2013/03/22
ボクシング考 (ハードウェアとして)
① ボクシングは、もちろん穏やかな競技ではない。
パンチで殴るという行為は相手の肉体を(ハードウェアを)痛めつけて破壊することが目的だから、もちろん教育や指導においての行使など許されようはずもなし。
その危険きわまりないパンチを、パワーと技巧を存分に込めて互いに放ち合う残虐な競技、それがボクシングである。
しかし、いや、だからこそ、力量の近い競技者同士が戦い合うボクシングは「スポーツとしては」最も密度の濃い競技なのではないかと察している。
パンチ力、膂力は言うまでもなく、スピード、持久力、知力、蛮勇、クソ度胸、執念、意地などなど…
人間の持てる先天的能力と後天的技量の全てを発揮させるスポーツとして、ボクシングはレスリングや相撲よりも徹底しているように見受けられる。
ボクシングは、「自意識を貫いて負ける」という青臭いヒロイズムすら認めない、その厳しさが素晴らしい。
自分が何を思いつめていようが、割り切っていようが、ふてくされていようが、いじけていようが…そんなこと関係なく負け犬みたいにブッ飛ばされちゃうんだから。
ボクシングでは、TV映画のような格好良い負けっぷりも意地っ張りの青春も孤高の人生観も有り得ない。
そういうスポーツを精神論で語るのは間違っており、僕も精神論を謳っている積もりはない。
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② 暫らく以前のことだが、或るボクシング番組を毎週欠かさず視聴していた時期があった。
その番組に投稿したこともある。
「ボクシングは戦闘機の空中戦に似ていると思います、足による機動力があってこそ、相手の頭部へのパンチ加撃の最適なポジションを優位に確保出来るはずです」、と僕は記した。
むろん、ボクシングの目的は「少しでも早く」相手を戦闘不能に追いやること、言わずもがなである。
ほどなくして、ある夜のタイトルマッチ実況中継で。
ボクシング解説の超有名人であるジョー小泉氏が、実況中継中に突然ポツリと、「ボクシングは足運びで決まるんですよ」と仰ったではないか。
どういう偶然かは判らないが、ああ僕も一応は物を見る目が有るのかなあと嬉しくなり、ますますボクシングへの思い入れが高まったのであった。
そんなだから、ボクシングについては、今でもいろいろ書きたいことが有る。
次から次へと、薀蓄も湧いてくる。
これほど題材に事欠かない「文化」は、他に無いかもしれない。
しかしいちいち思いつくままに書いていては、とてつもない分量になってしまうので、少し考えさせられるところだけ絞って記す。
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③ 戦後、日本人は体位向上して、というが、ボクシングの世界ではその日本人の体位向上が見事なまでに「反映されていない」。
戦前から戦後、現在に至るまで、日本人の世界トップ級選手はほぼずっと中量級以下の体重階級に在る。
昨年のオリンピックで村田選手がミドル級で金メダルを採って、大快挙と報ぜられたが、ミドル級とはいっても、それは本来のボクシング競技の起点であるヘヴィ級に比して軽量だからこそ「ミドル」なのであって、これは世界的には重量級ではない。
現行の「安全な」ボクシングルールに固まって(1867)から現在に至るまで、既に146年間…ボクシング最古にして本丸の「ヘヴィ級」におけるトップランカーに、黄色人種は居ないのである。
ミドル級金メダルの村田選手は確かに偉大だが、しかしスポーツ先進国であるはずの日本でいつまで経ってもヘヴィ級ボクシングのチャンピオンが輩出されないとは、何とも不可思議な現状ではある。
因みに、それ以前のボクシングは、といえば。
それは欧米で広く行われていた、素手で殴ったり噛み付いたり首を絞めたりという古代さながらの殺し合いだった。
仮にそこに江戸時代の横綱などが挑戦したらどうだったか、などと考えてみるのも面白いが、しかし我々日本人がそこまでケンカで強かったとしたら明治開国以来ボクシングチャンピオンが日本から続々排出していたはず。
実際は逆で、日本の大相撲でもボクシングは危険視されており、力士のボクシングは禁止されていたような、そんな記事を読んだ覚えがある。
第一、日の下開山の関取がボクシングなど、どこか悲劇的でもある。
その相撲において、また柔道においても、日本人は体格の利を活かして既に世界的なトップレベルに在る。
だがボクシングでは、最重量級において黄色人種の世界ランカーが依然として現れていない。
なぜこれが問題視されないのか、寧ろ不思議でさえある。
ボクシングはマイナーな競技だから、という見方があるのだろうか?…とんでもない、ボクシングはサッカーと並んで世界中に最も広く遍く普及したスポーツである。
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④ もしかしたら。
戦闘行為における適正サイズは人種ごとに決まっており、黄色人種は体重80kgあたりを超えると白人や黒人に比べてパワーとスピードのバランスが崩れるのかもしれない。
とすると、黄色人種はいくら喰っても、いくら鍛えても、白人や黒人には勝てないということか。
また、白人や黒人との混血が多いであろう中南米であっても、やはりヘヴィ級のトップランカーがほとんど居ないが、これはどうしたわけか。
或いは、相撲やレスリングのように身体を密着させる競技ならば黄色人種でも勝ち残れるということなのだろうか?
どこまで関係あるか分からないが、アメフトでも短距離走でも黄色人種の世界トップ級選手はほとんど居ない。
そういえば野球の強打者も、戦後から現在まで骨格はほとんど変わっていない。
トレーニング方法の違い、戦術の違いによって動作や体型は変わっただろうが、強打者の身長はいつまで経っても176cm~185cmあたりに留まっており、戦後70年近く経つのに身長2mの首位打者は出ていない(大リーグでも居ない。)
※ 尤も、野球の場合はボールやバットのサイズがずっと同じだから、強打者の骨格サイズもほぼ同じなのだろうか…。
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⑤ 古い世代のボクシング解説者と、新しい世代の解説者は、ちょっと着眼点が違う。
ははぁ、古い人たちは精神論だな、というかもしれないが、そんなものボクシングには無いって。
概して、古い世代の解説者ほど、ボクシングを主としてハードウェアのリアリズムとして捉えているようであり ─ つまりは、少しでも短時間で相手を戦闘不能に追い込むことだとの言である。
そのせいかパンチ力とスタミナに重きを置いて語りがちのように見受けられる。
「あんなに一方的に打ち込まれたらいくらガードしていても疲れますよ、打つより打たれる方がずっとスタミナを消耗します。相手は握力も背筋も首の力も強いですね、あれで殴られたらかなり効きます、力の弱い人はダメです、バランスが崩れて、すぐにヘタりますよ」
などと。
ところが、世代が下るにつれ、ボクシングをロジックとして捉えているようで。
「顔面に左フックを打ちこまれたら、すかさず右からボディにストレート、これは裏を突いたパターンですね。それと、左ジャブから右アッパーも盲点ですよ、ここでの攻撃と防御のパターンはいいフェイントです、それからクイックに右に回ってカウンター気味のフックも面白いですね」などという。
しかし、チェスやジャンケンじゃあるまいし、顔面をぶっ飛ばされるのと腹を殴られるのが同じダメージのわけがないことは、いちいち実演してみなくたって分かる。
何度も同じこと書くが、ボクシングは論理ではなく、物理であり、取引交換ではなく破壊である。
だから、すべての時間が均等に流れるわけではない。
少しでも早く顔面を打ってノックアウトしてしまえばよいのである。
第一、リングでイチかバチか戦っている選手が、瞬時に様々なプログラム通りに動けるものか。
相手がまさに目の前でこっちを殴り倒そうとしているってのに。
スティーヴ・ジョブズの信奉者あたりがソフトウェア・シミュレーションでインテリを気取るのもいいが、それでも我が国ではヘヴィ級のランカーをこれまでどうしても輩出出来なかったのだから、何かリアリティ分析が…いや、リアリティへの想像力が足りないのではないか。
ソフトウェアは次のソフトウェアを紡ぐことは出来ようが、同じ次元でいくらコンビネーションを編み出しても、それだけでは新たなリアリティを見出すことは出来まい。
以上