2014/09/23

【読書メモ】 「理科」で歴史を読みなおす

今の学生はものを知らない、と巷間の大人たちが囂しい ─ こともあるが、本当にそうだろうか。
僕はここしばらく、高校生たちに必ず問いかける質問がいくつかある。
その中のひとつ、「なぜ鉄という金属が文明史において重要だったのか?」
この問いかけに、ほとんどの学生が大雑把ながらもちゃんと答えることが出来る ─ 曰く、加工が自在だから、いわく、武器にも通貨にも建材にもなるから、いわく、そういう技術知識を独占できるから、などなど。
こういう「業際性」の高い基礎教養においてこそ、教育水準の向上ないし低下が測られるべきである。 
僕自身の社会人生活を通した直観においても、あらゆる素材の取引効率化は進む一方、よって、いかなる実体も(情報も)、諸要素への分解と新規組み換えあってこそ楽しみは尽きない。

さて、此度紹介する本は、みごと日本史についての本にして、しかしながら着眼点はおおむね諸事実の分解と組み換え、つまりは理科型のダイナミズムにおかれている。
タイトルはズバリ、 『 「理科」で歴史を読みなおす 伊達宗行・著 ちくま新書 』
理科の歴史ではなく、理科「で」歴史を解き明かす旨の本である。
鉄についてちょっと触れかけたが、本書は主として日本の古代以来の天文学、数学、文字、農業、金属、建築などを題材に、それらの進展や変容につき歴史事実と交錯させつつ新解釈に挑むもの。
コンパクトな体裁ながらも、かなり野心的な快作である。
2010年4月に第一刷にて、すでに4年が経過、なるほど新事実の発見続く昨今ではあるものの、我々自身かかる実証的な時代局面におればこそ、大胆な推察と冷徹な現実との併走を楽しむ理科型スリルはいよいよ尽きることがない。

そこで今回の【読書メモ】として、僕なりの箇条書きを以下のとおり投稿する。
とくに、ハードなリアリズムの分野すなわち(貴)金属/工業の事項に絞り、これらを経済史や財政史の重大な動因として紹介してみたい



・「鉄」という言葉の語源から察するに、古代インド=ヨーロッパ語の分裂(たとえば英語とドイツ語、フランス語とスペイン語)は、今から約3500年前。
つまり、おそらく鉄の発見以前。

また、人間は少なくとも鉄より先に磁石の存在を知っていた。
今から4000~5000年前とされ、やはり「磁石」という語源と言語史を重ね合わせれば分かることである。
隕石による磁石が知られていたのか、分からないが。

・(隕石における隕鉄の説を別とすれば、)古代人はまず銅を発見し、のちに鉄を発見した。
金属としての銅の融点は1083℃で、鉄は1530℃であり、炭火のような還元性の高い火中では銅の方が見つけ易い。
さらに、青銅といっても銅に錫を10%くらい含入したもの、特性はずっと単純である。

一方、製鉄は極めて高度な技術であり、炭素量や熱によって様々な性質が現れ、叩いて鍛えた素材と冷やして固めた鋳物でも違うし、磁気もある ─ つまり、鉄は性質、品質、用途による様々な「作り分け」が可能。
しかしこれゆえに、鉄の実用化に際してはその社会組織も高度な分業が(つまり政治制度が)存在しなければならない。

・古代世界において、鉄の実用技術はどのくらいの速度で異文明へと伝播していったのか?
おもしろい試算が出来る。
仮に、ヒッタイト人が紀元前1500年に、鉄の実用によるオリエント征服で絶頂期にあったとする。
この実業技術を古代中国の周が何らかの手段で学び、最近の研究に則ってこれを紀元前1000年とする。
この技術の日本(九州)への伝播が紀元前500年とする。
これが現在の青森県に伝播したのが、原初的な稲作伝播と同時期として、紀元前100年とおく。
これらを、距離によって速度化してみると ─ ヒッタイトから周までは1年に10km、それを受け継いた中国王朝から九州までは1年に4km、さらに青森までも1年に4kmとなる。

意外なことに、この鉄の技術伝播は青銅よりも速いのである。
鉄の製造/実用化の難しさにも関わらず、実用性に古代人が大いに着目していたためであろう。
(ちなみに、青銅の実用技術が古代オリエントから北欧に伝播した速度は、同じ古代オリエントから日本に伝播した速度と同じ。)
※ このような数値化や論理化は本書随所に見られるが、これこそ本書を読み進める上での最高の醍醐味でもある。

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・縄文時代の末期は寒冷期であったが、弥生時代に入ると温暖期となる。
紀元前100年ごろ、北海道をのぞく日本列島のほとんどは(現在の青森県にいたるまで)、原初的な稲作がなされていた。
当時は稲の耐寒品種など無かったのだから、日本列島はかなり温暖だったのだろうと想定出来る。
ところが弥生時代中期以降は、古墳時代にかけて、かなりの寒冷化が進み、東北地方の稲作はいったん壊滅してしまう。
一方で、東北地方では北海道文化圏の土器が急増している。
やがて、鉄器の時代にいたり、日本列島から石器が無くなっていく。

…といった断片事実から、「推察」されること。
東北北部が縄文晩期(亀ケ岡文化)のころ、九州~西日本ではかなりの弥生人が鉄を入手していた、が、鉄による武器製造の段階には至っていなかった。
稲作は、栽培方法は未熟ながらも東方に拡散していった。
さて弥生時代中期に寒冷化が起こると、東北の縄文系人は南下を始め、北海道からはアイヌ系人がアザラシやオットセイを追って東北地方に南下。
日本列島で稲作が大縮小の局面にいたり、次第に食糧めぐって争いが激化。
このころ西日本では鉄による武器製造が可能となったので(急がれたので?)、ついに魏志倭人伝によるところの「倭国大乱」、そして鉄器の時代へ。

さらに、このような縄文人の大移動、弥生人との平和的混交や大争乱を可能としたのは標準語と各地方語の使い分け能力ではないか ─ つまり当時の人々はバイリンガルであったとも考えられる。
(※ そういえばローマ末期に南下してきたゲルマン人も、ラテン語をしゃべることが出来たとか、別の本で読んだことがある。) 

・ところで日本の古墳時代まで、刀剣類は大陸からの伝来であり、すべて直刀であり(反りが無く)、朝鮮経由で入ってきた大和鍛冶という技術集団が日本でも直刀をつくっていた。
しかし時代が下ると、これとは別に渤海の流れをくむ「舞草」という鍛冶集団が奥州におり、最初の太刀はこの集団が製造した。
※ 渤海とは、満州系と高句麗系の民族が建てた国、唐と対立しまた交易しながら栄えた。
のちの日本刀につながる太刀の原型は、平将門の時代あたり、このへんから反りの入った刀となる。
平泉の藤原氏三代が滅亡すると、奥州の鍛冶集団は消滅、刀工たちは武将に連れ去られて日本各地へ。
ここから有名な鍛冶集団である「備前長船」があらわれ、さらに鎌倉時代に入ると、相模国の鎌倉鍛冶から「正宗」があらわれた。

・なお、匈奴やモンゴルの騎馬帝国は、馬のひずめに打ち込んだ馬蹄鉄によって馬の駆動力が向上したがゆえの実現であった。

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・金(gold)は、いつの時代でも、ほぼ如何なる民族集団によっても、極めて高価な金属とされてきた。
しかし謎も多い。
たとえば、古代オリエントやエジプトは金(gold)を重宝し、通貨の素材ともされていたが、金の採掘方法がどのようにアジアに伝わったのか、いや伝わってすらおらず世界各地で独自に採掘されてきたのか、判然とはしていない。
(※ それにも関わらず、たとえば古代ローマのコンスタンティヌス帝のころには、ソリドゥスという単位金貨が地中海世界の基軸通貨されている。)

・周知のとおり、金、銀、銅は(電子の層数は異なるが)いずれも最外殻電子が1つ、ゆえにこれら3つの金属は鉱石に混在する場合が多く、逆に意図的に混在させることも容易。
これらの分離には高度な技術が求められる。
(なお、普通は重金属ほど銀黒色となるが、金は最も重金属であるにも拘らず小金色であり、この理由は相対性理論で説明出来る。)

・およそ2600万年前、大陸から分離して日本列島が形成されるさいの火山活動の過程で、日本列島のとくに内側(つまり日本海側)に火山灰の堆積がさかん、これが緑色凝灰岩となった。
この凝灰岩の地殻下に在るプレートがマグマを発生、それが凝灰岩を溶かし固化する過程で、岩石成分が分離凝縮され、多彩な鉱物が分離晶出した。
水と反応して有用金属や化合物の熱水析出もおこった。

これらにより、日本は鉱物資源に恵まれ、とくに鉱山は日本海側に多く、また金、銀、銅の鉱石は硫化物と酸化物が多い。
尤も、日本列島は地質学的に入り組んだ構造なので、大陸ほどの大規模な鉱床は出来にくい。
なお、金は化学反応性が低いので、熱水析出は少なく、花崗岩において純金属として存在、これが崩壊し風化したのが砂金である。

・縄文時代、ヒスイは糸魚川流域、コハクは現在でいう岩手県久慈が主要産地であり、日本各地に流通していた、が、縄文時代を通じてほぼ採掘され尽くしてしまったとされる。
一方、やはり縄文時代、黒曜石は伊豆の神津島、信州霧ヶ峰、壱岐、北海道が産地であり、海を渡ってまでも広域の大流通が行われていた。
黒曜石の物流コストは極めて大きかったため、採掘され尽くすには至らず、そのうち石器時代がおわり、歴史がくだって今日でもその鉱脈は残っている。
石油が固化して出来たのが瀝青(アスファルト)だが、これは今でいう秋田から新潟にかけてが産地であり、接着、硬化の材料に使われていた。

・そんな具合にヒスイやコハクを装身具としていた縄文人だが、なぜか金(gold)を発見しなかったとされる。
あるいは金なしいは砂金を発見はしたものの、特別な価値を見出さなかったのか。
ともかく、魏志倭人伝にも金の採掘や流通の記録はない。

・聖武天皇が奈良の大仏を建立させていたころ、陸奥国における(現在の)仙台平野上流あたり、湧台というところで、百済王敬福が砂金の鉱脈を発見。
この人物は名のとおり百済人で、朝鮮半島での砂金発掘ノウハウを活かしてのことであったろう、ともかくもこの湧台の砂金発見は日本中に知られるところとなる。
そして、水銀とのアマルガム技術による「金箔」が、奈良の大仏にメッキされるにいたった。
しばらくのちの9世紀初め、遣唐使船で出立した空海は、資産として砂金を持参しており、金が既に日中間で通貨価値を有していたのだろうと察せられる。

さらに時代が下るにつれ、まず西日本の砂金が掘り尽くされ、一方で東日本では武士が砂金を財源として発展し、武家政権確立にいたる。

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・銅は弥生時代前期から素材を大陸から持ち込みつつも、日本で純銅と錫を加熱、溶解して独自の青銅素材を得ていた。
ただ、もともとこの技術にも北方アジア系と大陸系のルーツがあり、それらが朝鮮半島経由で伝わったともされる。

銅鐸は、とくに日本独自の製法で作られたとされるが、金属技術集団であった物部氏の勢力圏つまり畿内に集中しており、九州には無く、大陸や朝鮮にも無い。
物部氏が神武天皇に降伏し、銅鐸の技術(文化)を放棄したとも考えられる。

・708年、武蔵国の秩父で銅鉱が発見され、政府は元号を和銅とあらためつつ和銅開珎を鋳造し、細々ながらも流通へ。
この時代から、それまで輸入が主流であった銅(青銅)は国産にシフトしていく。
奈良大仏の本体の銅は、多くが長門国の長登鉱山のもので、ヒ素を多く含み、また大仏本体の素材は水銀も含んでいた。
(これに金メッキを施して大仏が完成した。)
ヒ素を多く含む国産銅の鉱山は次々と新発見され、やはり官営事業として平安末期以降まで多く利用されていた。

・だが、平安時代の中期以降、官営推進の銅生産は次第に減少に向かう。
理由のひとつは、精錬が容易であった酸化銅資源が枯渇し始めた一方で、硫化銅の精錬技術が無かったため。
もうひとつの理由は構造的なもので、遣唐使の廃止や暦法の衰退をはじめ、日本が科学技術の停滞(低下)局面を迎えたことであり、官が銅生産に熱心でなくなったため。
あわせて、銅貨の経済も縮小局面に向かった。

・日本の銅供給不足を補うため、平家は宋や南宋との取引において、銅銭を大量に輸入し、それを潰して銅材料としたほどであった。
この代金として、日本からはなんと金や銀を南宋に支払っていた ─ もっとも、日本に金や銀が有り余っていたかどうかは判然としない。
一方、南宋としては既に紙幣経済が始まっていたので、銅銭の大量流出も憂慮しなかった ─ かもしれない。

源氏幕府の最盛期における鎌倉大仏も、(奈良大仏に同じく)銅に金メッキのもの。
尤もこちらの本体には鉛も多く、この鉛を同位体分析した結果、銅銭を鋳つぶしたものではないかとの見方も出てきた。

・室町時代になると、日本で銅の鉱山開発と精錬が復活。
今度は硫化銅からの精錬であり、ここに至るまでのいずれかの局面でその技術を習得したはずである (12世紀以降に南宋から流入したとの説もある。)
足利義満の時代には、銅は日本から明への輸出品となった。

ただし、銅との合金相手でもある鉛の国産は、戦国時代まではなされず、火縄銃に使われる鉛玉は中国製が多かった。
さらに、真鍮(銅と亜鉛の合金)の国産は明治時代まで出来なかった。

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・戦国時代は、大消費時代でもあり、また金や銀が資金源でもあり、よって金属産業が急成長。
現在の島根県における石見銀山を中心に、銀の精錬技術が発達、とくに神谷寿禎は低融点の鉛を活用して銀を絞り出す方式を確立した。

対馬に生野銀山が発見された翌年、ポルトガル船が種子島に来航、日本の複合テクノロジーが始まるきっかけ。
鉄砲の代金支払いも金銀でなされ、このころから、日本は銀の輸入国から輸出国へ。
また、生野信山は信長を経て秀吉の巨大な財源となった。 
1587年、秀吉の指示で、金貨の大判(いわゆる天正大判)が鋳造され、これが日本で初めての独自鋳造の貨幣であった。

・一方では、政友と寿済があらわれ、鉱山の粗銅と鉛を共融させ金、銀、銅を分離させる方式確立、これは(由来の如何は分からないが)南蛮吹きとも呼ばれ、この方式で極めて純度の高い銅の精製に成功。
(政友は鉱工業の祖とも称され、のちの住友家を成し、現在まで続く。)

・徳川家康以降、鉱山経営は幕府直営となり、金、銀、銅の管理運営も幕府独占とされつつ、潤沢な政策財源となった。
金、銀による統一通貨「慶長小判(など)」の流通へ。

だが17世紀を通じて、日本国内の金総量の1/4、銀総量の3/4は海外に流出していった。
鎖国時代のことではあるが、いや、だからこそ海外の金、銀の相場に通じていなかったがゆえの、大安売り(大損失)であろうか。
この時期、銀や銅の輸出量は世界一になってしまったほどである。
(※ 綱吉の代には、金の含入量を減らした「元禄小判」の流通がよく知られるが、このため通貨価値下落、よって物価高騰へ。)

本旨は新井白石が危惧した事態でもあり、白石は金、銀、銅が有限の資源=資産ゆえ、いったん国外に流出したら二度と国内で復元出来ない由を理解していた。
しかしこれだけの卓見が在ったとしても、当時の江戸幕府が(たとえばヨーロッパでいうところの)重商主義や自由貿易にて金、銀の還流を考慮していたかどうか。
(※ なお新井白石は、慶長小判と同率の金の含入量による、いわゆる「正徳小判」も流通させ、通貨価値の上昇を図った。)

こうして江戸時代の後半期には、幕府の財源は確実に失われつつ、一方で頼みの鉱山の産出量も減り、ついに幕府は明治新政府と入れ替わりに倒れてしまった。
(※ 1859年、英米などとの貿易開始、この時に金と銀の海外での交換比率は 1:15 だったが、日本国内は 1:5 と金に比べ銀がかなり高く、この極端なレート差を英米などに悪用され、日本の金はさらに買い叩かれて流出していった。
そこで、金の対銀価値を切り下げた万延小判が発行された、が、これで物価上昇に至ってしまう。)

・明治時代以降は、鉱山開発の近代化も進み、佐賀関、別子、日立の鉱山などが活気を取り戻し、1940年に産出ピークに至る、が、それでも日本は金、銀の輸出国にはいたらなかった。
そして戦後は国内需要に追いつけぬまま多くが閉山となり、現在に至って日本は貴金属の輸入大国のままである。

こんごの更なる革新的な精錬法と鉱山再開発、さらにグリーンタフの深層掘削、海底火山近傍での採鉱などが、金属資源の更なる獲得手段とされている。
さらにエネルギー源も兼ねた素材として、メタンハイドレートや海水中のウラン(濃縮採集による)なども期待されている。

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…といった具合、本書に記された金属/工業の経済史上の意義について、ざっと要約しメモってみた。
なお、本書の最終章には科学、哲学、文化、人間精神についての壮大なる論説が 『アルスの世界』 なるタイトルにて著されている。
本章から(あるいは本章のみ)お読みになっても、本書を通じた大胆な着想を満喫出来ようか、と併せて推奨しおく。

以上

2014/09/15

ピラミッドの作りかた



① 一昨年(だったかな?)、エジプトのピラミッドの建造方法について僕なりの思いつきを記したことがある。
エジプトのあの大ピラミッドが建てられた当時、あそこは砂漠ではなくて河川であり、だから水中で浮力を利用しながら(重力を克服しながら)巨石を移動し、積み上げていった ─ というもの。
と、いっても一から十まで水中作業だったのではなく、たとえば川の水かさ変化に応じてちょっとずつ建造を進めていけば、作業工員に潜水技術など無くても何とかなるのではないか。
まあ、ざっとこんな閃きであった。
何をバカな、具体的な証拠を、という指摘も頂いたが ─ もちろん思いつきにおいて完結的な物証など無いんだ!
後世のギリシアの学者たちも、川の中にどどんと建てられたエジプトの大ピラミッドを見たことだろう、たとえばアルキメデスは浮力の原理などをひらめいて…

そういえば比較的最近になって、大西洋のどこか海底でピラミッドが発見され、アトランティス大陸があった証だなどと言う声も挙がったとか。
アトランティス伝説はともかくも、地殻変動などでかつての大地が海の底、ってこともあるようだから、エジプトのピラミッドが実は川の中に建てられたっていうのも、けしてムチャクチャなデタラメではあるまい。

さてエジプトの大ピラミッドについての思いつきをさらに拡げるが、あれ、もしかしたら(川の水が干上がった季節には)要塞だったのかもしれないね。
日本の城など思い出せば、殿の天守閣がてっぺんにあって、簡単に攻め上れないよう石垣だの堀だののつくりになっている。
あれに似て、いやあれよりも遥か巨大スケールにて、ピラミッドもてっぺんにファラオが立てこもり、家来とか傭兵連中などがその位や戦力に応じて各段にずらっと守備を固めたのかもしれない。
ましてピラミッドはあの巨大さだ、そうすると、最上段から最底辺までではものすごい人数の守備固めが可能となり、東西南北どこから攻めてくるやつらに対しても、上から弓矢などで迎撃すればきっととてつもなく堅牢な要塞たりえただろう。

さらには、あのいろいろな回廊の微妙な入射角などは、もしかして投石機への石の搬入と発射に最適だったりして (そんな実戦を目の当たりにしたアルキメデスがポエニ戦争時に投石器を開発した、などと時代性を無視した想像はどんどん膨らむのだ。)
爆撃機などが無い時代のこと、大ピラミッドこそはいかなる権力者にとっても難攻不落の居城にして巨城。
だからこそ、ある程度の段まで攻め上っていった敵に対しては、やぁよくここまで来たね、まあ一杯やっていけよ、などと懐柔してそのまま奥の大広間に連れ込んで歓迎パーティなど。

もしかしたら、ヘロドトスはピラミッドの水中での建造方法など見抜いていたが、しかし要塞としての戦略的な活用を意図し、あえてデタラメを書き残したのかもしれない。
ともあれ、こんな巨大要塞に立て篭られてはあまりにも厄介ゆえ、クレオパトラとアントニウスが敗れたとき、主だった機能は破壊されてしまったのかもしれない。
さて、膨大な人数の守備隊をどうやって食わせたのか、などと次の疑問も湧いてくるが、それはどういう給与体系で建造労働者を雇ったのかについての事実解明と表裏一体か、まあいずれ明らかになっていくのかしら。

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②  ナスカの地上絵についても、ぼやっと思いついたことがある。
描かれた当時は平原ではなく、なんというか、禿げ山の急斜面であったということ。
とてつもないスケールの「大文字焼き」みたいなものとして、みなで何か祝ったり讃えたりしてたんじゃないのかな。
いや、大文字焼きではなく、禿げ山ですらなく、山岳の住居区画だったのかもしれないゾ。
或いは、何か鉱物資源の採掘区分だったとか。
ともかく、山の急斜面における巨大な線図であったのなら、そのデザインや配置などを地上から一瞥出来、いろいろ調整し指図しながら描くことも出来ただろう。

そしてその山自体が、数千年の地殻変動を経て、平地になってしまったとすれば、現在のあのさまを説明出来ない?

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③  インカの石造建築、まるで立体パズルのように隙間なく組み合わされた膨大な巨石。
実は、インカの石造建築は、もともとは原初的なセメントと砂利を合成させてつくったコンクリート建造物/壁だったのではないか?
…という説はかなり以前から呈されていたようだが、僕がここで閃いたのはその製法というよりもむしろ崩壊のプロセス。

しばらく前に読んだ 『コンクリート崩壊』 という本によると。
コンクリート素材は、外部からのナトリウムやカリウムによって膨れ上がり水と反応して崩れる、また内部の水酸化カルシウム素材が外部からの硫酸塩と反応しても崩壊する、など。
さらに極端な冷害によっても、コンクリート材はひび割れや崩壊があること。
これらが日本の高速道路コンクリートなどで見られる「ひび割れ」の原因とのことだが ─ さて、古代インカの石造も原初的なコンクリートでつくった長大な壁であり、それが上のような理由からひび割れていったのかな?
たとえば数百年もの大寒波などの影響下で「ひび割れが継続し過ぎて」、今やあたかも個々の石のギッツギツの組み合わせに見えるのかもしれない。

もし本当にそうなら、 とっくに定説になっていてもおかしくないが、まあ仮説には定説もなにも無いのでいろいろ考えるのが楽しい。
いや、仮説どころか、たとえば古代中国の遺跡で発見されたツルッツルのコンクリートなどは腐食に極めて強く、現代建築における有力素材として大注目されているようで。
何がどう有益となるかは、それが有益だと判断するかどうかにかかっているんだね。
しかし、どれだけ遠大で巨大な対象であったとしても、悲しいかな、有益か無益かの論理的判断は常に一瞬のもの。


以上

2014/09/13

【読書メモ】 偶然と必然の方程式

『 偶然と必然の方程式 マイケル・J・モーブッシン著 日経BP 刊 』 
初刊第一刷は昨年6月の本書、サブタイトルも統計ブームを意識してかなかなかふるっており、 「仕事に役立つデータサイエンス入門」 ときた。
ただ、本書には生産性向上を導く完結的な方程式などの掲載は無い。
むしろ、諸々の人為について、「人間の実力とは何か、そして運とは何か」、能力と運の両方から何が予測されうるか ─ を厳密にデータに則りつつ分析進めたもの。
実際、英文の原題は "The Success Equation - Untangling Skill and Luck in Business, Sports, and Investing" であり、この "untangling" という大胆なコマンドフレーズが野心的に響き、かつ抽象性抜群、そこのところ気に入って買っちゃっのであった。

本書の読解にあたっては、基本的な集合論や統計論などの常識(勘)さえ動員出来れば、混乱させられることはない。
むしろ、実にふんだんに盛り込まれた多業種に亘るケーススタディの数々、それらの絶妙の引用にぐんぐん魅了されていくのではないか。
あえて本書を思考論・手法論として捉えてみれば、理数系タイプの清涼剤ともいえようか、或いは、巷間の定説における虚構性への耐性を高めるという意義から社会科系タイプの解毒剤でもありえようか。

さて此度の 【読書メモ】 においては、本書を読み進める上でとりわけ根幹的な「さわり」の論理について、以下にざっと記しおくに留めるとする。
このあたりまで諒解した上にて本書を手にとれば、ヨリ効果的に読みすすめていくことも出来よう、と僕なりに考えてのこと。



・或る活動において実力と運がどの程度関与しているか、まず単線的に視覚化するチャートとして 「運─実力 連続体」 をおくことが有用である。
このチャートにて、たとえばルーレットや宝くじは運が支配する活動であるため原因と結果の相関が不明瞭、この結果値を左端に据え、一方で短距離走や競泳やチェスなどはほぼ実力によるものゆえ原因と結果の相関も明瞭、この結果値を右端に位置づける。

・加えて、サンプリングの「大きさ」を正しく捉えないと、少ない結果から過剰に見解を導く恐れがある。
ド・モアブルの方程式に則り、データのバラつきをベル型曲線にて分布すると、サンプル(ここでは平均値)のバラつきがサンプルの大きさに反比例する (つまり、サンプル件数が多いほど平均値のバラつきが減り、標準偏差が大きくなる。)
たとえば、最も成績のよい生徒の割合は規模の小さな学校で高いが、母数のデータを数多く精査してみれば、じつは最も成績の悪い生徒の割合もやはり規模の小さな学校で高いということが判然としてくる。

・一方で、(実力ではなく)「運」が大きく関与する活動において、小さなサンプルデータを用いると、データ値のバラつきが大きくなり過ぎ、そのデータが何を指し示しているのか導き出すことが困難になる。
とりわけ、自然界の多くは平均化する傾向にあるため、我々は無意識に万物が釣り合うと考えがちであり、ゆえに「運」の影響を忘れ、特定の観察結果のみから一般的な結論を引き出してしまうもの。
("帰納法"が抱える古典的な問題である。)

※ 僕自身の経験だが、しばらく以前のこと、「弁護士が増えると自殺者も増える」という奇妙な言質をたまたま耳にし、第二次大戦後のそれぞれ推移を確かめてみたことがある。
総じてみれば、1998年ごろ以降の日本では弁護士の数も自殺者数もともに増加過程にあるように見受けられる、が、昭和30年代の自殺者急増と弁護士数の間には何ら相関は見られない。
それに、過去数十年における絶対人口と自殺者数の推移の間にもとくに相関は見られなかった。

「実力のパラドックス」 … 実力が向上し成績が安定化すればこそ、「運」が重要になる例を、メジャーリーグ野球に見出すことが出来る。
1870年代以降10年ごとのメジャーリーグにおける「打率の標準偏差」をとり、その2乗を「打率の分散度合い」とみなし、一方ではその標準偏差を同時期の全打者における平均打率で割って「変動係数」とし、個々の選手打率が平均からどれだけ離れているかを示してみる。
すると、現実として時代が下るとともに標準偏差は小さくなり、かつ変動係数もまた小さくなっていることが判然とする ─ つまり全打者の打率が一定レンジに収束し続けていることになり、ゆえに今後は傑出した強打者の出現が極めて難しくなる一方(のはずだ)との結論に至る。
とりわけ、野球の打撃とはもともとが「運」によるところ極めて大きな技量といえ、誰もが技術向上しているからこそ「運」によるところは一層大きくなる。 

・「平均への回帰」 … 或る行為を 「運 ─ 実力 連続体」 のどこかに置きつつ、その行為における「運」の数値と「実力」の数値を合算し、その和を「実力による結果」と見倣すという、そんな極めて単純なモデルを考える。
まず、その行為が「運」のみで成否が決まる、とする。
この場合には「運」の数値は変動するが、一方で「実力」は常に或る特定の数値となり期待値はゼロ、ゆえにこの行為の「実力による結果」は平均に回帰することになる。
逆に、もしその行為が「実力」のみで決まるとしたら、やはりこのモデルにのっとって今度は「実力」の数値は変動する一方で「運」の期待値はゼロ、だから「実力による結果」は平均には回帰しえない。
この行為が、「運 ─ 実力 連続体」のどこに在るかによって、「実力による結果の平均への回帰の速度が決まる。
なお、「ジェームス=スタイン推定量」に則ると、「実力」だけの行為においては結果見込みに際しての「縮小係数」は1.0となり、「運」だけの行為においては縮小係数はゼロとなる。

・さらに、各回独立して実力発揮される事象を捉えるか、それとも各回が相互依存した(経路依存の)事象を捉えるか、さらに各回の実施条件と結果が極端に変わりうる事象を見るか。
これら事象の性質により、単純なベル型曲線(正規分布)から極端に外れた結果も起こりうる。

・原因と結果を結びつけたい欲求は、人間の心に深く染み付いている。
出来事Aが出来事Bより先に起きると、AこそがBの原因だとみなすことが多く、それがしばしば誤った迷信的な結びつきとなりうる ─ 前後即因果の誤謬として知られ、過去200年間、多くの科学的研究がこの誤った思考法を捨てることを目指して行われてきた。
一方では、或る結果を不可避のものと信じ込んでしまう場合もある("忍び寄る決定論"などと称されている)。

我々は、起こってしまった事態の展開を再確認しているうちに、そこで発揮された「実力」だけを注視し、同時に機能していたはずの「何らかの運」は忘れてしまいがち ─ この実力重視癖は人類生存上の必然だったのか。

・ビジネス界では、成功した会社の戦略は何か、と問われがちだが、実際には失敗していった会社は往々にしてデータ分析対象から外されるため、その戦略を採用した全ての会社における「運」の影響が見落とされ、あくまで成功した会社の「実力」だけが評価されてしまう。
しかし、「運」の影響まで見極めるのならば、その戦略の会社のうちどれだけが「一貫して成功し続けているか」を確かめる必要があり、そこまで踏まえてこそその戦略のリスク性も見極めることになる。

オーディオのソニーがウォークマンからミニディスクまで効果的に事業を成功させたのに、高速ブロードバンドによるダウンロード時代到来によって停滞してしまったのは、「実力」不足によるものではなく、むしろ逆に「運」の影響があまりにも大きい。
(こういう事例を"戦略のパラドックス"と称するコンサルタントもいる。)

「なぜ発表された研究結果のほとんどは間違っているのか」 という論文を著した病理学のイオアニディス博士によれば。
ある治療法の有効性について、研究者の見解の精度(能力)は、被験者の設定方法によって大きく異なるという。
被験者がある治療法をランダムに割り当てられた場合(つまり、ランダム化された試験)では、研究者はあらゆる先入観ぬきにそれぞれの治療法の効果を比較研究が出来、じっさい試験結果の3/4が正確であった。
その反面、被験者が志願して様々な治療法を受けるケースでは(つまり観察研究)、研究者がどの被験者のデータを採用するか判断せざるをえず、その過程でどうしても「運」が介入し、その試験結果の多くが研究者の偏見や誇張によって間違ってしまう。

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※ さらに、本書では「実力(知性)」の変化、「運」の定量化、べき乗則の普遍的効用、有用な統計(持続性と予測可能性から) などなど。
徐々に分析のダイナミズムを拡大させつつ、引用エピソードも分析データもヴァラエティは尽きない。
僕はこのあたりで本書をいったん書棚に収納しておくが、もちろんコンテンツに追随する自信が無くなったからでは断じてなく、ただほんのちょっとだけ疲れてきたので、暫らく経ってからもっと深く鋭く踏み込んでみるつもり。

以上