本稿は時代考証などいっさい意識せず、つらつらと書いている。
何がロマンで何が自然主義でなにがシュールであるのか、知ったことか。
その上で言うが、僕はフランスの文化芸術はあまり好きではない。
お気に入りは音楽のドビュッシーくらいだ。
いや、ドビュッシーであっても、リストの「ため息」や「愛の夢」に匹敵するような感傷の抑揚効果はあまり発揮されていないような気がする。
音楽などの感傷性はさておくとして。
フランスのいわば「大衆文学」の"仕掛け"において、少なくともひとつ、僕なりに留意しているものがある。
それは、人生において誰もが抱えるささやかな「論理矛盾」が、そのまま市場にそして世界に演繹され拡大されていく、というトリックである。
たとえば、誰もが一度は読んだことがあろう『モンテ=クリスト伯』は、私怨と復讐から物語を起こしつつも主人公の大出世までを書き抜いた、痛烈な冒険物語だ。
『レ=ミゼラブル』は、貧困と慈愛のちっぽけなストーリーから始まりつつも、資本主義と理性主義の相克および市民革命までを巨大なモチーフに据えてゆく。
さらに、モーパッサンの短編は市井の悲しみとおかしさを論いつつ、人間世界の普遍性を暗示せんとする。
と思えば、怪盗ルパンのさまざまな冒険譚は、(いわば)掌中のナイフひとつを元手に豪華客船や巨大戦艦を盗み出すような、そんな破天荒なものばかり。
モンテ=クリスト伯にせよジャンバルジャンにせよルパンにせよ、一敗地にまみれた屈辱からのスタートではある。
だが、ひとたび彼らが俗世の「論理矛盾」を見出せば、それらをそのまんま関数として様々な事象を大括弧で括りつつ、驚くほどの効率で白と黒をひっくり返してゆく。
挙句の果てに、世界の常識感覚にすら挑むほどの大どんでん返しに至っており、悪く言えば山師ともなりえようが、よく言えば革命児でもある。
なお、例えばイギリスの大衆文学などは真逆のアプローチ、かもしれぬ。
つつがなく常識的に完結している「はず」のシステムのうちに、何か小さなほころびが露見されると、それをも含め合わせたシステムに拡大させつつも、常識感覚は変わらないような。
(あるいは、皮肉にとれば007のようにほころびの抑え込みに奮闘しているような気がする。)
思い出しついでに挙げるが、よく知られる『十五少年漂流記』について。
こちらはフランス的な論理演繹とイギリス的な常識平衡を、ヒューマニズムという原初的な土俵の上で見事にぶっつけ合っており、そもそも「事件」のきっかけ論争からして必然性と蓋然性の衝突と見えなくもない。
大人になってからあらためて読み返したい一冊ではないか。
範疇分けなど最早どうでもよいが、『異邦人』や『ペスト』もよく知られたフランス文学の傑作で、厳然とした自然界において論理性追求に限界ありと認めたもの、とされている?(だから不条理系などと冠されているのか)。
さらに思い出せば、『星の王子さま』 はわけのわからぬ物語、もしかしたらだが、物質の存在量が永遠普遍かどうかはともかくも、論理だけはどこかで全宇宙が一貫している…とでも言いたいのかな?
ここいらあたりでフランス文学らしさが終わってしまったのかどうか ─
いや、彼らのことだから、また新たに痛快な、しばし危険な論理矛盾をそのまま関数化し、宇宙のパネルや世界のタイルをパタパタとひっくり返していくのではないかな(頭の中では)。
以上