もちろんこの’力’の方程式は数学上ギリギリ演繹され絞り込まれたものではなく、自然観察上の統一された経験則として常に成立している。
この’力’を、行使される「位置x1, x2」間にて積分すれば、「仕事」の一般解 ∫(x1, x2) Fdx」を定義出来、この物理単位は[J]ジュール。
一方で、この'力'を位置ではなく「経過時間 t」で積分すれば「運動エネルギー (m/2)v2」を定義出来、こちらも物理単位は[J]ジュール。
もちろん、「運動エネルギー」の’表現上のメリット’は分かるよ。
なんらかの「単振動エネルギー」とも見なせるし、「位置エネルギー」としての表現も可能であるからであり、どれも物理単位は[J]だ。
それにしても、「仕事」と「運動エネルギー」それぞれを導くにあたっての積分次元の違いにはいかなる意義があろうか? ─ そもそも意義ではなく数学上の技法にすぎないのでは? ─ とあらためて考えてみた。
いかに文系あがりの僕だって、たかが高校物理の基本くらいは分かってんの。
しかしながら高校時代に数学くんとは不仲だったため、微積分とくに積分についてはきっちりとは理解していない。
それでもとりあえず納得しているところ、以下しるす。
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「運動方程式 ma=F 」にて 位置x、速度v=dx/dt、加速度a=dv/dt である以上は、すべて時間tの関数。
※ ロケットなどでは燃料消費にともない全体の質量mが減っていくので、質量mもまた時間tの関数ではあるが、ここでは簡単のため質量は一定とする。
「運動方程式 ma=F 」 の両辺に速度vを掛けると
mv(dv/dt)=Fv ⇔ mv(dv/dt)=F(dx/dt)
ここで、時刻t0においては速度がv0 また位置がx0 として、両辺をt0~t1で積分(置換積分)すると、
v0=v(t0), v1=v(t1) ⇔ x0=x(t0), x1=x(t1)
∫(v0→v1)mvdv = ∫(x0→x1)Fdx
⇔ (vo→v1)[1/2mv2] = (x0→x1)[Fx]
⇔ 1/2mv12-1/2mv02 = F(x1-x0)
つまり、特定の時間t0~t1で積分してみれば、「力」の経過位置xによる「仕事」の増大は経過時間tによる「運動エネルギー」も増大させていると明らかになる。
※ ここいらのところは駿台の新・物理入門などにても前段部にさらっと記されている。
かくて「仕事」は経過時間tによっても表現出来ることになり、あらためてふっと眺めやれば位置(距離)は時間の積でもあるのだから当たり前ではある。
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…とまあ、あらためて納得は出来たものの、一般社会における見識からあらためて考えてみると、「仕事」を経過時間で表現するというこの’論法’というか’根性’はどうも気に入らない。
そもそも一般社会だって物理法則に則っているはずであり、人間によるさまざまな「力」が投入され、さまざまな「仕事」が為され、かつさまざまな「エネルギー」が消費される(新たに生み出される)。
そして、或る「仕事」の成果をあくまでも線形のそれと見做すならば、位置(距離)を微分し積分する方が測定上はずっと容易であろう。
一方で、「仕事」を「経過時間」の積分として捉えるためには、まず時間をギリギリ微分して測定しなければならず、加速度の測定ともどもこれはおそろしく困難であろう。
それにもかかわらず、「仕事」を経過時間だけで積分的に表現するってことはだぜ、誰かが猛烈に「エネルギー」を費やそうが別の誰かが居眠りしていようが、経過時間のみで押し並べてみんなよく「仕事」をしているねぇということにもなり…
さらにやっかいなことには、経過時間を一律にカネと交換する作法が一般社会に根付いていやがる。
もっとやっかいなことに、女たちも移民労働者たちも「力」と「仕事」と「エネルギー」の区別が無く、もう次元も積分もへったくれもない ─ かもしれず、それでいまや経過時間とカネのみがガチンガチンの方程式を…。
※ ここいらは高校生諸君には理解し難いかもしれぬ。
まあいいや、人間はどうしても利害損得に拘り、しかも価値と権利とカネを塗すものだから、どうしても理科から離れ社会科に偏り、だんだん不愉快になってしまうもの。
このへんはまた気が向いたら記そう。
おわり