大学生も高校生も、よーく聞け。
僕はしばらく以前に、論理学に関する本を読んだことがあり、推論規則とかその適用可能世界とか述語論理式などについて認識(再認識)を新たにしたものだ。
それ以来、ずーっと考えていることがある。
そもそも、学問を言語のみで記述することが出来るだろうか。
きっと正しいであろうことを、とりあえず記しおく。
学問とは、「既に明らかにされている概念や事実」の、厳密な「関係付け」である。
そのうち最も論理集約的なものが数学であり、それに依拠しながらハードウェアとして物理学や化学や天文学などなどもある。
たとえ未来を語るにせよ、学問に則るのであれば、現在の概念や事実の「関係付け」に則って、その演繹(帰納)を以て未来を描くしかない。
なお、現在の人間マターに限定すれば、経済学や経営学、法律学や政治学も、何らかの概念や事実の「関係付け」を行っているのだから、一応は学問といえる。
さて。
これら学問の記述にて、人間による言語も用いられるが、同時にここにこそ問題もある。
いいかね、言語だって、何らかの概念や事実の「関係付け」に役立ってこそ、学問ツールたりうる。
しかし、本当にそうなっているだろうか?
学問と言語の間に、「論理」をおいてみよう。
ここで、仮に数学はすべてが論理であるとし、かつ、言語もすべてが論理だとする。
どちらも論理か、それならば、数学という学問は、どこまでいっても人間言語による「発明」概念だということになるね。
ならば、数学にては新たな「関係付け」の「発見」など永遠に無いってことか。
いや、そうではあるまい。
数学つまり学問と、論理と、言語は、どこかが異なっている ─ よって、学問を言語のみで記述することは出来ない。
強引な論法ではあるが、ここんところが重要。
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言語は、実に危険な魔法でもある。
経済学や経営学、法律学や政治学で考えてみよう。
価値化、資産化、権利化、市場化、制度化、証券化、裁決、認定、認証…などなど、とりあえず論理としては一応成立している。
だが、これらの「用語」は本当に、現在までの概念や事実の「関係付け」において完全であろうか。
もしそうであるのなら、それらの自由や公正を突く命がけの疑義や論争がどうして後を絶たないのだろう?
僕なりに時々ぼやっと考えることがある。
たとえば古代人などは言語の危険性を察知していて、だから彼らの遺跡にあるヒエログリフや楔形文字などは、もともと数学と天文学(と一部の化学)のみであったのではなかろうか?
それらを解読し、現在の技術で超高速演算を繰り返してゆけば、何か素晴らしいことが…
ともかくも念押ししたいこと。
言語のみで、学問を完結させてはならぬ。
言語はどこかの誰かによる便宜的な発明なのだ、だから、いつの間にか虚偽や悪意が紛れ込んでいる、かもしれぬ。
(※ なお、養老孟司先生などは、論理はともかくとしても、人間の言語はあくまで人間自身の意識活動に過ぎず、実体そのものではない由を説かれている。)
以上