かつて僕が営業マンのはしくれだったころ、新自由主義だのという無意味な旗印が産業界に跋扈し、肩で風切っていた自称・ビジネス通の連中がやたらめったら 「バランスシートの回復だ、リストラ断行だ」 なんだと威勢よいものの、一方ではどこか焦燥感に煽られてもいた。
あまねく企業の資本の大きさを誉めそやしつつ、負債の大きさを突いて危機を煽り、さらにはそんな子供っぽい安直さを自嘲して、「猫も杓子もバランスシート」などという揶揄が流行ったり。
僕なりにも、バランスシートについて一通りは其処ここで説明を受けてはいたものの、でも英国式とアメリカ式では資産や資本の列記方式がやや異なっておるなど、どうも仔細までの実務理解には至らなかった。
さて、企業実務そのものはともかくとしても、せめてヨリ包括的なバランスシート論について学んでみたいものだ、と僕なりに常々考えてはいた。
だからこそ、今回紹介の本について概括したい。
【バランスシートで読みとく世界経済史 ジェーン・グリーソン・ホワイト 著 日経BP】
僕が読んだ日訳版は本年10月に出たばかり、英語原題はズバリ Double Entry つまり複式簿記、つまりバランスシート。
我々日本人はバランスシートという主題から上述のように資本(カネ)の多寡を連想しがち、しかしながら、本書をほぼ一貫しているメッセージは資本や負債の規模比較論ではけしてない。
むしろ、複式簿記の発明から始まった資本と事業(利益)の分離であり、それが商業史上ひいては経済史上において果たし得た功/罪を炙り出しつつ、こんご更に如何なるフェアネスをたらしうるかと問いかけるものである。
そう捉えてみれば、複式簿記という史上最大のイノヴェーションにあたかも聖書のような啓発力を見てとらんとする巨視的センスはなかなかのもの。
なお、本書の著者はJaneという名前から察するに女性であろうか、そのためか引用事例の散りばめ方が実に楽しくバラエティに富み、ところどころには政治経済科や世界史科の副教材として薦めたいほどの決定的なエピソードもある。
※ あらかじめ僕なりに記しおくが、複式簿記=バランスシート上の「資産(asset)」 と 「資本(capital)」について,、ここではごく大雑把に、「資産」 が 「事業活動継続のために買っちゃった不動産や財貨や在庫やカネの総額」 を指し、「資本」 は 「資産獲得の源泉としてのカネ、株式会社なら株式と負債の総額」 を指す ─ よって両方の「総額」は必ず一致する、と了解しおく。
また、借方と貸方という用語定義の深淵は僕には分からない。
さて此度の【読書メモ】にては、特筆すべき刷新的な事実に絞りつつ、第4章以降から抜粋概括することとした。
・ルカ=パチョーリが 『算術・幾何・比および比例全集(スンマの書、1494年)』 における 『計算および記録に関する詳説』 にて総括した、ヴェネツィア式の複式勘定簿記について。
そこで商人たちに奨励している記入要領 ─ ただし本箇所は実際のバランスシートを総括的に想起しつつ読み抜いた方がむしろ理解は早い。
① 自身の所有する全ての資産を、流動性(交換性)の高いカネや宝石などから順に不動産に至るまで、名目を分けて目録とする。
② つぎに取引帳簿を3冊…これは日記帳、仕分帳、元帳。
このうち;
②-1 日記帳は、全ての資産の売買取引を毎日、毎時間、場所まで正確に一時記録するメモのこと。
②-2 この日記帳に則り、仕訳帳ではそれぞれの資産別の売買取引を、市場での取引価格にのっとって記す。
そのさい、取引した資産別に個別勘定とし、借方から記入し、対応させて貸方に記す。
ただし最初に、カネは流動資産として借方におきつつ、一方では財産=自己資本として貸方におく(…ここに最も根源的な革新性ありや)。
次に、売買した資産の名目と数量をそれぞれ借方に記しつつ、対応するカネを資本として貸方におき、個別勘定のリストを完結する。
②ー3 こうして、カネとそれ以外の資産での個別勘定の仕訳帳が出来たら、それらを元帳に転記、ただし今度はカネとそれ以外の資産それぞれにおいて、「借方=資産」は幾ら、「貸方=資本(と負債)」が幾らと分離したリストを記す。
さらに自身の資産の個別勘定とは別に、商売手数料や為替手形の扱い、銀行とのカネ取引も仕分帳に記し、やはり借方=資産と貸方=資本に分けて元帳に転記。
・以上の慎重なステップを踏んでまとめられる元帳こそが、典型的なダブルエントリーつまり複式簿記方式の帳簿、ひいてはバランスシートであり、「借方=資産」と「貸方=資本(と負債)」を過不足漏れなく確認するための画期的な発明となった。
この元帳における、各勘定の「借方=資産」と「貸方=資本」の差額をトータルに合算すれば、これがすなわち損益勘定、プラマイを最後に資本の部に記しておわり。
(各資産の取引ごとに損と得をおいかけていても、どこでどんなカネが出入りしたか、もともと誰のカネで誰が債権者なのかなどが判りにくい。)
・19世紀には、産業革命と事業規模の格段の拡大の過程で、株式会社が本格的に勃興。
英国の多くの事業家たちは複式簿記の活用を通じて商業上の成否分析を進めたが、そこからさらに進んで、非商業的な事業要因としての労務費ほか固定費圧縮と大量生産の効用までをも見出していった。
こうして、いわゆる工業簿記と原価計算の技術向上がおこり、19世紀末にはこれらが英国にて『工場会計』として理論的にまとめられることになった。
・一方では、19世紀なかば以降、鉄道会社が大規模な株式会社として登場、だが事業規模の大きさに乗じて、利益水増しや株主資本の配当転用など不公正な会計操作を頻発させた。
これら不祥事がきっかけとなって、資本運用の自由という従来観念が見直され、複式簿記に則った資本と事業利益の明確な分離が求められるようになり、そして有限責任の観念、株主総会や社外監査などが会社法として制度的に整備されていった。
さらに巨大な設備資産の減価償却、人為的な会計年度の設定も制度化されていった。
そしてこれらの過程で、複式簿記に精通した会計士が職業として確立。
・一方でアメリカでは、独立戦争前後から会社設立が増え、そのご時代が下るにつれて英国の会社法など規制から逃れるかたちで企業家が事業を拡大、やがて19世紀末には英国同様に会計士も増えていった。
20世紀に入ると、複式簿記は英連邦、ヨーロッパ主要国、アメリカなどにて、企業の財務諸表を作る上で最適な手段と見なされるに至った。
・ドイツの経済学者ゾンバルトは、マルクスの言さえも参考としつつ、資本主義の起源がまさに複式簿記にあると指摘。
複式簿記の発明が事業における諸要素の数値化、ひいては理論化を徹底させつつ、とくに資本を事業資産から区別させてきたことで利益追求を精確に継続させることになった由。
マックス=ウェーバーもほぼ同意見であったが、かつ、こうして資本主義型経営の理論化ひいては費用対効果の追求が進めば、世界のあらゆる資源がここに組み込まれ燃焼されつくしてしまう旨を危惧してもいる。
・世界大恐慌から第二次大戦の只中では、インフレと失業増加と政府支出増大への懸念から、複式簿記に則った資本と事業の分離の着想が国家レベルで試させることになり、資本(通貨)の総需要をふまえた政策的な統制介入がなされることになった。
ケインズは国民経済を通貨のシステムとして捉え、社会全体の「購買力」と、失業者が働いた「場合の生産量」を通貨で測定すれば、この需給ギャップ換算額に応じた政府の追加投入金額も算出出来るとした。
消費額、投資額、貯蓄額というマクロ変数としての通貨に加え、家計、企業、政府、海外という経済部門の活動も通貨にて定数化、これらを総括した国民所得勘定の作成を提案。
・クズネッツがローズヴェルト大統領政権下で提示した国民所得表がもとになり、アメリカは戦時下の国民総支出を精緻に算出出来、だから戦争財源も明確になり、これらがもとになって国民総生産(GNP)が算出されるに至った。
やがて、第二次大戦後に向かう過程では戦時から平時への国際資本体制づくりも具体化がすすみ、国際復興開発銀行(世銀)と国際通貨基金が米ドル運用ベースで発足するに至ったことは、周知の通り。
それとともに国際収支統計も整備されていくことになり、マーシャル=プランが…と現代史はつづく。
・1991年、アメリカのカラザーズとエスペランドが発表した会計と修辞学についての論文は、複式簿記が本来有する記号的で強力な説得力を指摘、あるいは危惧したもの。
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以上、ざーっとまとめてみた。
本書はさらに、ロイヤルバンク・オブ・スコットランドやエンロンなどの巨大な粉飾決算事件にも触れつつ、ここいらが会計学や会計士職能の限界なのか、いやまだ職能としては始まりに過ぎぬのかと問いかける。
それどころか、GDP(GNP)に代わる新たな「地球経済会計の尺度」は如何様なものとなろうか、と巨大な問題提起を以て本書をとりあえずは終わらせている。
ただ、複式簿記から始まる資本と事業(利益)の分離は、資本主義経済において、公正性という崇高なメリットと強欲というリスクを常に併せ持つ叡智であることは間違いなかろう。
以上
「あなたって、ちっとも優しくなかったわね」
「そんなことないよ、俺は性根は優しい男なんだ」
「…でも、あたしに対しては、ち~っとも優しくなかった…!」
「だから?」
「あなたって、冷たい」
「ふん。もういいじゃないか」」
「うん、もういいわ、あなたは私に対して、いーっつも冷たかった」
「それはそうかもしれないが、でもね、君だって、俺にはいつも退屈だったぞ」
「そうよ、あたしはちゃんとした男性に対してしか、誠意を尽くさないことにしているの」
「だから退屈なんだよ、君は」
「いいわよ、あたしは退屈な女なのよ、退屈な男性に対しては」
「そういう女だから、君は退屈だって、言ってんだよ」
「そうね、もう、それでいいわ、あなたはそういう男だから、もうそれでいいの」
「君はどうも、分かってないんだなあ、さっぱり」
「分かってないのは、あなたの方なのよ、ひとの気持ちが全然分かってないの!」
「さーて、ここでお別れだ、俺はね、右の道を行く、だから君は左の道を行けばいいよ」
「そうね、これでお別れね、もう会うことは無いのね…」
「うん、二度と無いだろうな」
「それじゃあ、さよなら」
「…ちょっと待て、おい」
「なによ」
「やっぱり、俺が左の道を行くから、君が右側の道を」
「ふふっ…どっちでもいいわよ、じゃあ、そういうことで、さようなら」
「そうだな、サヨウナラだ」
「…ねえ」
「なんだよ?」
「雨が降ってきたわよ」
「いいよ、俺は濡れていく」
「でも、風邪をひくわよ」
「君には関係ないよ」
「そうね…じゃあ、さよなら!」
「おいっ、ちょっと待て」
「なによ?!」
「今、ふと思いついたんだが…もしも、この次に君と出会ったら、その時は俺はどうすればいい?」
「知らんぷりしてくれればいいわ、無視してくれればいいわよ」
「そうか、ふーん」
「そうよ、つまらないこと訊かないで、バッカみたい!」
「そうだな、俺は退屈な男だ。でも君だってヘンな動物みたいだぞ」
「いいわよ、ヘンな動物で…!」
「さーて、それじゃあここであらためて、ヘンな動物とお別れだ。えーと…あれ?君が右の道を行くんだったっけ?」
「さぁ、どっちだったかしら」
「いや、俺が右を選んで、君が左から去っていく、だったかな」
「…ねえ?」
「なんだ」
「ここじゃ寒いから、一緒に右の道を交差点まで行って、そこでお別れってことにしない?」
「馬鹿だな、君は。それで今度は、交差点の喫茶店で雨宿り、ってことになるかもしれないだろう」
「ふん。馬鹿でいいわ。じゃああたしは行くから」
「待てよ、本当にこっちの道でいいのか?おーーい!」
(ずっと続く)
概して理数系の諸分野が難しく感じられる理由は、観察対象を貪欲に分析しつつ、定義付けの困難な領域にまで踏み込んでいくという主客混交性と相対性(ダイナミズム)にあるように思われてならない。
今回紹介する本こそは、理数系学問における主客混交のスケール観を大胆に押し出した一冊といえようか。
世界はデタラメ ランダム宇宙の科学と生活 ブライアン=クレッグ 著 / 竹内薫 訳 NTT出版
原題は Science and Life in a Random Universe とあり、(なぜ life を生活と日訳したかは分からぬが)、今般の日訳版は本年7月に初版発行。
著者のクレッグ氏は英国の著名なサイエンスライターで、ほら物理学はこんなに易しいよ、ほらほら統計学や数理確率論とはこういう知恵なのだよ、などと優しく解きほぐす筆致、そして一方では宇宙や世界の「わからなさ」を多くの文脈によって炙り出していく構成が楽しい。
また、日訳された竹内氏も我が国ですっかり著名な科学者かつサイエンスライター、とりわけ本書の日訳にては動的観念の名詞化における卓絶さが光り、緊張感バツグンである。
さて、最初の数章を読み進めれば、根底を一貫しつつも最大難度の観念として挙げられている主題が 「無作為性」 である。
察するに、恐らく英語原文では randomness ではないか…そうだな、なんらかのものにおける、人知によっては何ら規則性を見出すこと出来ぬ不規則な状態、とでもとりあえず括っておこうか。
その「無作為性」が、本書では総じて三段階に分類されている、と僕なりに読み取ったつもり。
・まず、人間世界における「古典的な無作為性」であって、人間が何らかの妄信を見出してしまうもの、たとえば、ルーレットやくじにおいて、なんとなく当たるような気がする数字配列、などなど。
・次に、やはり人間世界での「古典的な無作為性」ではあるが、人間が統計学によって過去の諸事実を個別化し、そして数理確率によって未来予測をパターン化しえた(はずの)領域。
・そして、これが圧倒的なのだが、はるか人知了承を超えて巨大に宇宙をつらぬくであろう「カオス的な無作為性」。
さぁこうなると、物理学や統計学や数理確率論などなどに通じた人々は、「どれどれ、俺ならもっと精確に読解してやるのだが」、などと食指を動かされるのではなかろうか?
そうでしょうね、どうぞお読みください、きっと楽しい本ですよ。
ともかく今回は僕なりに関心抱いたコンテンツに絞って以下紹介しおく。
・人間が数理判断のみではなく信頼感覚によっても経済活動をおこす由を明かす 「最後通牒ゲーム」
…これは本年の慶應総合政策の一般入試英文でも引用された、心理試験の一例。
本書の随所にて引用紹介されている、功罪切り分け困難な実証実験や社会制度についての事例は、学術性の高さに辟易せぬ覚悟さえあれば、大学入試の重要な参考文献たりうるものともいえよう。
・18世紀の数学者ベルヌーイは、投資(賭け)における期待値と確率のパラドックスを記した。
つまり、ある投資における期待値を場合数ごとに確率計算し、それを集積すれば、なんと「期待値は無限大」となる ━ もちろんこんなことはありえない由。
そして現実に立ち返れば、確かに投資先の会社が倒産するなど、カオスとしてのリスクは存在する。
・いわゆる正規分布図は、抽出されたデータの「数値上の信頼度」をあらわす、ということは、「無作為なデータの少なさ」も表している。
正規分布図における標準偏差=σ(シグマ)値が、無作為なデータの抽出率の小ささを示す。
計算上、或る正規分布図で仮にその抽出データの信頼度が95%である場合、σ値は2となり、2012年のヒッグス粒子発見(とおぼしき)のケースではデータのσ値は5で、これは抽出データのうち無作為なものはわずか350万分の1に過ぎないことを表したもの。
しかしながら、これはあくまで抽出データにおける数理確率の話。
ヒッグス粒子が「存在しない確率が極めて小さい」 と反証的には導けても、「だからヒッグス粒子がほぼ確実に存在するのだ」 との実証にはならぬ。
・生物学の世界では、いわゆるインテリジェント=デザイン論を推す人たちがいる。
インテリジェント=デザイン論とは、生命の器官/機構の進化がおのおの個体にとって、初めから、そして必ず、有益なものに発展を遂げるようになっている、と説く論理。
たとえば、単細胞生物の繊毛はプロペラのように進化「することになっている(なっていた)」 という前提をおく。
そう主張する根拠は、生命の器官/機構が 「無作為な試行錯誤の段階を経つつ漸進的に有益になっていくはずがない」、というもの。
もちろん、「はずがない」 というのはあくまでインテリジェント=デザイン論という名の仮説にすぎず、実際の生物史をすべて俯瞰してこれが真実であると言い切れるはずがない。
・人間なりに観察しうる量子論にのっとれば、駐車場に停めた車の全ての原子が横移動して駐車場の外へ出て行ってしまうことだって、可能である。
しかし人間なりの確率論に則って考えると、実際にそのことが起こるまでには、宇宙が出来てからこれまでの時間よりももっと長い時間を待つことになりそうである。
そのころまでに実際の宇宙がどうなっているのか、どうして分かり得ようか?
(※ なお、何ヶ月も前に僕なりの超短編で「ランダム」というのを書いたことがあったが、この時の着想は、人間の認識しうる無作為性が本当に宇宙にとって無作為なのかどうか、ほわんと抱いた疑問による。)
宇宙に実在するすべての原子分子が、たまたま元通りになることもありえるだろうか?
現実には、恒星の核融合反応は水素→ヘリウム→鉄と、徐々に重い元素をもたらす、が、鉄を超える重量元素を生み出すにはエネルギー不足で、そのエネルギー源としては超新星の爆発が必要である。
尤も、たしかに重い元素は放射性崩壊して軽い元素もつくりだすし、宇宙にはどの恒星にも含まれない水素やヘリウムだって在る、とはいえ、熱力学エントロピーみれば宇宙は無秩序に向かっており、現在確認されている宇宙のエネルギー量を鑑みるかぎりでは、宇宙が元の状態に戻ることは考えにくい。
ただ、地球という系が太陽によってエネルギーを得ているように、現在知られている宇宙という系だって、本当は「まだ知られざる別の宇宙からのエネルギー」を得ているのかもしれない。
・人間は或る行為(思考も含め)を自己パターン化する習性がある。
概して、パターン化を物理学的にみれば、これは或るなんらかの系において、新たな「仕事」を「起こさない」こと。
パターン化によって、その系ではエントロピーを減少させ続けることが出来る、が、パターン化のためには外部からの投入エネルギーはどんどん大きくしなければならない。
・原因や理由はともかくとして、人間のうちには、無秩序な「自由意思」がある。
たとえば脳は、人間自身の意思決定(のつもり)以前に無意識に活動を起こしていること、60年代のアメリカ科学者リベットの実験以降は定説である。
もし「自由意思」の存在が認められないのなら、あらゆる人間のあらゆる行為は量子レベルからみても「すべて必然的になされる」、ということになる。
本当にそうならば、必然的な行為を常に起こす人間が、別の必然的な人間の起こした必然的な行為を、法によって裁定することなど許されるわけがない。
以上