さて、甲賀流の秘術のうち僕なりに習い覚えた術は予知能力である。
もともと幼少期からそうなのだが、僕は対峙する相手の仕草をしばらく注視していると、一瞬先の挙動をなんとなく予知出来た。
このセンスが、ヨリ鋭敏に磨かれることになったのだった。
たとえばだ。
ケンカになりそうな時に相手がどんなふうに攻めてくるのかが分かり、まっすぐ突っ込んでくるパンチやタックルは(おっかないが)すんでに予知してかわすことが出来るようになった。
掴みにくるやつには掴ませてやりつつ、同時にそいつの胴に巧みに絡みつき、身体のほんのちょっとした挙動変化から次の動きを予知し、これを逆用してだだーんと浴びせ倒すのである。
でかいやつが相手でも、ひとたびそいつの胴に絡みつけば、だだーん。
尤も、背筋力もかなり強かったためこんな真似も出来たのであって、これは相撲でいうところの…いや、きりが無いのでもう書かない。
ことは体術には留まらない。
尖鋭化された我が予知能力は、さまざまな人間の発話をも予知できるようになっていた。
さまざまな人間の挙動のわずかな変化から、その人物が直後に何を話すのかが(概ね)分かるようになったのだ。
読心術とはまでは称せぬにせよ、これはちょっとした’千里眼’能力ではある。
男子はむろん、無秩序なはずの女子の言さえも予知できるようになっており、それどころか外国人のそれも概ね分かってしまうほどとなり、もしかしたら古今東西の’スパイ’たちはこの能力の卓越者ばかりだったのかななどと想像しては、そっと慄くのであった。
或いは、いわゆる’既視感(デジャヴ)が研ぎ澄まされただけかもしれぬ。
しかしこの既視感というセンスにせよ、一瞬ごとの時系列に応じて起こるのだから、予知能力であり千里眼もどきであることに変わりは無かろう。
こういった思案のうちに、僕はこの甲賀流の特殊能力の修練を止めたのであった。
なお、この能力は自衛官に向いているのか、警官に適したものなのか、あるいは、教師として活かせるものだろうか、などなど考えを巡らせたのもこの時節ではある。
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さて。
日吉キャンパス時代には心身ともにさまざまな刺激や驚きを覚えること一方ならずではあったものの、いかんせん一般教養授業は退屈で溜まらなかった。
とくに、いわゆる経済学がらみのタームである。
「価値」とは何かについてザーッと講釈があり、一方では「権利」とは何かについてもザザーーっとと講釈がなされる。
しかしズガーンと一貫し完結した哲理が無い。
この分では三田キャンパスに進級後もたかが知れていよう、とたかを括っていたら、さらに「富」とは何かという高次元の謎かけが加わった。
かくて、「価値」と「権利」を「富」が通約しつつ或いは希釈しつつ、補完と互換の三つ巴、グルグル飛び回っての日本政治論や世界経済論…。
それで、どれもこれもをカネの多寡にすり替えて、やれ不平等だの不条理だのと空疎な批評ばっかし吐いてんの。
思い返せば、さまざま経済論に対してどうしても斜に構えてしまう我が心性はこの頃すでに起こっていたのであって、現在までずっと変わらない。
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ゼミはいわゆる地域研究系に入った。
理論系は退屈そうだなあと見当をつけていたためである。
このゼミで、あらためて褒められたこと ─ 僕は輻輳した知識と命題のアブストラクト図式化がじつに巧いと。
この僕なりのアブストラクトは、全体像の系であり、系におけるさまざまな階層エンティティであり、エンティティにおける集合であり、そこに収められた部分要素である。
日吉の英語強化クラスにて習い覚えたアブストラクト作成技法ではあるが、これが初めて創造的に活かされたのであった。
なんだそんなもの、ちっぽけな資料作成技法に過ぎないじゃないか、と笑われるかもしれぬ。
しかし僕自身にとってはこれはただの技法に留まることなく、我が思考センスそのものとしていよいよ定着してくる重大な素養であった。
とりわけ就職後にさまざまなエンジニアやプログラマーなどと交わるに至り、じつに有益な思考センスとなったのは、今思い返しても不思議なことではある。
(つづく)