ちょっと哲学論考。
ごく最近読んだ不思議な本として、『意識と本質 井筒俊彦・著 岩波文庫』 という難書についてざっと触れてみたい。
おそらくは、著者自身のさまざまな見識と哲学研究を大成させた著作(集)であろうか、かなり緻密かつ重層的な随想ゆえ、ここではコンテンツ抜粋/要約は記さないこととする。
ただ、少なくとも導入箇所を読む限り、本書でほぼ一貫されているように見受けられる総論は ─
「人間はその本性として、存在するモノや事象に対しておのれの意識を切り込ませ、万物にて”普遍的”であろう”本質”をそこに見出し、それを人間なりに形而化(ターム化)させる」
といったところか。
この人間の意識活動をものすごく大雑把に表現しなおしてみれば、「森羅万象を成す瞬間瞬間の偶然のうちに、永遠の必然という公約数を見極める行為」、と言えなくもない。
本書では、東洋人に卑近な宋学や禅にみられる”普遍的本質”への探求活動を、意識が「分節」して万物の”普遍的本質”と一体化する、との技巧表現にてひとつの基調に据えている。
或いはこれを、アリストテレス以来の原子論とイスラーム哲学の苦悩的な邂逅、そしてマーヒーヤ論にも見い出しつつ、ドゥンス=スコトゥス、アヴィセンナ(イヴン=シーナー)などなど、哲学史上の巨星たちの名が続く。
さらには、その”普遍的本質”は美であるとして万物から蒸留せんとしたリルケや、万物の希釈の果てにこそ美が残るとしたマラルメまで紹介。
かつ反面にては、偶然因果律?も中世以来連綿と続いてきた旨、例示されている 。
いかなる事象にても、人間意識の「外部に」神のごとく存在し続ける「随意」が確かに見出せるのだから、たかが人間意識による”本質”の設定に”普遍性”などおけるわけが無い、と。
近代英国最高の哲学者ヒュームでさえこの見方をとった由。
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さて。
本書は人間意識による”普遍的本質”探求についての考察本ゆえか、以下の2つについては踏み込んでいないようにも見受けられた。
① 実在する物質(なんらかの量子)の経時変化やエントロピーと、人間意識とのかかわりについて、動的な関係付けがハッキリしない。
さらに。
② この”普遍的本質”への探求過程にて、人間の意識のうちに何らかの勘違いないし嘘が混じり込んでいるか否か、その見極めについて記されていない。
ここのところ、科学者はどのように解釈するであろうか?
『たしかに既知の物質や事象は確かに動的に変化し続けるし、人間だって移り気な動物にすぎぬ。
それでも人間は、森羅万象に対して、質量や圧力や熱量という共通尺度をもって、元素やイオンや電磁波や粒子などを還元してきたのだから、皆がこれらをいつも「了解」すれば、もう真実も嘘もないじゃないか』
─ と、なるのだろうか?
ならば、逆エントロピーとして存続し変化し続ける生命と、その生命としての人間の知性は、いったいどう関係していると考えたらよいのだろうか?
生命に対して”普遍的本質”を探究すること自体、おかしいのだろうか?
もし、この問題を脳意識(情報)と生命と物理環境の連関におきなおしてみたら、たとえば解剖学者の養老孟司氏は如何ように哲学化されるだろうか。
(頭が痛くなってきた。)
以上