2025/01/22

2025年 大学入試共通テストについての所感

これまでセンター試験でも共通テストにても社会科に注目してきた。
とりわけ、政治経済と世界史である。
これらはどうにも完結性の乏しい科目ではあるものの、どこまで巨視的な発想が問われているか、どれだけ学術上の深みを突いてきたか、あるいはどれだけズボラな知識パズルに堕しているか、こっそり見極めておきたいとの念がある。

だから此度の共通テストでも政治経済と世界史に注目した。
とはいえ、今回は昨年までとはやや異なるアプローチから講評してみた。

もともと、さまざまな学術は全体命題と部分命題と断片知識から成っており、これら全体と個々部分は必ず量的に整合するはずである。
数学はむろんのこと、物理でも化学でもだ。
しかし社会科はモノの量的分析にあらず、むしろ人間の利害損得を対象としており、根元はおそらくは’価値’(経済)と’権利’(法)になりえよう、このようにウヤムヤしているので、全体命題と部分命題はしばしば不整合にバラついてしまう。
たとえば、或る前提命題があって、『ゆえに』『かつ』『一方では』『しかし』別の命題がありうるわけ。

ここですよ、このさまざまな命題の組み合わせ、この論理と因果の紛らわしさ、ここにこそ昨今のセンター試験~共通テストの社会科の出題形態が拠っているのではないか。
つまり、さまざま断片メモ形態や討論形態のテキストを以て出題を構成している理由なのではないか。
むろん危惧も残されている ─ つまり、出題テキストの分量こそ増えつつも、個々の知識命題はやっぱりバラついたままであり、やはり知識量の競争に留まってしまうのではというところ。

ともあれ、僕なりに注目した出題について、以下にちらっと注記してみた。


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【旧 政治・経済】

第1問
問1 本問は前提そのものがおかしい。もともとサッチャー政権やレーガン政権の時節は、世界情勢も産業構造も移り変わり英米の優位性が後退してしまった1980年代であり、政府の権限強化と財政拡大によって事態解決を図った。これは政府機能の縮小ではない。

問2  巨大産業において自由競争と資産規模拡大が並行しうるか否かと考えさせる ─ しかし本問は主張がおそろしく不明瞭であり、断片メモ型のテキストが悪い方に出てしまっている。とりわけ’必要経費削減’の論理がわからない。

問5 クォータ制は、議席や候補者の一定割合を一定の性別や人種民族や文化宗派の集団に割り当てて、議会や総会における議席上の公正さを図るもの、ここまでは本問のとおり。
しかしだよ、議席上の公正さを追求するならば同時に議決権の平等性も確保しなければならぬ(過半数多数決とするのが或いは議決数は不問とするのか、など)。ここまで重合的に考えさせれば本問は良問たりえたろう。

問8 一般国民のメディアリテラシーは一般国民によっておのおの定義され強化されるのか。ならばこれは国民一律のリテラシーとはならない。誰が誰のためにどうやって強化するのか、訳が分からない。


第2問
問1 これは需要供給曲線の意義を再考させる絶好の良問だ。
そもそも財貨についての取引情報をシンプルに捉えれば、価格およびそれぞれの数量、かつ、それぞれ需要か供給かとなるが、たったこれだけでも数値の解釈としては22通りが可能ではある。
とはいえ、一般の需要供給グラフにては縦軸が価格で横軸が数量と定まっている。
しかも、この設問では賃貸アパートの供給数が価格に影響されず常に一定、つまり供給曲線の(対)価格弾力性がゼロとされている。
だから、変動している曲線が需要曲線であると容易に分かり、本問は解決だ。
しかしもっと根元的に挑むべき経済上の論題が残されている ─ そもそもだぜ、通常の市場経済にて、価格に左右されず供給量が常に一定におさまる商材が本当に実在しうるだろうか?
ここいら含め合わせての多段的な設問とすれば、もっと学術上の深みもありえたろうに。

問6  日本の輸出先の推移を表した図表だが、題意としてはドル円外為がどう推移してきたかと(させられてきたか)を当てさせるもの。プラザ合意とルーブル合意の順番は易しいが、どちらが日米構造協議に続いているか留意要。
かつ、80年代以降であることにも留意すれば、日米貿易摩擦が無かったという「メモC」は第二次大戦後~1965年ではなくむしろ2000年以降について語っていると見当がつく。
本問も情報の多段構成をとった設問なので、通貨まわりの損得論に留まらず輸出先諸国との包括的かかわりを追求すれば良問たりえたろう。


第3問
問2 領海の無害通航権は、従来より国際慣習法(慣習国際法)にて認められ、また国際海洋法にても諸国の排他的経済水域を定義の上でこれを認めている。
ただし、これら慣習法や海洋法があらゆる諸国間の条約に必ず優先されうるのか、これらさまざまな国際法の成立経緯とあわせて考えらこせるべきでもあろう。

問4 日本の国内法、さまざまな国際法、特定の条約、どれがどれに優先さるべきかを再考させるつくりであり、相反する意見を併記した’典型的’な社会科論争の恰好といえよう。
なお、本問の論題は'選択的夫婦別姓'であるが、これが人間の自然の本性に合致しうる制度なのか、あるいは論理性(相対性)の暫時的な悪用にすぎぬのか…LGBTQ同様にコントラバーシャルな論題なればこそ学習対象としたらどうかと察するが、汚いビジネスについても避けて通ることできず、だから学校教育では難しいのかな。

問6 刑事裁判について、これもまた国内法とさまざま国際法における優先度愛を問い質すもの。そもそも各国の裁判所がおのおのの国内法に則って国際刑事裁判所への協力要請をする’場合もある。国際刑事裁判所はあくまでも諸国の裁判所の’補完的機関’にすぎない。


なお、第4問の最終第6問には、ピケティが著した論文の一端にて「'富'」の格差や分配についてさらりと記しているが、そもそも'富(wealth)’とは何であるかについて学術上あるいは物理上の統一定義があるのだろうか?
'富’とは資産ですよと謳えば会計上の定義たりえよう、ならば、科学力によるさまざまな’仕事のキャパシティ’は本日の資産として計上しうるか?そのキャパシティによって為されうる’仕事’と物質量は?これらが本日の資産勘定でないとすると明日の富ですらないのだろうか…ピケティ自身はここいらを精密に定義した上で発言してきたのか…


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【公共、政治・経済】

第1問
問3 ここでもクォータ制の効用を論っているが、上の【旧 政治・経済】第1問に記したとおり、多数決そのものの在りようも併せて勉強すべきだろう。


第3問
問3 諸国のエネルギー消費と人口を堅持せよと説くのか、あるいは節減せよとの狙いなのか ─ いずれにせよ物理上の根拠が分からず、論理上の最適解もわからず、誰が何を求めているのか分からない。ぶきみな論題だ。


第4問
冒頭の会話文にて、ロシアのウクライナ侵攻が(国連安保理として)違法である由を指摘。ここにある会話型の世界評は世界の'相対化'を認めさせたいのか、あるいは、世界の'統一秩序’は形成しえないとの前提にあるのか。

問4 本問における'国際法'がいかなる法律を指すのか不明瞭である。もとより、いわゆる'国際法'はさまざまな慣習国際法や条約をひっくるめた慣例的表現にすぎない。あらゆる国や地域の法律をも条約をも超越した’世界統一国際法’など存在したためしはない。
本問での'国際法'と国際刑事裁判所の関わりも分からないが、上に記した【旧 政治・経済】の第3問ともども、これからの対外緊張の時節にていよいよ求められる国内法と国際法の構造理解とはいえよう。


第5問
問5  労働生産性(productivity)および購買力平価についての超雑感のような出題だが、もっと深く大きく広げていけば日本経済のありようへのヒントたりえるかもしれぬ。


第6問
問2 上に記した【旧 政治・経済】第2問の問1と似通ったもので、財貨の供給量が価格不問で一定である - ことになっている。ただ本問では複数年に亘る需要と供給の推移を数量と価格から連立的に割り出し、コメの生産量を算出させている(数学としては安易だが)。

問3 ここでも'生産性'について論じており、さらに’知的財産’についても触れているが、製造事業者による'新規イノヴェーション’が何を指しているのか分かり難い。ハードウェアか、ソフトウェアか、複製型技術か、省力型技術か、何が何をどう組み替えるのか?こんごの世界のありようについて、少なくともカネの調整や分配では済まされない、本当の教養知識たりうる ─ とすると生産性そのものの意義も変わってくる。


以上

※ 世界史については興に乗ってきたら追記する かもしれない。
物理と化学は別掲する。

2025/01/14

仕事とエネルギーについて

力の「運動方程式 ma=F 」、この物理単位は[N]ニュートン。
もちろんこの’力’の方程式は数学上ギリギリ演繹され絞り込まれたものではなく、自然観察上の統一された経験則として常に成立している。
この’力’を、行使される「位置x1, x2」間にて積分すれば、「仕事」の一般解 (x1, x2) Fdx」を定義出来、この物理単位は[J]ジュール。
一方で、この'力'を位置ではなく「経過時間 t」で積分すれば「運動エネルギー  (m/2)v2」を定義出来、こちらも物理単位は[J]ジュール。
もちろん、「運動エネルギー」の’表現上のメリット’は分かるよ。
なんらかの「単振動エネルギー」とも見なせるし、「位置エネルギー」としての表現も可能であるからであり、どれも物理単位は[J]だ。

それにしても、「仕事」と「運動エネルギー」それぞれを導くにあたっての積分次元の違いにはいかなる意義があろうか? ─ そもそも意義ではなく数学上の技法にすぎないのでは? ─ とあらためて考えてみた。

いかに文系あがりの僕だって、たかが高校物理の基本くらいは分かってんの。
しかしながら高校時代に数学くんとは不仲だったため、微積分とくに積分についてはきっちりとは理解していない。
それでもとりあえず納得しているところ、以下しるす。


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「運動方程式 ma=F 」にて 位置x、速度v=dx/dt、加速度a=dv/dt である以上は、すべて時間tの関数。
※ ロケットなどでは燃料消費にともない全体の質量mが減っていくので、質量mもまた時間tの関数ではあるが、ここでは簡単のため質量は一定とする。

「運動方程式 ma=F 」 の両辺に速度vを掛けると
mv(dv/dt)=Fv  ⇔  mv(dv/dt)=F(dx/dt)
ここで、時刻t0においては速度がv0 また位置がx0 として、両辺をt0~t1で積分(置換積分)すると、
v0=v(t0), v1=v(t1)       x0=x(t0), x1=x(t1) 
(v0→v1)mvdv =  (x0→x1)Fdx
   ⇔   (vo→v1)[1/2mv2] =  (x0→x1)[Fx]
  ⇔  1/2mv12-1/2mv02  =  F(x1-x0)
つまり、特定の時間t0~t1で積分してみれば、「力」の経過位置xによる「仕事」の増大は経過時間tによる「運動エネルギー」も増大させていると明らかになる。
※ ここいらのところは駿台の新・物理入門などにても前段部にさらっと記されている。

かくて「仕事」は経過時間tによっても表現出来ることになり、あらためてふっと眺めやれば位置(距離)は時間の積でもあるのだから当たり前ではある。


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…とまあ、あらためて納得は出来たものの、一般社会における見識からあらためて考えてみると、「仕事」を経過時間で表現するというこの’論法’というか’根性’はどうも気に入らない。

そもそも一般社会だって物理法則に則っているはずであり、人間によるさまざまな「力」が投入され、さまざまな「仕事」が為され、かつさまざまな「エネルギー」が消費される(新たに生み出される)。
そして、或る「仕事」の成果をあくまでも線形のそれと見做すならば、位置(距離)を微分し積分する方が測定上はずっと容易であろう。
一方で、「仕事」を「経過時間」の積分として捉えるためには、まず時間をギリギリ微分して測定しなければならず、加速度の測定ともどもこれはおそろしく困難であろう。

それにもかかわらず、「仕事」を経過時間だけで積分的に表現するってことはだぜ、誰かが猛烈に「エネルギー」を費やそうが別の誰かが居眠りしていようが、経過時間のみで押し並べてみんなよく「仕事」をしているねぇということにもなり…
さらにやっかいなことには、経過時間を一律にカネと交換する作法が一般社会に根付いていやがる。
もっとやっかいなことに、女たちも移民労働者たちも「力」と「仕事」と「エネルギー」の区別が無く、もう次元も積分もへったくれもない ─ かもしれず、それでいまや経過時間とカネのみがガチンガチンの方程式を…。

※ ここいらは高校生諸君には理解し難いかもしれぬ。

まあいいや、人間はどうしても利害損得に拘り、しかも価値と権利とカネを塗すものだから、どうしても理科から離れ社会科に偏り、だんだん不愉快になってしまうもの。
このへんはまた気が向いたら記そう。


おわり

2025/01/12

新成人 (2025)


新成年おめでとう。
此処の投稿内容は、昨年の新成年の日に際して書き綴ったものを元に記している。
以来、僕なりに考えは変わっていないため、概ね同一内容を繰り返し記すことにする。

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昨日まで子供だった諸君らにとって、「実体」「論理」は一緒くたの不可分だった。
というより、すべて「実体」そのものに映っていたことだろう。
しかし、成年に達したということは、その彼/彼女にとって「実体」の次元と「論理」の次元が完全に分離したということ、そして、これらどちらもともに生きなければならぬということである。

だから、此度は「実体」「論理」について、ちょっとだけ理屈をおいてみよう。


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あらゆる物質も物体も、そして我々の肉体もまた脳神経すらも、1度に1つ限りの自然な「実体」である。
たとえば、遺伝子や細胞はむろんのこと ─ 水や食材、薬剤、電磁波、核、熱、鉱物、イオン、木材、鉄鋼、コンクリート、ガラス、プラスティック、機械類、半導体や導線、火力兵器、核兵器、ウイルス物質、ワクチン、さらにスポーツや絵画や音楽や文学などなど。
もちろん地震や津波は実体の超巨大な複合といえよう。
これらは何らかのエネルギーから起こり、何らかのエネルギーに転化もできる、だからこそ「実体」といえる。
日本国、皇室、日本人、お正月、アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、ロシア人…そして伝統文化や社旗規範なども「実体」

「実体」は、途切れることなく連綿と変化し続けてはいるが、どこまでも有限の存在でもある。
変化し続けている以上は、「実体」それら自体をデジタルに均等細断することはおそろしく困難、ましてや有限の存在ゆえ、完全無欠の複製や流動や組み換えや復元はもっと困難、(素粒子レベルで本当に復元できようか)。

君たちは「実体」として生まれ、「実体」として育ち、「実体」として成人した。
「実体」として走り、「実体」として跳び、「実体」として「実体」を見聞し感受し、「実体」に対して右ストレートや左フックを叩き込み、「実体」を掴んで抱えて上手投げや下手投げを繰り出し、「実体」をぶっ叩いて場外ホームランを叩き出し、「実体」を蹴り飛ばしてオフサイドギリギリのシュートを放つことも出来る。


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一方では、成年なりたての諸君を大いに惑わしうる「論理」について注記しておこう。

「論理」はどれもこれも人間が考案した観念でしかない。
たとえば、数学とか言語とかソフトウェア(デジタル)とか、通貨とか価値とか税とか証券とか保険とか、法とか権利とか義務とか、多数決とか議会とかメディアとか…
さらに、国際金融資本、アメリカ合衆国、ヨーロッパ連合、ウクライナ政府、中国共産党、国際連合、NHK、感染者数、などなど。

人間考案の観念にすぎぬがゆえ、あらゆる「論理」は無限を前提とし得る。
無限の「論理」ゆえにこそ、作為的に意義や文脈を無視してデジタルに均等断裂が出来、なんぼでもシャッフルして組み換えが出来、さらに複製も流動も自由自在、そしていつかどこかで完全復元もOK ─ ということになっている。

「論理」のほとんどは、しばしば言葉遊びでもある。
たとえば「勤労の義務」は規範とされているが、「雇用の義務」という規範は無い。
また、「生産」および「生産物」は「実体」だが、「生産性」はカネまわしの「論理」でしかない。
「地球の気温」は「実体」だが、「温暖化あるいは寒冷化」となると「論理」でしかない。

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何が言いたいのかって?
成年なりたてホヤホヤの諸君に伝えたいことは、要するに簡単なことだ。
「実体」あってこその「論理」である!
「論理」のために「実体」があるわけではない!
有限の「実体」を改編し新規に作り上げるためにこそ、さまざまな「論理」の無限のフレキシビリティが起用される!
感染という「論理」をコロコロ転がしてカネをコロッコロと回すために、諸君らの肉体という「実体」が犠牲になってよいわけがない!

ひとたびカネに変えてしまった肉体を完全な元通りに買い戻すことは不可能なんだぞ!


君たちの多くが学んできたとおり(あるいは言い聞かされてきたとおり)、物理学は名称こそ紛らわしいが明らかに「実体」に則った学問である。
その証拠に、「万物」の運動現象をとことん還元すれば何らかの物体の単振動、それら力の作用と反作用である ─ などなどと断言している。
そして、エネルギーとその仕事の有限性に則ってこそ、エネルギー保存則もエントロピー限界説もある。
一方で、数学は「論理」でしかない、だからエネルギーも保存則もねぇんだ、無限にずーーーっと縦横無尽の展開をしていくんだ。

なるほど、物理学は数学「論理」によってさまざま新たな仮定もおこり、新たな発見もなされ、それらによってこそプラスティックもシリコンウエハーもコンピュータも航空機もレーザーも量子マシンも核兵器も生み出してはきた。
だから、「論理」あってこその新規創造だろうと反論したくなるかもしれない。
しかし、じっさいに生み出されたそれらは有限の物理環境においてこそ駆動するもの、だからどこまでも有限の「実体」である。

生命科学によって出現したクローンやIPSにしてもそうだ。
クローン男にせよ、IPS女にせよ、数学「論理」によって設定された完全な同一複製や組成再現であるはずだから、「論理」あってこその新たな生命秩序じゃないかと言いたくなるかもしれない。
しかしながら、それらはひとたび発生した瞬間から別々の環境にて別々の代謝を始めるもの、ゆえにどれもこれも別々のそして有限の「実体」である。


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グダグダと書き殴りやがって…と閉口しているかもしれぬが、ともかくも「実体」と「論理」の峻別は個々人にとっても国家民族にとっても生きるか死ぬかの超重大問題。
独立した成人であれば、なおさらのことだ。
だからこれからも何度でも繰り返すつもりだ。


以上

2025/01/07

教育と教師について

大層なタイトルを充ててみた。
此度の主題は若年層(とくに未成年)に対する教育である。
東芝在籍時から僕なりにずっと抱き続けてきた信念であり、今も変わらない。

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まず、人間の性分を以下の①と②に大別する。

① 実体と量(掛け算と足し算)のタイプ
こちらは、位置エネルギーが高く、文脈エントロピーはまだまだ小さい、つまり若くてワイルドで夢一杯の人間である。
自然物の動的/アナログ量に挑み、どかんどかんと変えつつ、もっとどっかんどっかんと繋ぎ合わせてゆく連中である。
新規のワイルドな心身鍛錬、新規の想像と創造、新規の素材の組み合わせ、新規の製品開発と市場開拓、新規売上と市場の拡大 ─ を図る人たちである。
発想そのものが理系型である。
なるほどタイミング次第ではインフレもデフレももたらしやすいが、産業と市場の大拡大をももたらす。

聞き及ぶ範囲では、戦前~戦中の日本人の多くはこのタイプであったようだ。
トランプと仲間たちもこういうアメリカを復活させようとしている。
たぶんロシアもだ。


② 論理と数(割り算と引き算)のタイプ
こちらは、既に位置エネルギーは低く、文脈エントロピーがかちんかちんに肥大化し固まっている、つまりジジイのこった。
物質量そのものではなく、論理/デジタルの数、通貨換算上の価値と権利を(そして通貨そのものを)奪い合い削り取っていく連中である。
既存の産業や市場に便乗し介入して、産品や製品を潰してでも利益を啄んで溜め込んでゆくやつらである。
発想方式は非理系である(文系とも称す)。
リストラとデフレと詐欺をずーっと継続しやすい。

聞き及ぶ範囲では、戦後の日本人にこういう連中が増えてしまい、せっかくの産業拡大や市場拡大を食いつぶしているようだ。
なにしろ物質量ではなく論理数の勝負を続けるため、議会と政党とカネ貸しと証券と保険と広告とメディアなどなどに多く、もちろん富の収奪も独裁政権も起こりやすい。


①と②は補完的に協力しあえば素晴らしいのだが、おそらくは①が盛り上がってくると②が出張ってきて、居座って、かっさらっていく。

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さてそれでは、未成年たちに伝えるべきは①と②のどちらの思考であり、どちらの’生き様’であろうか。
もちろん①のタイプに決まっている。

未成年はもとよりワイルドな自然物からの影響を大いに受け、だから心身の位置エネルギーが高い。
一方で文脈のエントロピーはほとんど無いので、何につけても俺流あたし流でやる気満々。
だからこそ、大抵の事に我慢してでも学校に来て修練に励み、分厚い本でも読んじゃったりするのだ。
こういう連中を相手にするのが教師だ、だから教師自身もこういうタイプでなければならぬと、こういうこった。
スポーツ選手でもいい、芸能人でもいい、農業や漁業でもいい、研究開発者でも設計担当でもSEでも営業でもいい、とにかくおのれ自身がワイルドな実体であり、変位と変容を続ける物質量である、そういう①のタイプの人間こそが、未成年とどっかんどっかん対峙する教師に向いているし、成るべきであると。

タブレット教材がどうこうと批判する声も依然として喧しいようだが、いいじゃないのタブレットでもスマホでも。
それらをひっ掴んだ子供たちがワイワイ叫びながらあっちこっち駆け回っていれば、それでいいのだ。

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教師が①のタイプばかりになると教育現場において統制が効かなくなる ─ などとぶちぶち言っているのはきっと②タイプのジジイどもで、頭の中がカネの割り算と引き算ばっかしだ。
こういうジジイ連中が数の論理で群れて集まって、世の中からカネを毟り取ることばかり考えている。
彼らにとっては、子供たちもまた実体量ではなくてただの数なのだろう、だから統制とか効率化とか唱えつつ、子供たちをギッチギチに矮小化させて型に嵌めてとっとと流してしまえと、こういうことじゃないかしら。

②の素養が全く無益だと言いきるつもりはない。
どうせ誰でも社会人になれば②に翻弄され苛まれ悩まされるに決まってんだ。
しかし、②のタイプの人間を未成年の教育現場に充ててはならない。


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ついでに。
①についての面白い論題のひとつが、「工業の宿命」であろう。
これはまた、「数学と物理学」の功罪でもある。
工業は素材としては自然物でありさまざまな実体量ではあるが、その製造過程は同じ電圧と同じサイズと同じ品質精度に拠っており、だから規格化も画一化も独占すらももたらしやすい。
よって、上手くやれば市場拡大も支配も容易だが、いったん普及してしまった製品は値崩れしやすい。
そこで手を変え品を変え、精度や密度や強度さらにソフトウェアを変えたヴァリエーションを提供しなければならぬが、もちろんこれとてどこかでネタ切れになる。
数学と物理学のみに拠っていれば、どんな工業製品でも必ずこうなる。
いつかどこかでデフレをもたらす。

しかしまだまだ①の新規創造の余地はあるんだ ─ 既得のヴァリエーションではなく自然物そのものつまり素材そのものを新たに充ててゆけばよい。
これをもたらすのが「化学(と生物学)」である。

(このあたり、また新たなヒントを掴んだら書いてみよう。)

おわり