2014/05/14

【読書メモ】 現代史の中で考える (文明の動因)

『現代史の中で考える 高坂正堯・著 新潮選書』 
著者の高坂正堯(こうさか・まさたか)氏は我が国最高の国際政治学者として広く知られること、言わずもがなであるが、また一般読者向けにも多くの著作を残されている。
本書は氏が亡くなられた翌年(1997年)に初版発行のものにて、やはりそういう大衆向けの親しみ易い文体のもの。
それでも、情動的な形容表現など極力廃した論旨展開および、そこここに引用された驚くほど多方面の歴史知識にすっかり恐れいってしまうかぎりであり、もはや即答型の豆知識など到底入り込む余地の無い本格派の社会科教養書である。

本書ほか高坂氏による大衆向けの類書は、僕なりに了察する限りでは ─ 科学技術が文明の容量を決定し、一方では自由選択(経済)が文明の保持力を決定し、さらにまた一方では野性の意思(政治)が文明の復元力を決定する ─ という文明の多元的な動因分析を極めているのではないか。
だからこそ、本書における弱体化や衰亡といった主題も、断じて厭世論などではなく、むしろ主幹メッセージのひとつとして、「文明は徐々にしかし確実に変容していく」というものではないか。 

さて、本書掲載のコラムや講演録は、最も新しくて95年のもの、古きは実に79年のものもあり、テーマとして挙げられている事例はイギリスの興亡、旧ソ連の解体と今後、中国と日本の相関、そして日本人論などである。 
とりわけ、「10年」「40年」などといった中期的なタイムスパンにおいて主要プレイヤーが完全に入れ替わる由、しばしば指摘されているところが興味深い。
ゆえに、発刊から10数年経ったからという程度の小さな理由で、本書の是非を評価してよろしいものでもなかろう。 
そこで、とりあえずは特に読み取り易かったイギリスとソ連東欧について、僕なりにいつものように章立てを超えた箇条書きとして以下の【読書メモ】としてブロっておく。

※ 一方で、日本については例えば、『日本が戦時において孤立してしまうのは、国際的な戦闘チームづくりが欧米諸国に比べて下手だから』、 『太平洋戦争中の日本軍は将校がみな逃げ隠れして若い兵隊ばかりが犠牲になった』…といったニュアンスの記述など、政治学者ならではの人間洞察が眩しいほどではあるが、これらは世代間で思い入れの異なる際どい主題でもあり、だから別途あらためて比較引用しようと思う。
※※ ほぼ同時期に高坂氏が遺された新潮選書の『世界史の中から考える』も、概ね同旨のお薦めの一冊である。




・19世紀半ば、イギリスの狭い国土でのコスト高の農産物は、広大なアメリカからの低コストかつ大量の農産物流入に太刀打ち出来なくなったため、イギリスはそれまで自国の農業の既得権益を守ってきた穀物法を廃止。
自国の農業を潰してでも安価な食料を輸入すべきである、というこの措置はそれまでの世界史上例が無い。
もちろん自由貿易も分業も、産業革命による工業化が進んでいたイギリスに有利な経済哲学ではあり、だから偽善ともいえるが、いったん自らが主張したこの原則を自ら率先実行したという点においてイギリスは正当性を主張出来た。

・1840年代はイギリス労働者階級が飢え、ヨーロッパ大陸諸国の市民革命と鎮圧の時代。
にも拘らず、1851年のロンドンにおける第一回万国博覧会は、人類史上初の万国国民による通商・平和目的に則って催され、暴動も無く進行された。
イギリス人の労働者階級の多くは、むしろこの時代から所得も増え、旅行者も増え、スコットランドの多くの古城が見世物用に整備されるほどだった。
カナダに多いステーション・ホテルも、この時代のイギリスの海外旅行ブームに応じて建てられたもの。

・このロンドン万国博覧会は、各出展国のエネルギー(石炭)と鉄の融合による製造技術を広く世界に知らしめることとなった。
さすがに開催国イギリスの展示物件が概ね高得点であったが、鉄鋼部門ではドイツのクルップ社が展示の巨大な鉄塊が最高傑作とされた。
クルップ社の鉄鋼は、イギリスの製鉄技術をもとにしつつ、高熱による鋼鉄溶解を独自に実現しての成果品。
一方、アメリカのマコーミック社が出展した刈り取り機は農業の一斉自動化を約束するもの、そしてホイットニー社が展示の短銃は部品共通化と大量生産の先駆。
つまりこれら製品は、巨大な国土を有するアメリカの農工業大発展の予告編のような展示物であった。
ロンドン万博は大英帝国の絶頂期を演出するとともに、衰亡のきざしでもあったといえる。

・イギリスはよく知られるベッセマー方式により、鉄鋼の大量生産で世界をリード。
尤も、多くの鉄鉱石はリンと硫黄を多く含み、ベッセマー方式ではこの分解能力に限りがあったが、鉄鋼精製に向いた鉄鉱石をスペインから安価に調達したため全体としては損失は少なく、イギリス産業界は大いに投資した。
やはりイギリスの発明家シドニー=トーマスは鉄鉱石からリンと硫黄の分離に成功、これではるかに大量な鉄鋼製造を可能にした、が、既にベッセマー方式技術を採用していたイギリス産業界はトーマスの方式への投資を控えた。
一方、普仏戦争でロレーヌ地方を奪ったドイツは、そこの鉄鉱石の硫黄分が多すぎたため、早速トーマスの方式を大胆に取り入れた。
こうして、イギリス製鉄業はドイツに大きく遅れをとることになった。

・イギリスの産業革命はもともと繊維産業における効率化と動力化から始まり、19世紀を通じて繊維は石炭や鉄鋼とならんで主要な輸出産品でもあった。
しかも既にインドなど植民地も多く、黒字の輸出を維持することが出来た。
だから新規の技術革新も市場開拓もなされず、繊維産業では20世紀に入ってもミュール紡績機が使われ続けた。

・1873年からイギリスはいわゆる景気の「大沈滞時代」に突入。
とはいえ、沈滞したのは価格と利子と利潤だけ、つまり地主と中産階級の不平不満に過ぎなかったというくだらなさ。
(経済学の用語というのは得てしてこんな程度の、投機家たちの憂さ晴らしに過ぎないのか。)
一方で労働者の実質賃金はむしろ向上したため、もちろん(額面としての)労働生産性と製品輸出は伸びなくなった。

・1889年パリの万国博覧会では、エッフェル塔が最大の見世物、これは圧延鋼素材の生成によって実現した建造物であり、白熱灯とアーク灯で飾られた。
さらに、ダイムラーやベンツの自動車も展示されていた。
だがこのころイギリスはまだガス灯で、自動車は一台も製造されていなかった。

・1870年から第一次大戦の終わりまでの期間、イギリスGNPの5%、ロンドンの資本活動の80%が国外投資向け。
これほど長い期間に亘り巨大な国外投資を続けた国は歴史上ほかに例がなく、20世紀半ばのアメリカの水準も超える。
ともあれ、海運産業や保険産業などの安定的な利益や利子によって経常収支全体としては大幅な黒字、こうして国外への投資が積極的に続けられたため、イギリス国内での新規産業技術への投資は相対的に滞ってしまった。

・イギリスは近代以降、欧米での戦争で負けたことはないが、しかし相手を粉砕したこともない。
イギリスが執拗に粘っているうちに、相手の財力や軍事力が底をついて勝手に負けていたというのが真相。
相手がナポレオンでもナチスドイツでも、同じ。
とくに19世紀から20世紀始めまでのヨーロッパ勢力均衡の時代、大英帝国としての陸軍は無く、海軍力だけがヨーロッパで傑出、そして常に強者の側につくも自ら紛争を引き起こすことはなかった(これを、イギリスの光栄ある孤立とも言う)。

・クリミア戦争の最中に即位したアレクサンドル2世の治下、ロシアでは経済政策は効果が無かったが、裁判制度が整い、また大衆出版物が飛躍的に増えた。
ロシア人には法治主義の伝統も、文章化の伝統も根強く、これらの知的能力は共産主義下の時代も保持され、だから現在もロシア人の評価が高い所以である。

・1870年(ビスマルク前夜)から1970年(ニクソンショックやオイルショックのころ)までの100年間は、ドラッカーも指摘しているように、いわゆる「大きな政府」が世界中でもてはやされた特別な期間。
楽観主義と合理主義が政治権力に大いに期待をかけていた(共産主義にさえ期待していた)。
1970年を境に、先進国では概ね「小さな政府」が主流の理念となり、現在に至る。

・第一次大戦で、イギリスは戦費調達のために海外資産を売り、アメリカから借金もしたために利子収入が激減。
さらにイギリスの繊維輸出は、インドの土着産業勃興と日本の技術革新に圧されていった。
イギリスの石炭輸出はドイツの生産力に負け、しかも石炭労働者の賃金だけは上昇し続けたため、労使階級間の対立ばかりが激化することとなった。

・日露戦争が終わってみれば、ロシア帝国は不要な戦艦が沈み、軍隊はヨーロッパに戻り、しかも国内の工業化は最も進展している。
トータルに評価すれば、ロシア帝国が日露戦争で「負けた」という解釈は間違っている。
ただし、第一次世界大戦、ソヴィエトによる共産主義革命、諸外国との干渉戦争を経て、スターリン支配が始まった時点の経済水準はむしろ40分年くらい退行していた。

・ソ連では新経済政策(NEP)で自由な農業の活性化が進んだが、やがて農家が政府の価格統制に従わなくなった。
そこでスターリン政府は農民から強引に土地を接収し、政府指令型の集団農場としたが、政府や共産主義への期待がソ連国内で高かったため、反対運動は潰されてしまった。
このため、ソ連は農業の技術力も営業力もとてつもなく停滞、農産品の輸出国だったはずが輸入国に転落、国内農業の立ち遅れが決定的になった。

・第一次大戦の講和会議に際して、クロアチアはオーストリアから分離独立するため、少数派諸民族によるゆるやかな新連邦国家の形成を旨を提案しようとした。
そこで、とりあえずセルビアと協同して列強へのアピールを図ったが、列強側はセルビアのみと国家創設の交渉をしたため、連邦案は黙殺された。
結果、セルブ=クロアート=スローヴェンという多数派民族主導の統一王国が出来てしまい、それがユーゴスラヴィア連邦という人民共和国として存続したが、少数諸民族の不満は収まることなく続き、20世紀末の大小入り乱れた民族間紛争に至ることとなった。

・(旧)ユーゴなどの小国は、常に悲劇的である。大国が拡大局面にある時は防衛用に併呑されるが、大国に余裕が無くなると今度は切り捨てられるか。
つまり、小国自体の価値は大国には顧慮されず、むしろ大国からいつも粗末に扱われることになる。

・1930年代から40年代までは、世界のどこの農業、工業においても少品種の大量生産が主流であった。
ソ連は計画経済に則り、国ぐるみで少品種の大量生産体制を構築、アメリカやヨーロッパの製品と比べて一見遜色が無かった。
だが70年代以降、多品種の少量生産が世界の産業の主流となると、ソ連の製品はことごとく西側諸国に敗れるようになった。

・イギリス人はもともとビジネスでも軍事でも大組織化を嫌う傾向が強く、吸収合併がなかなか進まないため、巨大企業が組織されにくく、財務能力が小さいまま。(オランダの東インド会社と異なり、イギリスの東インド会社は政府による干渉を拒み続けたこと、世界史の常識だ。)
だからイギリス企業は、一時的な損失覚悟での大量販売には至らず、アメリカ式の大量生産と大量販売にはおいつかない。
また、ドイツは学校教育においてエリートを制度的に科学技術産業に送り込んだが、イギリスでは工業技術はあくまで企業任せで、科学研究が巨大産業と結びつくことはなかった。

・イギリスは、科学研究そのものの水準は高く、たとえばロールス・ロイス社の自動車開発技術は世界最高峰であった。
ロールス・ロイス社は第二次大戦中に自動車の生産を一時停止し、バトル・オブ・ブリテンで有名なスピットファイア戦闘機やランカスター爆撃機の優れたエンジンを開発した。
また、第二次大戦でイギリスの科学研究者たちはレーダーの活用技術を大いに高め、このためイギリス空軍は粘り強い戦闘に耐えることが出来た。
このように一部には傑出した科学技術陣が確かに存在したが、20世紀における規格型の化学産業と電機産業では停滞し、20世紀半ばから経済全般が衰亡することとなった。
(そこでイギリスの傑出した科学技術者たちが大量にアメリカに渡ったことを頭脳流出と称することは誰でも知っている。)

・イギリスの軍事的な強みは、優秀な情報機関によるところも大きい。
或る国や地域にスパイを送り、数世代にも亘ってそこの住民になりきりつつ諜報スパイ活動を継続、たとえば明治維新前夜に薩長側が幕府側より軍事的に勝ると見抜き、日清戦争に際しても兵器は清が上回るが軍事練度をみれば日本が勝つと分析。
なるほど007などはけして空想の産物ではなく、まして文化論などという生易しい話ではない。

・第二次大戦中、イギリス軍の情報機関は、ナチスドイツによるロンドン近郊コヴェントリーへの空襲を、暗号解読によって事前に察知していた。
だがここで市民を一斉に退避させた場合、イギリスの暗号解読能力をドイツ側に知られてしまうことになり、いざ戦争の重大局面においてイギリスが不利になる ─ だからここは無知のふりをしておこうとなり、退避指示がなされなかったコヴェントリの市民はドイツ軍の空爆で死傷。
情報戦とはこのように論理的な非情さが求められるもの。

・かつて揶揄されたいわゆる「英国病」は、長期に亘る経済停滞のこと言わずもがな、利益が改善しないのに福祉国家を標榜したため、賃上げ要求とストライキが活発を極めた。
とりわけ重大な経済停滞要因は、イギリスのそれぞれの職階かつ職能ごとに細かく独立した強力な労働組合の存在。
ここで、ある特定の職能がストに突入すると、他の職能・業種が通常営業しようとしても実質的に運用困難となってしまい、結果的には、その業界全体の一斉ストライキ(と妥結)よりも頻繁に経済活動を停滞させることになった。

・しかも、たとえば石油ショックの真っ最中に炭鉱労働者がストライキを起こし、エネルギー供給がほとんど停止するなど、国家経済全体の意識も希少であるが、これは国家運営は貴族など政治エリートに一任したのだから我らには関係ないという階層観によるもの。

・更に、国家の福祉サービス化が進んだため、非市場部門(非生産部門)への産業シフトがどんどん進行し、その維持のため財政施策として市場部門(生産部門)からヨリ多くのカネを徴収、だから市場部門は投資も雇用も滞り、ハードウェアとしての生産物が質も量も減衰する一方となった。
もちろん現代文明の全てにおいて起こりうる悪循環である。

・イギリスの議会政治は民主主義の最高峰のように言われるが、実際には議会主義は平民がおのれの政治権限を特権貴族リーダーに委譲するシステムであって、民主主義の理想的な体現ではない。
また、法治主義さえ貫かれていれば、たとえ貴族政治であっても意思決定は正当といえる。
たとえばイギリスのEC加盟は、世論調査では反対多数であったが、議会では圧倒多数で可決された。
とはいえ貴族のリーダーたちも、選挙権の大衆化や細かく分立した組合との競合において次第に行動力を失い、ゆえに国家としてのイギリスが衰退し続けている。
(※ なお、最高裁の独立設置、但し違憲審査権は有せず、といった過去数年のトピックは本書では触れていない。)

・東西の冷戦は、通常の戦争よりも諸国民の犠牲は遥かに小さく、一方で政府の負担は福祉サービスの拡大などで増大する一方だった。
ゆえに、冷戦を優位に展開したにも拘らず、西側諸国で政府の規模が大きく問われることになった。

・どんな国際政治の体系も、40年以上続くと再調整の局面に至る。
国際政治体系として一番長く続いたのが、普仏戦争以降のドイツ帝国と諸外国との勢力均衡時代であったが、それも第一次大戦で破綻した。
また、第二次大戦が終わって40年以上が経過すると、頑固なゴルバチョフが登場、ソ連の刷新に頑張り過ぎた結果、却って東西冷戦体制を終焉に向かわせることになった。

・更に俯瞰すれば、ヨーロッパでは19世紀末から覇権争奪戦が続けられてきたが、第二次大戦においては一貫して領域と勢力範囲を拡大したソ連だけが、「自身の力のみ」で勝ち残った格好となった。
ところがそのソ連の崩壊によって、ヨーロッパからはこの100年間を勝ち残った者がいなくなってしまった。
ソ連崩壊前夜の軍事保守派によるクーデタは、おのれの軍事的な貢献がゴルバチョフに裏切られたと感じたからではないか。

・ソ連が崩壊した以上、ヨーロッパにおける一貫した強者は東西統一していたドイツだけとなった。
ゆえに、科学技術・経済・政治のほとんどはヨーロッパの2強国であるドイツとロシアの調整問題となる。
もともと西ドイツの諸政党は冷戦時には対ソ連の意識から中道路線をとっていたが、ドイツ統一と冷戦終結ののち、国内の経済問題、移民問題が最重要課題となったため、むしろ政党間の左右のバラつきが大きくなった。
そうなるとドイツは、経済ではヨーロッパを引っ張るが、外交ではヨーロッパをバラつかせることになるか。

・ソ連は面積と人口において、過剰なまでに巨大になりすぎたといえ、だから分解と収縮も激しくなった。
しかも、ゴルバチョフ弱体化を図った保守派クーデタの事件で、ロシア共和国の力が強くなりすぎた。
そのため、バルト三国やモルドヴァが分離独立。
そのご、CISにおいてはロシア共和国と張り合える国家も連携も無い。
ウクライナがCISに残留しているが、ほか、とりあえず残留しているのは自力独立すら出来ないような貧しい国々ばかりとなった。

・連邦国家の場合、中央と諸国の権限分界の設定が難しく、だから連邦の憲法はなかなか統一したものとはなりにくい。
アメリカ合衆国憲法は連邦政府の行政権限までは具体的に定義していないし、カナダには連邦として完全に一本化された憲法は存在していない。)
なお、アメリカが大国である理由は、本当に重要な局面において、法律の文面を超えた政治的な大原則を以て意思決定を為すためではないか。
もちろん、法律に何を記すかより、何を記さずに済ますかの方が政治的に高度な調整問題である。

・途上国でナショナリズムが外交問題と結びついて高揚するのは、いくら騒いでも具体的な効果が無いと分かっているからこそ。
一方、先進国では経済上の効果的な選択肢が多いため、ナショナリズムで熱狂することはない。
東西冷戦が終結してから、先進国と途上国の関わり合いが格段に増えたが、そうなるとナショナリズムによる外交の温度差も国ごとに現れるのはやむなし。

・(上記の箇条書きに追記し、高坂氏の論説がしばしば既定の学術通念を超えてきた一例として、卓絶した見解を記す。)
貯蓄の「動機」そのものを経済学で説明することは出来ない。
貯蓄の動機は、現行金利など合理的な判断情報に則った選択行為ではなく、あくまで将来世代への期待感に基づくに過ぎない。
ゆえに、経済学ではなく道徳文化から分析しなければならない。


以上