2015/02/27

ma = nb

(1) 数学 (mathematics) はフィクションに過ぎないじゃないか、と思うことがある。
そもそも数学とは、なにがしかの物理的な実体のエネルギーによる実体活動だろうか?
とくに、人体頭脳の如何なる部位における、いかなる物質作用による思考活動なのか?
数学の苦手な人が、特定の食べ物や脳手術によって数学得意になり、特定の物質をずっと家に保管しておけば、そこから発せられる放射線か何かによって数学力がスーっと…。
もしそうでないのなら…数学は 「実体から自生する物質や電気の量」ではなく、「実体と実体の狭間にて帳尻を合わせるフィクション」 に過ぎぬのではないか?
(実は、ハードウェアとソフトウェアについて考えを及ぼすたびに、ここのところに突き当たり、煙幕に捲かれてしまう気分になる。)

たとえば、「ある数学の観念A」に対して、大勢の人々が「素人の疑問a1, a2, a3, a4 .... 」を抱いたとする。
それら「素人の疑問群」 こそが人間のフィジカルな本能から自生するものならば、「数学観念A」の方こそが人間の本性に反したロジック系とは言えまいか?
ただし、「数学観念A」は極めて強力にして伝播性も強く、経験量の差はあっても多くの素人の内部に 「数学免疫A」 が形成され易いので、それをもとにして素人たちも更に 「数学観念B、C、D」との同期を取り易くなるのでは。
かくして。
宗教や法規範観念といったフィクションに似て、数学も伝播性や移植性や共有力が極めて高いフィクションなのである、という気もしてくる。

※ なお、数学がフィクションか人間の本性かと深く洞察した好著として、 『数学の創造力』 という実に野心的な本があり、これは皆さんにオススメである。
暫く以前に本ブログの読書メモとしてささやかに書き置きた。

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(2) ともあれ数学のうちには、門外漢の日常生活の通念ではどうにも併走出来ない理屈が存る。
だから嫌いだ、とは言わぬ ─ そもそも数学の偏差値が60を越えたことの無かった僕でさえ、じつは秘かに「数学免疫」を蓄積しているのである。
しかし、だ。
素数を活かすもの、これだけはどうも腑に落ちない。
本当のところ、合成数をわざわざ素数同士の絶縁関係にバラしたりする手口には同調しきれていない。

あらゆる合成数は、必ず素数に分解できる ─
と、数学の教育者はこともなげに言う (さらに偏差値70の眩いほどに立派な高校に通うガキどもまでが、フンフンと偉そうに。)
ほぅ、そうかい、となんとなく同意は出来るが、それにしても素数というのは実に「非人間的な」観念だと、僕は心中で歯ぎしりしている。
たとえば。
高校数学の前半期に学ぶ、こういう設問について。

33m + 80n = 2200   を満たす、自然数 m, n を求めよ。

本問の前提として。
まず自然数 2200 が、互いに素である 33 と 80 それぞれの何らかの倍数の和であること。
かつまた、自然数  2200 は 自然数 m, n それぞれの倍数の和でもあること。

さて、与式を変形して、33m = 2200 - 80n = 40(55-2n)  と、とりあえず 33 と 40 という互いに素の自然数に分ける。
ただしこの変形の目的は、m の値を絞り込むためではなく、むしろ何らかの自然数と n を互いに素の関係に転置するため。
左辺 33m が如何なる自然数であろうとも、右辺の 55-2n は 33 の何らかの因数 (だから33以下)だという。
なんという、非人間的な思考操作であろうか。
ともあれ、ここで n が 22 ならば、上の式の右辺は 40 x 11 = 440 だ。
式全体では 33m = 440 となる、がこれを満たす自然数mはない。
つぎに、n が 11 ならば、上の式の右辺が 40 x 33 = 1320 となる。
よって式全体では 33m = 1320 となり、m = 40 で自然数となるから等式が成立、したがい n = 11 となる。

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(3) さらに、こんなものもある。
今度はむしろ、ある自然数同士が互いに素であることを前提として、その「素」具合の普遍性を導くものだ。

「自然数 a と b は互いに素、とする。
このとき、(a-b) と b も互いに素であることを証明せよ。
なお、a>b とする。」

テキストの手ほどきに従うと ─
証明すべき (a-b) と b の関係において、最大公約数を G と設定、この G が 1 にしかならぬことを証明すればよいのだそうだ。 
そのさいに、a, b, (a-b) とGの関係を、やはり互いに素である m, n を新たに起用し、それらとの組み合わせで表せばよい、と。

(a-b)  = mG  …つまり (aーb) のうちに最大公約数Gがm個ある
また、b = nG …つまり b のうちに最大公約数Gがn個ある
と、まず再定義出来る。
この前提でさらに、b と互いに素であるはずの a を表現すると
a = (a-b) + b = mG + nG = (m+n)G …つまり a のうちにも同じ G が(m+n)個ある。
ここでわかること。
G は a と b のなんらかの公約数である。
その a と b は前提によって互いに素であった。
よって、 G は 1 のみとなり、だから (a-b) と b は互いに素である。

つまり、a と bが互いに素である前提と、(a-b) と b の最大公約数 G が1である証明目的とを、上の再定義によって上手く橋渡しして本件は証明出来るわけ。
こういうのを見せられると、数学問題の出題要領もなんとなくわかっちゃう。
ある要素間の数学的な関係を 「どこまで開示するか」ではなく、 「どこの関係を隠しておくか」。
しかしそれにしても ─ 
素数の性質(という非日常感覚的なフィクション)を活かしつつ、数学というフィクションを証明するのだから、これはかなり飲み込みがよくないと未消化のままで終わっちまうぞ。

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(4) ついでに。
以前にどこかで書いたこと。

素数が不規則かつ永遠に在りうるというのは10進法での現象、しかし、2進法や3進法などの世界でも素数が不規則かつ永遠に在るといえるのだろうか?

本問につき、どのように解釈すればよいのか今だに分からない。
今度は、同じフィクションではあっても、もうちょっと人間的な 「数列」 あたりでも食べてみようかなと考えている。

以上

2015/02/05

P(x) - R = (ax+b)・Q(x)

久々に勉強論シリーズだ。

諸要素の関係付けを新発見しつつ自在に組み替える ─ という思考の属性において、経済学は理科よりも数学に多少はかぶっていると思う。
では…たとえば資本主義経済のあり方を、ものすごく単純な等式で表現出来ないだろか?
といったところから、ふと思いついたので記す。

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① まず、数学の基本事項として、「剰余の定理」とか「因数定理」などと称される等式があるが、ご記憶だろうか?
こんなやつである。

P(x) : 或る変数xを含む任意の整式
R : その変数xを含まない「余り」
(ax+b) : その変数xを含む因数のかたまり
Q(x) :やはり変数xを含む因数、但しこれを割り算の商とする。

これらを等式にまとめるとすれば、P(x) - R = (ax+b)・Q(x)
一般的にはむしろ、P(x) = (ax+b)・Q(x) + R とおく場合が多いようで。
ここまでは、いいですね?
(というか、文科系学部を出た僕でさえ、こんな程度のことはすぐに思い出すのよ。数学は取り組む意識次第で基本は理解出来るもの、才能がどうこういうのは視座の転換そのものが必要になってから。)

さて、たとえばこの整式 P(x) にて、因数 (ax+b)全体 が0となるように x を仮設定すれば、商である Q(x) も0となり、だから 余りR の値だけが実数として定まる
 …というのが、高校数学でレクチャーする「余りRを導き出すテクニック」 だ。

しかし、この等式から積極的に学び取りたいことは、むしろ変数 x を含む因数含まない項(R) の違い

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② ここで、ちょっと思考実験してみよう。
上の等式にて、x を 「技術力」 とする。

P(x) :技術力(x) を含む任意の供給能力
R : 技術力(x) を含まない余り、ここで「余りのカネ」とおく
(ax+b) : 技術力(x) を含む因数で、aを必要資源とし、bをヒラメキとする
Q(x) : 技術力(x) を含む因数で、既得の技術とする

すると。
P(x) 任意の供給能力 - 余りのカネ = (必要資源・技術力 + ヒラメキ) ・ 既得の技術
この等式が、資本主義経済における最小単位の等式だ、とはいえないだろうか?
もちろん、両辺が大きくなるにつれて余りのカネも大きくなり、やがてその大部分が新たに本等式右辺の因数となる(按分される)のが望ましい。

そして、もしここで何らかの陰謀により、剰余と因数の定理に従って (必要資源・技術力 + ヒラメキ) をゼロにしてしまえば、既存の技術もゼロとなり、よって、任意の供給能力 P(x) - 余りのカネ = 0
つまり、供給能力はカネだけだとなる。
うむ、こうしてみても確かに資本主義経済の基本的な等式ではある、それも何にも生み出さない世界の。

これがなんらかの供給者の等式たりうる、とすれば、同時になんらかの需要者の等式でもありうる。
なんらかの供給者はなんらかの需要者でもあり、供給者と同様に需要者にもなんらかの 技術力(x) があるはずでしょう。

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…と、まあ、これはご察しのとおり、等式のかなり強引な引用による思いつきにすぎないし、どこか狂っているかもしれない。
等式というところがなんだか子供っぽい、統制型経済の構図みたいだ、自由競争による経済成長は何事も不等式で進むのだ、などなどと指摘されるかもしれない。
そんなことは、わかってんの。
なんにせよ、もうちょっと面白いやつをまた思いついたら、そのうちに記してみよう。
※ ただし、株式と利益についての関係式などは、供給能力やその因数(技術力)が出てこないから、あまり知的な遊びオプションは無い。

以上

2015/02/01

『いただきます』 を英語で

英語について、また語ってみる。
ただ、母国語(僕にとっては日本語)こそが自身の意識の大半でもあり、入力・出力情報の大半でもある。
その上で外国語について考えてみよう、となれば、もう混ぜこぜ、だから母国語をもって外国語を「独立した系」として語るのはとてつもなく難しい。
よって、とりあえずの雑記雑感となる。
ただし、雑記なりにも最初にまとめて記しておくが、英語力は連想力が伴わなければならぬと思う。
それも、言葉の連想力以上に観念の連想力であって、だから教養が必要になる。

なおここでは、TOEFL や TOEIC といった資格試験を非難しているのではなく、それらのみをもって「日本人の英語力」と捉えてよいのかと問題提起しているつもり。

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① 日本語の 『いただきます』 を、異文化の人々に英語で伝えきれるか?

「いただきます」は、少なくとも以下の日本人の思念を渾然一体させた言葉だ、と僕なりに連想力を働かせてみた。 
・自然のめぐみよ、私の食材になってくれてありがとう。
・料理してくれた人へ、配膳してくれた人へ、私のためにありがとう。
・この素晴らしき機会よ、ありがとう。
・さあ、私はいまや心身ともに食べる準備ができましたよ。

そこで、今度はこれらをおおぐくりで観念化して英語へ。
たとえば "Thanks to all lives and things !" と言ったことがある。
生きとし生けるもの全てに感謝しつつ、食べましょう、のつもりだった。
ここで"all lives"とおいた僕なりの複合的な真意が、英米人に伝わったかどうか。
なんとなく伝わったような気もしたが、ちょっと大仰でもあるので、"Bless to all lives" と言いなおしてみたり。
お~やおや、"Bless" は神の下でのお祈りフレーズですよ、と指摘する人も多いが、そねなこと分かってんのよ。
その「お祈り」が、どこまで拡張解釈が可能かってところまで連想力を働かせたわけ。

同じく、日本人の根源的な思念である 「わびさび」 にしても、「心技体」にしても、「土俵入り」 「はっけよい」 などにしても、英語で一気にまとめて伝えるには、観念の連想力が必須じゃないかな。
分析的な注釈としてダラダラ描写するのなら、英語でいくらでも可能、しかし、それでは渾然一体とした精神文化を伝えきったことにはならない。
どうしても、観念の連想力が必要になると思っている。

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② 仔細は明かせぬが、ビジネス英語の初歩というべきくだらないエピソードにつき、ちょっとだけ記す。 
ずいぶん以前のことだが、かつて僕は或る海外顧客からこんな英文コレポンを入信したことがある。
"Some of your product features do not meet our technical standards. "
さて、この "not meet our technical standards" は、どういう意図で記された語だろうか?

僕なりにちょいと連想力を働かせて、これを 「技術規格からはずれている」 と解釈し、関係者たちにその旨を伝えた。
すると、一人のTOEICハイスコア男がいわく。
「standard は標準という意味だ、つまり技術的な標準からはずれていると言っているに過ぎず、特定の技術規格など指してはいない。翻訳は正確にしなさい」
いいえ、と僕は反論した。
「"standard(標準)" は完結した観念ではなく、なにがしかの要件=つまりここでは先方の技術規格が有るからこそ standard も定義されているはず。だから、技術的に規格外であるということになる」
なお、自己弁護ではないが、あらためて 「規格」 という日本語を逆に standard と英訳するとキッチリ伝わるケースも多い。

なんだ、くだらない、そんなこと先方に直に問いただせばハッキリするじゃないか、と思われるだろう。
そのとおりで、実際に先方に確認したところ、やはり特定の技術規格要件に則ってのメッセージだった。
だから僕の方が賢いのだ、と主張するつもりはない。
ただ、英語を用いるには、知識量のみならず、連想力(教養力)も大切なのだ ─ との僕なりの念はこの頃からのもの。

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③ 英語力と連想力(=教養力)について、さらにあげておきたい。
以下に記す英文版の日本国憲法前文(preface)のうち、下線部の"all nations" はイスラム国や中国や北朝鮮をも含むか?
We (the Japanese people) believe 
that no nation is responsible to itself alone, 
but that laws of political morality are universal; 
and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.

むろん、日本国憲法は日本人が解釈し、また具体的な法規の理念的な大本に留めるもの。さはさりとて、ここでの sovereignty (独立主権)はイスラム国にも有り、かつ他の主権国家と併存しているといえるのだろうか?
観念理解に留めるべきものに過ぎず、厳密解釈はあえて不要であろうか?

…などなど、多元的に連想力を働かせつつ、本旨について考えてみたい。

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④ 以上から、あらためて言いたい。
観念の連想力(=教養力)があってこそ、英語というアプリケーションを活かすこと「も」出来る。
逆は、ないと思う。
英語教育推進派は一貫して、コミュニケーション能力なるものを論拠に押し出すが、じゃあそのコミュニケーションとはなんだ?
おのれに観念の連想力なくして、異文化ピープルとのコミュニケーションなど出来ようか。
だから日本では、英語は18歳以上になってから、あるいは大学生になってから学べばよろし、と言っているのだ。
(18歳にもなれば、どんな子だって知力は中学生よりも格段に高くなっているので、英文法だ単語だいうのも習得は遥かに早い)。

なお以前に書いたが、女性はホスピタリティ能力として英語(ほか外国語)を習得したいとの念が強いようだ。
ただ、女性は拡散思考型の人が多く、だから携帯で話しながら百人一首でバシバシと札をかっさらっていくのだろう。
だが痛快なことに、女性たちは連想力はあまり高くはないようにも察せされる。
そんな女性たちには、教養学識にのっとった多元的な連想力を磨き上げた上で、異文化ピープルとの楽しいコミュニケーションを盛り上げてくれることを願っている。
(僕は楽しいコミュニケーションなど嫌いだけど。)

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⑤ ついでに。
最近は英会話スクールについていろいろ聞く機会が有ったので、ちらりと記す。

これまでの英会話スクールでは、英単語の連想力については教えてきたが、観念の連想力(=教養)については教えてこなかった。
どのような教養分野=産業分野のため、どんな教材開発をしかけているか、全く明らかにしていない。
じっさい、電話かけて訊いてみれば、うちはTOEFLやTOEICといった資格試験を全力でサポートします、との云いだが、依拠する教養分野=産業分野が無いのに資格取得をサポートするとは、いったい何のためなのだ?
どうも、主要産業への売り込みはほとんど行っておらず、どこまでいっても短期顧客のぶん取り合戦で存続しているに過ぎないようだ。
でもうちは事業基盤は磐石ですよ、などと言うが、どうもカネだけの話 (にもかかわらず、そのカネをどこに運用委託しているのかはハッキリさせていない)。
経営は人材会社や金融機関の筋が取り仕切っているケースが多いそうで、短期顧客の奪い合いとカネの運用「だけ」ならばそういう人たちが向いているのだろう。

とはいえ、良さそうな未来像についても、所感ながら記しておく。
これから英会話スクールがどのように変わっていくか、実はひそかに楽しみにしているのだ。
どう変わるかを決めるのは、経営層ではない、客層だ。
これから増えていく客層は圧倒的に高齢者だともいう。
高齢者の受講生は人生経験も就労経験も豊富な方々ばかり、そんな受講生がどんどん増えていけば、英会話スクールとしてもいつまでも教養面を黙殺してはいられまい。
もしかしたら、英会話スクールこそが大学にさきがけて 「精神文化の交差点」 「教養最前線」のような存在になるかもしれない ─ 必然的に。

以上