『心はすべて数学である 津田一郎・著 文藝春秋』
本書はかなり読解難度の高い一冊であるが、この難度は恐らくは本書が呈する 「心」 なるものへの我々の了察の困難さゆえゆえであろう、そして、「心」 の何たるかにつき多くの読者が最初にさしかかる難所は本書 p.52 でなかろうか。
その直前部にて、心の活動が脳という器官に一元的に還元される(いわば唯物論)や、脳が心を徐々に(進化的に)創発する云々の見方が引用され、このように脳が心の活動状態の本源であるとの見方が現在までの「心/脳」への主流アプローチである、と念押ししされている。
それでいて、とつぜん p.52に呈される奇妙な一文 : 「しかし、私はむしろ逆に、心が脳を表していると考えています」
本箇所に差し掛かったとたん、僕は本書を投げ出しそうになった…そもそも心が脳を表すと本著者が主張するならば、それは世の主流としての「心/脳」アプローチと同じ前提に立っているではないか、ならば "むしろ逆に" とは何事か?(「心が脳をつくっている」 を誤植しているのではないだろうか…。)
ひとたびここで逡巡してしまうと、せっかく「不確実性定理」や「超(メタ)数学と論理数学」 さらに「バイオフィードバック」などについて幅広く導入はかっている第一章と第二章についても、どうも僕は精読しきれていないのではと自己嫌悪にすら陥ってしまう。
せめて、脳/心/感性/メタ数学/論理数学の機能分業と関わり合いを階層構造化したアブストラクト図が欲しかった。
それらによってこそ、何が何を写像しあるいは表現し、そして、どこまでが既得の研究でありどこからがこんごの研究たりうるかにつき、本著者と読者の認識共有も進むのではないか。
それでも僕なりに本書主題を概括させて頂くならば、おそらくは、 「心という感性のソフトウェアこそが、脳というハードウェア器官に情報を提供し、それらによって脳が記憶系や反応系のシステムとして機構化してゆく」 、そして、「その 『心』 は論理数学として表現しうる(はずである)」、というのが本書提示の大テーマではないか。
このような僕なりの要約が正しいか否かはともかくも、本書のスリリングな読みどころは第三章以降であろうとは見当をつけている。
脳神経という機構系はどこまで自己完結的なハードウェアか、あるいはどこまでが 「心」 という外部情報に応じているのか、その生成過程は全体的か断片的か、また秩序的なのかカオス的なのか、脳神経機構になぜ記憶能力があるのか ─ 云々といったハードウェアからの探求。
そして - ここがおそらくは本書のメインテーマであろうが、「心」 という感性ソフトウェアと数学との対応性、ここで例示されるカントル集合やフラクタル図形(有限/無限論)、論理と推論と数学への再考…
このように、本書が誘う思考実験はまこと重層的そのもの、よって、数学や論理学ないし生物学に関心意欲のある人たちはむろん、常日頃の勉強がつまらんだのくだらんだのと嘆息している生意気な学生諸君も、本書第三章以降を一読されてみては如何だろうか?
以上
(このような形で本ブログ 【読書メモ】 を簡易にまとめたのは初めてであるが、本書は知識の書というよりも洞察の書なのである。)