2015/03/06

さよならゲーム


少年時代のこと。
地域の野球チームに入っていた。

監督はちょっと変わった人だった。
真っ赤に日焼けした馬みたいな風貌、野球帽をあみだにかぶり、岩石のようにごつい手をしていたのに、けして怒ることはなく、語調を荒げることもなく、低い野太い声でいつもはっははははと笑っていたのだった。

たとえば、僕たちがキャッチボールをしていると。
「おい君、もっと丁寧に投げてごらん、目線を真っ直ぐにね。目線がまっすぐならば、首もまっすぐになる、ね、首がまっすぐになれば、身体の重心が定まるんだ、そう、そう、ほぅらいい球だ、重心が定まれば、狙ったところへ投げることが出来るんだ、そら!いい球だ、それでいいんだ、それで」


たまに、僕たちがボールをポロリとこぼすと。
「なんだ、君のグローブは新聞紙で出来ているのか?もう破れちゃったのか?ははははは、ほら、落としたらすぐ追え、すぐ拾え、ほらもたもたするな!君がのんびりしている間にも、時間はどんどん経っていくぞ。相手はもう2塁まで行っているぞ、ほら早く早く!」
慌ててボールを拾いにいく僕たちの背後から、監督はバンバンと大きな手を打ち鳴らしながら、はやくっ、はやくっ、いそげっ、いそげっ、と煽り立て、じつに愉快そうにあはははははと笑い飛ばす。
そんな監督の声がおかしくて、僕たちがちょっとつられて 「えへへへへ」 と笑い声を漏らしたりする。
そうすると、監督はロバがくしゃみをしたような顔になって喜色満面、 「おい、なにがおかしい!?真面目にやれ真面目に」 と諭すのだが、そうなるともう皆があはははと笑い出すのであった。

バットの振り方も教えてもらった。
「野球はね、眼だ、眼が一番大切なんだぞ。野球は何もかもが動いている、ということは、ピタッと止まる瞬間だってあるんだぞ。その時こそ、野球の勝負のタイミングだ。いいか、眼だぞ、飛んで来るボールを高速カメラのようにしっかり捉えるんだ」
「はい」
…と返事はしてみるものの、僕は何回振ってもバットがボールに当たらなかったりする。
「もっとボールをよく見ろ!動いているものは、必ずどこかで止まっている」
「??」
「もっとよーく見るんだ、そうすれば首がすわるんだ、そうしたら重心が定まるんだ、だから、バシーーンと打てるんだよ」
バシーン、どころか、カスッ、ともかすらなかった。


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チームの練習が無い日でも、僕は木のバットを持ち出して、家の前で素振りをしてみる。
ふーーん。
子供の力で振るのだから、バットが波をうつ。
それでもしばらくバットを振っていると、家の窓ががらりと開いて、父が顔を出す。
「何やってんだ、なんだその女の子みたいな素振りは?ちゃんと練習してんのか?」

思い返せば、父は僕が野球に向いていないと言っていた。
僕は身体のスピードが遅いからダメだ、いや、もっと根本的な欠陥として眼が遅いからダメだ、野球やテニスをやってもずっと補欠のままだ、まあ適当なところでやめておけ ─ などなどというのが、今は亡き父の、幼少期の僕へのアドバイス。
父は或る競技で全国大会で極めて優秀な成績をおさめるほどのスポーツ選手であった。
僕はそのスポーツの素養をほとんど受け継がなかった、そこが父にとっては残念だったのか、下手な野球の真似事を続ける僕に対して口惜しい気持ちもあったのかもしれぬ。
今となっては、知る由もないものの。


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さて、ある夜のこと。
僕が素振りを始めようとして、いつもの木のバットを持ち出そうとしたら、父が呼び止めた。
「もう、あの野球チームはやめてしまえ」
え?
怪訝に立ち止まる僕の手から父はバットを奪い取ると、ベキリとへし折ってしまった。
「もう野球はよせ」
僕は泣き出した。


ほどなくして、僕はそのチームを辞めたのだったが、そんな僕があの監督について、あらためて知らされたことがあった。
きっかけは、不良の稲垣だった。
稲垣はすでに中学生で、タバコ吹かしながら野球のグラウンドを自転車で疾走したり、度胸試しだなどと称してボールを僕らの太ももにぶつけたり。
そんな稲垣が、僕たちに教えてくれたこと。
「おい、おめぇら、知ってっか?あの監督はな、刑務所に入ってたんだぜ」
「…ウソだ…」
「ウソじゃねぇよ、そこいらの大人に訊いてみろ、みんな頷くからよ。まぁ、あのチームはもうすぐ解散だな。そんな噂になってるよ
「ウソだぁ」
「まっ、いいや。あのなぁ、俺だって小学生の時は、あの監督に野球を教えてもらったんだ。でも、ダメだったな、全然うまくならなかったよ、だから辞めてやったんだ、フン!」
この稲垣の言葉に、僕はドキリとした。
なぜか、ものすごく罪深い気持ちになった。


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そして。
今も覚えている、ある3月の日曜日、夕暮れ時のこと。

その野球チームの同級生から連絡があり、何か監督から挨拶があるから、元・チームメイトのおまえも来い、とのこと。
僕が出かけようとすると、 父が呼び止めた。
「どこへ行く?」
「友達のところへ」
「あの野球チームか?」
僕がおずおずと首肯すると、父はしばし黙っていたが、それから 決然と言った。
「よし、行ってこい。その代わり、いいか、何があっても絶対に泣くなよ」
弾かれたように僕は家を飛び出し、指定のグラウンドに向かって駆け出していた。


すでに日が暮れかけていた。
グラウンドの真ん中に、監督がひとり。
そして僕らは自然に監督を取り囲んで、じっと黙っていた。

やがて監督は、常ならぬカン高い声をもって突然話し始めた。
「みんな、聞いてくれ!あのね、野球チームは今日で解散だよ。理由はね、僕が引越しをすることになったからだよ」
ざわざわ、と僕らはどよめいた。
「ちょっと複雑なわけがあってね、僕はこの町を出て行くことになったんだ。それでね、君たちに最後に伝えたいことがあってね」
監督の語調はいよいよ高くなっていく。
「いいか君たち。どんな時でもね、何かが止まり、何かが一斉に動き出す。それを確実に捉えるのが眼だ、君たちは眼を大切にしろ、瞬間、瞬間を無駄にするな、何もかもがすごい勢いで近づいてきて、あっというまに…」
やにわに、監督はグローブをつかみあげると、いつものもっさりとした口調に戻って、やさしく続けた。
「…あっという間に、過ぎ去ってしまうんだ」
「……」
「分かったか。今までいつも言ってきたことだよ、いつも、君たちにね」
「……」
「さあ!お別れだ。だからね、君たち一人ひとりとキャッチボールをしよう」
この言葉に、僕らは全員泣き出してしまった。
「ほらほら、泣くな、泣くな。男の子はすぐに泣いたらダメだ。今この時だって、二度と繰り返さないんだぞ」
監督が、バンバンとグローブを叩きながらこう言い終わらないうちに、突然 「監督!」と怒鳴り声をあげた者がいた。
不良の稲垣であった。


「おぅ、稲垣か。おまえも来てくれたか」
「監督!俺から最後のお願いが有るんすけど!」
「なんだ?」
「俺と、勝負して下さい!」
「あっはははは、勝負とは。おい稲垣、どういう勝負が希望なんだ?」
「監督がピッチャーで、俺がバッター。ねぇ監督、俺はこのチビどもに最後の最後に見せてやりたいんすよ。俺だって監督の教え子だったってことを!」
「ほぅ……そうか、稲垣、ありがとうよ」
稲垣は黙ってバットを拾い上げると、軽く素振り、それから挑発的な仕草でバッターボックスに立った。
「俺ぁ4月から高校生だぜ。そのつもりで頼むよ監督」
「へぇ、生意気に」
監督は顔をくしゃくしゃにして笑った。
それから真顔になり、僕らをまじまじと見渡しつつ、びっくりするほどの大声で言い放った。
「さぁ!僕はこれから人生最高の剛速球を投げる!君たち、しっかり見届けてくれよ!そして、家に帰ったらお父さんたちに自慢するんだぞ!あの監督はすごいって!もうじき高校生の子を軽く三振に仕留めたって!」
「いいからさっさと投げろよ監督!日が暮れちまうじゃねぇか!」
稲垣がバッターボックスで咆哮し、そのまま大声で泣き出した。


おわり