2015/03/29

【読書メモ】 権威と権力

岩波新書の本のうち、特に抽象性の高い主題を論じたものは、固有名詞や形容詞による静的な時事論評を極力排除しつつ、動詞遣いはかなり理知的、つまり理科系も社会科系も超えた論理思考の書といえ、読書意欲を喚起し続ける。
今回紹介の本もまさにそうで、人間が何故に権威に従いまた如何にして克服しうるかにつき、慎重に論理分析を挑んだ傑作である。
著者は慶應関係者なら誰もが知る精神科医にして大作家、戦後文学界そしてアカデミズムの重鎮の一人でもあられたなだいなだ氏。
『権威と権力 なだいなだ・著 岩波新書版』
いうことをきかせる原理・きく原理

本書構成上の特徴として ─ 或る常識人(精神科医)と、或る懐疑的な高校生の対話形式をとり、実社会の常識観という外縁をとりあえずは据えつつも、人間の権威権力への従属性を本源まで暴いてゆかんとする検証的な論旨展開はなかなか大胆だ。
本書メッセージを総括すれば;
「勉強して知識を得よ、そして自覚せよ」
「知識に権威を介在させてはならぬ」
「理想社会は自由な知識人の自由な調和に在り、ゆえに未来における実現目標としてしか存在しえない」
…といった旨に集約出来ようか、かつ、さまざま垣間見る反骨精神は妙に平易な文面と相まって精神の涼風のごとく心地よい。

なお本書第一刷はじつに1971年であるにも拘らず、とりわけ第6章以降にてあげつらう人間のさまざまな権威便乗や転用の事例は、40年以上の歳月を超えて現在でも失笑を誘うもので、くだんの原発事故までふまえればむしろ本書は人間精神の予言的な透視図であるかのようでもある。

さぁそれでは、いつもの【読書メモ】のとおり、本書の章立てを超えつつ、僕なりの要約と解釈をささやかなアブストラクトとして以下に記す。



我々が何事かを「分かる」というセンスは我々一人ひとりの内に完結しているが、「解らない」という不安や恐怖はおのが外の知識格差からくる。併せて、普遍的な意味の判然とせぬ数値データなどへの不安感も根強い。
それら知識やデータに正当性を認めたいとの念から、我々はむしろ自発的に権威を認めてしまう。
それら知識やデータが「間接的な出力」であるのなら、我々はその出力段階の全過程にまで権威を見出さんとする。
医者や弁護士の看板、大学名(偏差値)、ノーベル賞などがその例。

さらに、権威への盲信はマスコミなどを通じて、その盲信者の多数派をも生み出す。
よって、或るカテゴリーにおいて見出された権威は、別のカテゴリーにまで拡大適用されうる。
そうなると、その権威を否定しようとする人間が現れた場合に、その人物の方を潰そうとする。

権威は、人間の無知(という不安感)につけ込んで、我こそが全知全能なのだと洗脳する場合も多い。
たとえば、或る神が不在であることを証明出来ぬのならば、その神は必ず存在するのである、といった詭弁が、権威の名を借りて我々のうちに忍び込む。
或いは逆の論法として、資本主義はけして完璧な経済システムではない、だから代替システム(社会主義など)の方が優れているのだ、などという誘導も同じ。

我々が外部からの権威押しつけを盲信しないための方法は、おのれ自身が知識を得ること。
また、如何なる真理も本当は存在せず、事実が常に一つ発現しているのみであると悟ることである。 
もうひとつは、複数の情報データを客観的に比較すること。

おのれの知識とは、収集した知識それ自体でなく、それらをおのれの自我にのっとり冷徹に観察出来るようになってこそ独立したものといえる。
こうして人間は、少年から青年となり、そして近現代の大人になる。

☆   ☆   ☆

命令と説得は構造的に異なる。
命令は人間の階層構造、とくに官僚機構において多用され、その上位における決定上の本旨が不明瞭なままでも下位に伝達されうるので、人間の階層構造が多重複雑なほど下位が盲従しやすい。
一方で説得は、相応の権威を効用(あるいは悪用)する者による、無知の者たちへの暗示誘導たりうるケースもある。
だが、説得は「なんらかの理」にのっとり、促す者も聞く者も同意しうる方法をとるのが望ましい。
この理想論に従うのならば、法は権威であってはならず、だから悪法が法であってはならない。

我々が権威はおろか理すらも信用しなくなったら、いったい何をしでかすのか?
いかなる権力の存在をも否定する野党化、その革命かもしれない、そして既製の権威を片っ端から否定するかもしれない。
しかしいかなる権威権力をも否定し続けるならば、自分たち自身の権力化や議会への進出すらも許せず、だからさらに野党が分裂し、基盤であったはずの労働組合も分裂していく。

じっさいは、ソ連でスターリン悪政が批判された時、マルクスやレーニンといった古典的な権威は否定されなかった。
これまでの人類史において、権威が完全に否定されたことはない。

☆   ☆   ☆

人間の権威や宗教は、本来は強制力が無くとも正当性をもって永続しうる。
が、そこに便乗する地位/組織は常に強制的な権力をともなう。

我々にはひとつの重大な幻想がある。
社会・組織はなんらかの完結した全体だ、と捉える見方である。
だが実際は、あらゆる事実は独立した個々の事象であり、全体など構成していない。
あらゆる組織を有機体と喩える場合も多い、が、組織は個々の人間によって構成されており、組織そのものは独立した意思決定などなしえず、誰かの恣意によって動いているに過ぎない。
いかなる社会組織もそれ自体は権威ではなく、ましてや権力機関であってはならない。

我々は権力をもって、おのれたちの防衛のために「便宜的なまとまり」を保持しようとし、一方では外部者への攻撃も行う。
この便宜的なまとまり保持のために、有史以来、天皇制さえも利用されてきた。
だがその便宜的なまとまりとて、権力を喪失すれば崩れていって、互いに外部者となり攻撃対象ともなっていった。

我々は、いったいどうやって社会を維持しうるのか?
それは 「個々人が自由に行動しつつも、自生的に秩序が成り立つ、いわば調和型の社会」 によってではないか?
残念ながら、この調和型社会は理想像にすぎない。  
そして現在の諸問題は、理想によってではなく、現在の解決手段によってのみ克服するしかない。
自覚した各人の知識と行動によってこそ、調和社会という理想もいつか実現しうるのではないか ─ そう楽観的に信じて今日を生きていきたい。

以上

2015/03/13

【読書メモ】 直感を裏切る数学

【直感を裏切る数学 神永正博・著 講談社Blue Backs 】  
本書を手にとった理由は二つある。
まず一つ目は、本書の著者がかつて企業でICデバイスの暗号技術や乱数発生技術に携わっていた由、たまたま目に入ったこと。
じつは僕自身、それらデバイスシステムのプロモーションや営業に携わっていた時節があり、もしかしたら僕は間接的に著者の技術開発成果によって製品市場の拡大を実現しえたのではないか、と、ひとかたならず親近感や敬意を覚えた次第。
そして二つ目は、これも偶然だが、人知への懐疑本であり昨年本ブログでも紹介した 『世界はデタラメ』 と、本書掲載の数学論題の幾つかが重なっていることを見出したためである。
すなわち、『ベイズの定理』 『恐怖の誕生日』 および 『モンティ・ホール』 であり、むしろ本書の方が厳密にかつ高密度に思考を深めてゆけるのではと見当をつけた次第。

さて本書の大半を一読してみた感想。
とくに本書にて掲げられた論題の幾つかは、数学理論のハードウェア体現可能性/リスク喚起の文脈にて組み上げられたように察せられ、随所にささやかに添えられている教訓もなかなか警告的に響く。

かつ、「事象の発生可能性」を慎重に場合分けした「樹形図」や、「事象の発生量」と「その分布」を段階的に明示した「ヒストグラム」の提示もふんだん。
樹形図にせよヒストグラムにせよ、数理思考に慣れた人たちならば造作の無いデータ峻別作法であろう ─ だが、僕のような文科系思考の人間は半ば無意識のうちに、ここに事象の発生経緯や因果を連続的に想定してしまいがち、本書読解の上での頭痛の種でもあった。
しかしながら、或る特定の数学的手法によって算出された「はずの」いかなるデータ値にせよ、その暫定的な論理を還元的に捌いてバラして根源まで遡及すべく、精密なデータヒストグラムも場合分けも式変換も必須となろうか。

ただ一つ、僕なりに敢えて相反的に想起してしまったことがある。
それは、ハードウェアシステムの保全性を強化するはずだと永年に亘って聞かされてきた「ムダ/遊びの存在」=すなわち冗長性(redundancy)についてである。
数理論の厳密なマテリアリゼーションの追求は、冗長性の確保と並立しうるのであろうか…?
本旨、僕の見識ごときでは判断しきれないが、こんごとも考えを深めていきたいものである。

ともあれ、膨大な思考量の動員が不可避「であろう」多くの数学の論題が、本書にては嬉しいことにコンパクトかつ続々と紹介されていく。
けして易しく読み抜けるコンテンツではなかったにせよ、それでも僕なりに何とか読み進めた主題を数件、ごく大雑把に総括しつつ、此度の読書メモとして以下に記す。



「ベイズの定理」
或る事象の発生について、その真因の可能性を次々と探り出してそれぞれ起こりうる確率を合算し続けるのではなく、逆に、一定の結果確率をあらかじめ据えた上で真因の側を定義する ─ という計算論理 (を指すのだと思う)。

或る判定基準に 「該当する事象」 と 「非該当の事象」 を峻別する場合、その「該当」 「非該当」 の合間には、可能性次第では「どうも該当が疑わしいという事象」 も在る。
このような判定課題として、著者はたとえば迷惑メール判定の事例を紹介。
全受信メール数のうちで、 「とにかく何か迷惑メールの特徴を有するもの」 に対する 「実際に迷惑メール特徴に該当するもの」の発生確率が、93% となっている場合を想定する。
この確率にて、「とにかく迷惑メールの特徴あり」は全て迷惑メールと判定すべきか、それとも、この判定は行き過ぎか。
この判定レベルの決定にては、迷惑メールの特徴カテゴリーをどんどん膨らませていくのではなく、むしろ閾値(しきいち)の事前設定が意義を成す。
仮に、あらかじめ迷惑メール判定の閾値を 90% としおけば、この例では「実際に迷惑メール特徴に該当するもの」を確実に「迷惑メール判定」出来る。
この閾値の事前設定と、その別途調整により、迷惑メール判定のレベルを変わていけばよいと。
(※ ちなみに、閾値という用語は昨今の被曝容量についての議論でもしばしば引用されている。)

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「ベンフォードの法則」
一見したところ無作為な数字は、じつは 「先頭桁の数字が1であるもの」が多い。
たとえば素数について、オリジナルのベンフォード法則に則って数字発生頻度のヒストグラムを作ると、確かに先頭数字が1となる素数の発生件数が最も多く、2以下は発生件数が減る。
この場合いわば y(発生件数比) = 1/x(先頭数字) の反比例の関係式が成り立つ。
だがさらにこれを y = 1/xa として一般化し、このaの値を調整して単純な反比例関係ではなく弾力的な広がりをもたせつつ、一方では精査対象の素数をケタ10101011 のものにまで広げてみる。
そうしてあらためて確かめると、実在する素数の先頭数とベンフォード一般式による理論数字は驚くほど一致に近い。

この一般法則に則って、一見バラついている数字群、たとえば株価はもとより巧妙な粉飾決算における虚偽の数値までも、その虚偽性を暴いてしまうというから驚きである。

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バースデイ・パラドックス (恐怖の誕生日)
昨年読んだ 「世界はデタラメ」 にもさりげなく引用されている、人間の論理の拙さを突いた幻惑的で楽しい論理探求だ。

不特定の2人が偶然にも同一の誕生日である確率…ここから、何らかのデータ群において何らかの値が一致しうる(あるいは一致しえない)事象を確率式として一般化みちびく。
著者案内の一般式として、 「n 通りの場合数が存在するデータベース」 において 「データが最低1ペアは一致してしまう確率」 が 「50%を超える場合」 を、収束的に1.18 √n で表している。
たとえば誕生日一致の例では、365日のいずれかにおいて誰か2人の誕生日が一致しうる確率が50%を超える場合、nを365とすればその母数は23人以上となる。

この「偶然の一致」の論理をさらにずっと発展させていくと、精緻な「はずの」生体認証の確度すらも、幸か不幸か、その高精度を約束しうるとともに、実は母数データの増大と相まって偶然の他人受容(認証間違い)をもたらすリスクも確実に増える、ということになる。
あらためて著者の具体的な紹介によれば ─ 
或るデータベースにおける 「無作為なデータ1ペア単位」 にて、「他人受容が偶然発生してしまう確率」 を p とし、ゆえにここで 「他人受容が絶対に起こらぬ確率」 を 1-p とする。
一方では、そのデータベースにおけるデータ件数を n とし、ペア発生の場合数を n(n-1)/2 で表すとする。
すると、この「データベース全体」 では、 「他人受容が絶対に起こらぬ確率」 は (1-p) の n(n-1)/2 乗となる。
これを1から引けば、「データベース全体」 での 「何らかの他人受容が起こっちゃう」 確率が算出出来る。

この確率計算に則れば、データベースでの「ペア発生の場合数」が増えるとともに、「何らかの他人受容が起こっちゃう」 確率も限りなく1に近づいていくことになる。
ここで検証として、他人受容リスクがわずか100万分の1のはずの生体認証システムにて、1万人分の認証用データベースがあるとして、「たった1ペアの他人受容が発生してしまうリスク」 はどのくらいかと確かめてみると
…なんと、1万人どころかわずか1180人のデータにおいてさえも他人受容の発生リスクが50%を超えるとのこと。

(以上、本論はとりわけ面白かったので、僕なりにちょっと長めに概要引用してみた。)

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「待ち行列、ポアソン分布」
本項において引用される、事務処理系システムの稼働率と待ち行列の関係は、情報処理資格試験などでも応用出題されている。
しかし、とりわけ難解でもある。

おしなべて理解つとめてみれば
─ 或る事務処理系において客一人ひとりが無作為にかつ相互無関係に次々とやってくるとして、その訪れ方の分布度合いを時間間隔によって分析する。
と、どの時間枠に区切った客数ヒストグラムをとってみても特定の指数分布に則っており、とりわけどの時間枠内でみても最初の方に客数が固まっていると。
ひとえに人間の気まぐれ行動みならず、このように無作為で非連続的な事象にて、その「発生間隔の分布」に厳然とした法則性があり、これをポワソン分布という(と思う)。
このポワソン分布の法則があるがゆえ、コンビニのレジなどをはじめとする事務処理系システムにおいても、必ず客が待ち行列を発生させる。
そして、この客の待ち行列の長さは、その事務処理の稼働率(多忙率)に対して比例関係を超えて伸びていく一方で、事務処理のキャパシティ増強(端末の追加など)によって逆に激減するという。

…ここまでまとめて把握したのは僕としても初めてのような気がする。
が、どうもこのロジックはケムに巻かれたようで、いまだに心許ないままである。

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「アークサイン法則」
この項はランダム乱数についての紹介。
乱数自体の定義がここではちょっと難しかったが、たぶん ─
「本当の乱数」という系は、情報信号レベルでいう 0 と 1 をバランスよく生み出すことはなく、その情報信号の件数がどれだけ増えても、 0 と 1 の発生件数が釣り合いをとって均衡していくことはない。
だから、人為的な乱数発生システムにてもそういうことはあってはならない。
と、まあこういう論旨が本項の骨子ではないかしらと、僕なりに了察。

なお、著者はかつて乱数発生装置の設計開発にも携わっていた由であるが、一方で僕自身も、乱数発生機能を活かしたデバイスの営業販売に携わっていた経緯がある。
いつだったか、一人の英国人技術者と或るブラックボックス系の信ぴょう性について議論したさい、僕が 「生成乱数が本当にフェアな乱数たりうることをどうやって証明するのか」 などと挑発した記憶が蘇る。
もしもあの時、不躾けな挑発問答ではなく、「アークサイン法則は?」 などと口にしていれば、くだんの英国人技術者は笑ったか、怒ったか、それとも…。 

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「モンティ・ホールの穴」

これまた、「世界はデタラメ」 にても概要さらりと触れられていた超有名な(そして痛快きわまる)論題。
人知による直感の心許なさを、実にユーモラスかつスリリングに突いている。
ともかく、あまりにもよく知られた数理パズルであり、ここでは敢えて引用しない。
ただ一つだけ ─ テレビショウの司会者が、3つのドアのうち1つを開けて見せる(そしてそこに見えるのは所望する自動車ではなくヤギである)、その意味を徹底的に考えてみれば、本書にて解説の樹形図を包括的に理解出来ようか。

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なお本書ではさらに、有名な 『ビュフォンの針』 や色の塗り分けパズルなどなど、どのページの数学論題も小稿の体裁ではありつつ、「精緻な思考」へのチャレンジ課題として深呼吸しながら挑み続けていきたいものである。
(とはいえ、本書は少なくとも高校数学くらいは一通り真面目に勉強し終えてこそ、相応に楽しめようか。僕は恥ずかしながら未だそこまで至っていないのだが。) 

以上

2015/03/06

さよならゲーム


少年時代のこと。
地域の野球チームに入っていた。

監督はちょっと変わった人だった。
真っ赤に日焼けした馬みたいな風貌、野球帽をあみだにかぶり、岩石のようにごつい手をしていたのに、けして怒ることはなく、語調を荒げることもなく、低い野太い声でいつもはっははははと笑っていたのだった。

たとえば、僕たちがキャッチボールをしていると。
「おい君、もっと丁寧に投げてごらん、目線を真っ直ぐにね。目線がまっすぐならば、首もまっすぐになる、ね、首がまっすぐになれば、身体の重心が定まるんだ、そう、そう、ほぅらいい球だ、重心が定まれば、狙ったところへ投げることが出来るんだ、そら!いい球だ、それでいいんだ、それで」


たまに、僕たちがボールをポロリとこぼすと。
「なんだ、君のグローブは新聞紙で出来ているのか?もう破れちゃったのか?ははははは、ほら、落としたらすぐ追え、すぐ拾え、ほらもたもたするな!君がのんびりしている間にも、時間はどんどん経っていくぞ。相手はもう2塁まで行っているぞ、ほら早く早く!」
慌ててボールを拾いにいく僕たちの背後から、監督はバンバンと大きな手を打ち鳴らしながら、はやくっ、はやくっ、いそげっ、いそげっ、と煽り立て、じつに愉快そうにあはははははと笑い飛ばす。
そんな監督の声がおかしくて、僕たちがちょっとつられて 「えへへへへ」 と笑い声を漏らしたりする。
そうすると、監督はロバがくしゃみをしたような顔になって喜色満面、 「おい、なにがおかしい!?真面目にやれ真面目に」 と諭すのだが、そうなるともう皆があはははと笑い出すのであった。

バットの振り方も教えてもらった。
「野球はね、眼だ、眼が一番大切なんだぞ。野球は何もかもが動いている、ということは、ピタッと止まる瞬間だってあるんだぞ。その時こそ、野球の勝負のタイミングだ。いいか、眼だぞ、飛んで来るボールを高速カメラのようにしっかり捉えるんだ」
「はい」
…と返事はしてみるものの、僕は何回振ってもバットがボールに当たらなかったりする。
「もっとボールをよく見ろ!動いているものは、必ずどこかで止まっている」
「??」
「もっとよーく見るんだ、そうすれば首がすわるんだ、そうしたら重心が定まるんだ、だから、バシーーンと打てるんだよ」
バシーン、どころか、カスッ、ともかすらなかった。


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チームの練習が無い日でも、僕は木のバットを持ち出して、家の前で素振りをしてみる。
ふーーん。
子供の力で振るのだから、バットが波をうつ。
それでもしばらくバットを振っていると、家の窓ががらりと開いて、父が顔を出す。
「何やってんだ、なんだその女の子みたいな素振りは?ちゃんと練習してんのか?」

思い返せば、父は僕が野球に向いていないと言っていた。
僕は身体のスピードが遅いからダメだ、いや、もっと根本的な欠陥として眼が遅いからダメだ、野球やテニスをやってもずっと補欠のままだ、まあ適当なところでやめておけ ─ などなどというのが、今は亡き父の、幼少期の僕へのアドバイス。
父は或る競技で全国大会で極めて優秀な成績をおさめるほどのスポーツ選手であった。
僕はそのスポーツの素養をほとんど受け継がなかった、そこが父にとっては残念だったのか、下手な野球の真似事を続ける僕に対して口惜しい気持ちもあったのかもしれぬ。
今となっては、知る由もないものの。


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さて、ある夜のこと。
僕が素振りを始めようとして、いつもの木のバットを持ち出そうとしたら、父が呼び止めた。
「もう、あの野球チームはやめてしまえ」
え?
怪訝に立ち止まる僕の手から父はバットを奪い取ると、ベキリとへし折ってしまった。
「もう野球はよせ」
僕は泣き出した。


ほどなくして、僕はそのチームを辞めたのだったが、そんな僕があの監督について、あらためて知らされたことがあった。
きっかけは、不良の稲垣だった。
稲垣はすでに中学生で、タバコ吹かしながら野球のグラウンドを自転車で疾走したり、度胸試しだなどと称してボールを僕らの太ももにぶつけたり。
そんな稲垣が、僕たちに教えてくれたこと。
「おい、おめぇら、知ってっか?あの監督はな、刑務所に入ってたんだぜ」
「…ウソだ…」
「ウソじゃねぇよ、そこいらの大人に訊いてみろ、みんな頷くからよ。まぁ、あのチームはもうすぐ解散だな。そんな噂になってるよ
「ウソだぁ」
「まっ、いいや。あのなぁ、俺だって小学生の時は、あの監督に野球を教えてもらったんだ。でも、ダメだったな、全然うまくならなかったよ、だから辞めてやったんだ、フン!」
この稲垣の言葉に、僕はドキリとした。
なぜか、ものすごく罪深い気持ちになった。


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そして。
今も覚えている、ある3月の日曜日、夕暮れ時のこと。

その野球チームの同級生から連絡があり、何か監督から挨拶があるから、元・チームメイトのおまえも来い、とのこと。
僕が出かけようとすると、 父が呼び止めた。
「どこへ行く?」
「友達のところへ」
「あの野球チームか?」
僕がおずおずと首肯すると、父はしばし黙っていたが、それから 決然と言った。
「よし、行ってこい。その代わり、いいか、何があっても絶対に泣くなよ」
弾かれたように僕は家を飛び出し、指定のグラウンドに向かって駆け出していた。


すでに日が暮れかけていた。
グラウンドの真ん中に、監督がひとり。
そして僕らは自然に監督を取り囲んで、じっと黙っていた。

やがて監督は、常ならぬカン高い声をもって突然話し始めた。
「みんな、聞いてくれ!あのね、野球チームは今日で解散だよ。理由はね、僕が引越しをすることになったからだよ」
ざわざわ、と僕らはどよめいた。
「ちょっと複雑なわけがあってね、僕はこの町を出て行くことになったんだ。それでね、君たちに最後に伝えたいことがあってね」
監督の語調はいよいよ高くなっていく。
「いいか君たち。どんな時でもね、何かが止まり、何かが一斉に動き出す。それを確実に捉えるのが眼だ、君たちは眼を大切にしろ、瞬間、瞬間を無駄にするな、何もかもがすごい勢いで近づいてきて、あっというまに…」
やにわに、監督はグローブをつかみあげると、いつものもっさりとした口調に戻って、やさしく続けた。
「…あっという間に、過ぎ去ってしまうんだ」
「……」
「分かったか。今までいつも言ってきたことだよ、いつも、君たちにね」
「……」
「さあ!お別れだ。だからね、君たち一人ひとりとキャッチボールをしよう」
この言葉に、僕らは全員泣き出してしまった。
「ほらほら、泣くな、泣くな。男の子はすぐに泣いたらダメだ。今この時だって、二度と繰り返さないんだぞ」
監督が、バンバンとグローブを叩きながらこう言い終わらないうちに、突然 「監督!」と怒鳴り声をあげた者がいた。
不良の稲垣であった。


「おぅ、稲垣か。おまえも来てくれたか」
「監督!俺から最後のお願いが有るんすけど!」
「なんだ?」
「俺と、勝負して下さい!」
「あっはははは、勝負とは。おい稲垣、どういう勝負が希望なんだ?」
「監督がピッチャーで、俺がバッター。ねぇ監督、俺はこのチビどもに最後の最後に見せてやりたいんすよ。俺だって監督の教え子だったってことを!」
「ほぅ……そうか、稲垣、ありがとうよ」
稲垣は黙ってバットを拾い上げると、軽く素振り、それから挑発的な仕草でバッターボックスに立った。
「俺ぁ4月から高校生だぜ。そのつもりで頼むよ監督」
「へぇ、生意気に」
監督は顔をくしゃくしゃにして笑った。
それから真顔になり、僕らをまじまじと見渡しつつ、びっくりするほどの大声で言い放った。
「さぁ!僕はこれから人生最高の剛速球を投げる!君たち、しっかり見届けてくれよ!そして、家に帰ったらお父さんたちに自慢するんだぞ!あの監督はすごいって!もうじき高校生の子を軽く三振に仕留めたって!」
「いいからさっさと投げろよ監督!日が暮れちまうじゃねぇか!」
稲垣がバッターボックスで咆哮し、そのまま大声で泣き出した。


おわり