とも言う)。

・クリミア戦争の最中に即位したアレクサンドル2世の治下、ロシアでは経済政策は効果が無かったが、裁判制度が整い、また大衆出版物が飛躍的に増えた。
ロシア人には法治主義の伝統も、文章化の伝統も根強く、これらの知的能力は共産主義下の時代も保持され、だから現在もロシア人の評価が高い所以である。

・1870年(ビスマルク前夜)から1970年(ニクソンショックやオイルショックのころ)までの100年間は、ドラッカーも指摘しているように、いわゆる「大きな政府」が世界中でもてはやされた特別な期間。
楽観主義と合理主義が政治権力に大いに期待をかけていた(共産主義にさえ期待していた)。
1970年を境に、先進国では概ね「小さな政府」が主流の理念となり、現在に至る。

・第一次大戦で、イギリスは戦費調達のために海外資産を売り、アメリカから借金もしたために利子収入が激減。
さらにイギリスの繊維輸出は、インドの土着産業勃興と日本の技術革新に圧されていった。
イギリスの石炭輸出はドイツの生産力に負け、しかも石炭労働者の賃金だけは上昇し続けたため、労使階級間の対立ばかりが激化することとなった。

・日露戦争が終わってみれば、ロシア帝国は不要な戦艦が沈み、軍隊はヨーロッパに戻り、しかも国内の工業化は最も進展している。
トータルに評価すれば、ロシア帝国が日露戦争で「負けた」という解釈は間違っている。
ただし、第一次世界大戦、ソヴィエトによる共産主義革命、諸外国との干渉戦争を経て、スターリン支配が始まった時点の経済水準はむしろ40分年くらい退行していた。

・ソ連では新経済政策(NEP)で自由な農業の活性化が進んだが、やがて農家が政府の価格統制に従わなくなった。
そこでスターリン政府は農民から強引に土地を接収し、政府指令型の集団農場としたが、政府や共産主義への期待がソ連国内で高かったため、反対運動は潰されてしまった。
このため、ソ連は農業の技術力も営業力もとてつもなく停滞、農産品の輸出国だったはずが輸入国に転落、国内農業の立ち遅れが決定的になった。

・第一次大戦の講和会議に際して、クロアチアはオーストリアから分離独立するため、少数派諸民族によるゆるやかな新連邦国家の形成を旨を提案しようとした。
そこで、とりあえずセルビアと協同して列強へのアピールを図ったが、列強側はセルビアのみと国家創設の交渉をしたため、連邦案は黙殺された。
結果、セルブ=クロアート=スローヴェンという多数派民族主導の統一王国が出来てしまい、それがユーゴスラヴィア連邦という人民共和国として存続したが、少数諸民族の不満は収まることなく続き、20世紀末の大小入り乱れた民族間紛争に至ることとなった。

・(旧)ユーゴなどの小国は、常に悲劇的である。大国が拡大局面にある時は防衛用に併呑されるが、大国に余裕が無くなると今度は切り捨てられるか。
つまり、小国自体の価値は大国には顧慮されず、むしろ大国からいつも粗末に扱われることになる。

・1930年代から40年代までは、世界のどこの農業、工業においても少品種の大量生産が主流であった。
ソ連は計画経済に則り、国ぐるみで少品種の大量生産体制を構築、アメリカやヨーロッパの製品と比べて一見遜色が無かった。
だが70年代以降、多品種の少量生産が世界の産業の主流となると、ソ連の製品はことごとく西側諸国に敗れるようになった。

・イギリス人はもともとビジネスでも軍事でも大組織化を嫌う傾向が強く、吸収合併がなかなか進まないため、巨大企業が組織されにくく、財務能力が小さいまま。(オランダの東インド会社と異なり、イギリスの東インド会社は政府による干渉を拒み続けたこと、世界史の常識だ。)
だからイギリス企業は、一時的な損失覚悟での大量販売には至らず、アメリカ式の大量生産と大量販売にはおいつかない。
また、ドイツは学校教育においてエリートを制度的に科学技術産業に送り込んだが、イギリスでは工業技術はあくまで企業任せで、科学研究が巨大産業と結びつくことはなかった。

・イギリスは、科学研究そのものの水準は高く、たとえばロールス・ロイス社の自動車開発技術は世界最高峰であった。
ロールス・ロイス社は第二次大戦中に自動車の生産を一時停止し、バトル・オブ・ブリテンで有名なスピットファイア戦闘機やランカスター爆撃機の優れたエンジンを開発した。
また、第二次大戦でイギリスの科学研究者たちはレーダーの活用技術を大いに高め、このためイギリス空軍は粘り強い戦闘に耐えることが出来た。
このように一部には傑出した科学技術陣が確かに存在したが、20世紀における規格型の化学産業と電機産業では停滞し、20世紀半ばから経済全般が衰亡することとなった。
(そこでイギリスの傑出した科学技術者たちが大量にアメリカに渡ったことを頭脳流出と称することは誰でも知っている。)

・イギリスの軍事的な強みは、優秀な情報機関によるところも大きい。
或る国や地域にスパイを送り、数世代にも亘ってそこの住民になりきりつつ諜報スパイ活動を継続、たとえば明治維新前夜に薩長側が幕府側より軍事的に勝ると見抜き、日清戦争に際しても兵器は清が上回るが軍事練度をみれば日本が勝つと分析。
なるほど007などはけして空想の産物ではなく、まして文化論などという生易しい話ではない。

・第二次大戦中、イギリス軍の情報機関は、ナチスドイツによるロンドン近郊コヴェントリーへの空襲を、暗号解読によって事前に察知していた。
だがここで市民を一斉に退避させた場合、イギリスの暗号解読能力をドイツ側に知られてしまうことになり、いざ戦争の重大局面においてイギリスが不利になる ─ だからここは無知のふりをしておこうとなり、退避指示がなされなかったコヴェントリの市民はドイツ軍の空爆で死傷。
情報戦とはこのように論理的な非情さが求められるもの。

・かつて揶揄されたいわゆる「英国病」は、長期に亘る経済停滞のこと言わずもがな、利益が改善しないのに福祉国家を標榜したため、賃上げ要求とストライキが活発を極めた。
とりわけ重大な経済停滞要因は、イギリスのそれぞれの職階かつ職能ごとに細かく独立した強力な労働組合の存在。
ここで、ある特定の職能がストに突入すると、他の職能・業種が通常営業しようとしても実質的に運用困難となってしまい、結果的には、その業界全体の一斉ストライキ(と妥結)よりも頻繁に経済活動を停滞させることになった。

・しかも、たとえば石油ショックの真っ最中に炭鉱労働者がストライキを起こし、エネルギー供給がほとんど停止するなど、国家経済全体の意識も希少であるが、これは国家運営は貴族など政治エリートに一任したのだから我らには関係ないという階層観によるもの。

・更に、国家の福祉サービス化が進んだため、非市場部門(非生産部門)への産業シフトがどんどん進行し、その維持のため財政施策として市場部門(生産部門)からヨリ多くのカネを徴収、だから市場部門は投資も雇用も滞り、ハードウェアとしての生産物が質も量も減衰する一方となった。
もちろん現代文明の全てにおいて起こりうる悪循環である。

・イギリスの議会政治は民主主義の最高峰のように言われるが、実際には議会主義は平民がおのれの政治権限を特権貴族リーダーに委譲するシステムであって、民主主義の理想的な体現ではない。
また、法治主義さえ貫かれていれば、たとえ貴族政治であっても意思決定は正当といえる。
たとえばイギリスのEC加盟は、世論調査では反対多数であったが、議会では圧倒多数で可決された。
とはいえ貴族のリーダーたちも、選挙権の大衆化や細かく分立した組合との競合において次第に行動力を失い、ゆえに国家としてのイギリスが衰退し続けている。
(※ なお、最高裁の独立設置、但し違憲審査権は有せず、といった過去数年のトピックは本書では触れていない。)

・東西の冷戦は、通常の戦争よりも諸国民の犠牲は遥かに小さく、一方で政府の負担は福祉サービスの拡大などで増大する一方だった。
ゆえに、冷戦を優位に展開したにも拘らず、西側諸国で政府の規模が大きく問われることになった。

・どんな国際政治の体系も、40年以上続くと再調整の局面に至る。
国際政治体系として一番長く続いたのが、普仏戦争以降のドイツ帝国と諸外国との勢力均衡時代であったが、それも第一次大戦で破綻した。
また、第二次大戦が終わって40年以上が経過すると、頑固なゴルバチョフが登場、ソ連の刷新に頑張り過ぎた結果、却って東西冷戦体制を終焉に向かわせることになった。

・更に俯瞰すれば、ヨーロッパでは19世紀末から覇権争奪戦が続けられてきたが、第二次大戦においては一貫して領域と勢力範囲を拡大したソ連だけが、「自身の力のみ」で勝ち残った格好となった。
ところがそのソ連の崩壊によって、ヨーロッパからはこの100年間を勝ち残った者がいなくなってしまった。
ソ連崩壊前夜の軍事保守派によるクーデタは、おのれの軍事的な貢献がゴルバチョフに裏切られたと感じたからではないか。

・ソ連が崩壊した以上、ヨーロッパにおける一貫した強者は東西統一していたドイツだけとなった。
ゆえに、科学技術・経済・政治のほとんどはヨーロッパの2強国であるドイツとロシアの調整問題となる。
もともと西ドイツの諸政党は冷戦時には対ソ連の意識から中道路線をとっていたが、ドイツ統一と冷戦終結ののち、国内の経済問題、移民問題が最重要課題となったため、むしろ政党間の左右のバラつきが大きくなった。
そうなるとドイツは、経済ではヨーロッパを引っ張るが、外交ではヨーロッパをバラつかせることになるか。

・ソ連は面積と人口において、過剰なまでに巨大になりすぎたといえ、だから分解と収縮も激しくなった。
しかも、ゴルバチョフ弱体化を図った保守派クーデタの事件で、ロシア共和国の力が強くなりすぎた。
そのため、バルト三国やモルドヴァが分離独立。
そのご、CISにおいてはロシア共和国と張り合える国家も連携も無い。
ウクライナがCISに残留しているが、ほか、とりあえず残留しているのは自力独立すら出来ないような貧しい国々ばかりとなった。

・連邦国家の場合、中央と諸国の権限分界の設定が難しく、だから連邦の憲法はなかなか統一したものとはなりにくい。
アメリカ合衆国憲法は連邦政府の行政権限までは具体的に定義していないし、カナダには連邦として完全に一本化された憲法は存在していない。)
なお、アメリカが大国である理由は、本当に重要な局面において、法律の文面を超えた政治的な大原則を以て意思決定を為すためではないか。
もちろん、法律に何を記すかより、何を記さずに済ますかの方が政治的に高度な調整問題である。

・途上国でナショナリズムが外交問題と結びついて高揚するのは、いくら騒いでも具体的な効果が無いと分かっているからこそ。
一方、先進国では経済上の効果的な選択肢が多いため、ナショナリズムで熱狂することはない。
東西冷戦が終結してから、先進国と途上国の関わり合いが格段に増えたが、そうなるとナショナリズムによる外交の温度差も国ごとに現れるのはやむなし。

・(上記の箇条書きに追記し、高坂氏の論説がしばしば既定の学術通念を超えてきた一例として、卓絶した見解を記す。)
貯蓄の「動機」そのものを経済学で説明することは出来ない。
貯蓄の動機は、現行金利など合理的な判断情報に則った選択行為ではなく、あくまで将来世代への期待感に基づくに過ぎない。
ゆえに、経済学ではなく道徳文化から分析しなければならない。


以上