2019/03/20

【読書メモ】すごい分子

すごい分子 世界は六角形でできている 佐藤健太郎・著 講談社Blue Backs』
そもそも「化学」分野は極めて多元的/学際的、そして化学物質は姿形も特性も変幻自在にしてアプリケーションも図抜けて多彩、よって化学分野についての総論化はけして容易ではなかろう。
しかるに、本書は芳香族化合物に主眼をおきつつ化学分野について広くかつ立体的に総論を展開した快作だ。
多元的な想像力を触発してやまぬ柔らかな文体もいいが、とりわけ本著者が随所に呈する寸評がなかなか深淵である ─ 「化合物の実像と実相に対し、化学からのアプローチと電子物理学からのアプローチがなされてきた」云々など。
そして、なんといっても本書は随所に呈された化合物の模式や図案がふんだんにしてバツグンに分かりやすい!よって、化学通の読者であればこれらを目視しつつ、本書の概略と展開を長足に一瞥出来よう。

ただし、本書を読み進めるためには少なくとも以下について高校レベル(?)の基礎理論と知識が必須であろう。
・原子、分子、価電子、ファンデルワールス力、飽和/不飽和
・単/二重/三重結合、共有結合、配位結合
員環、縮環、化合物、結晶
・官能基、付加反応、置換反応、同位体、異性体
とりわけ有機化合物、芳香族化合物、炭化水素(ベンゼンなど)
そしてこれらをひととおり理解していたとしても、おそらく本書における最初の難所はケクレ~ヒュッケルらの理論によるベンゼン環の物理構造と分子強度(安定度)のかかわり、および「共役系」云々ではないか ─ ここいらについて本書は概説が大雑把に過ぎる感もあり、電子物理学の基礎素養すら怪しい僕などは却って論旨を掴み難かったのが正直なところである。

そんな僕なりにざっと第2章~第5章まで読んでみたが、このあたりが芳香族化合物の特性の概括にあたると察してのこと、ともあれ以下のとおり読書メモとして雑記してみた。


<有機(炭素)化合物の結合とベンゼン環(芳香環)>
有機化合物の多くは炭素原子よりも水素原子の方が多く結合している、が、いわゆる芳香族化合物では総じて炭素原子の方が多い、と近代以降には知られていた。
とくに炭化水素のベンゼンC6H6が芳香族化合物の基本構造を成しているとみて、それらの化合物の分析が始まった。

ベンゼンは炭素原子同士の飽和結合をによる極めて安定した炭化水素であり、付加反応変化を起こさない(かつ、強引にエネルギーを加えると炭素原子同士の結合が切れて、別原子との置換が成ってしまう)。
ここから、炭素の結合方式に単結合、二重結合があり、これが飽和/不飽和と結合強度に関係があると想定が始まった。

ベンゼンの6つの炭素原子どれかに繋がっているはずの水素原子をひとつ塩素原子に置き換えたクロロベンゼンは、6種類の形状構造が在りうるはずだが、じっさいにはたった1種類の構造しか存在しない。
また、ベンゼンの6つの炭素原子どれか2つに繋がった水素原子を塩素原子に置き換えたオルトジクロロベンゼンは、異性体として2種類が存在するはずだが、じっさいには1種類の構造しか存在しない。

以上をまとめて理解するためには、実はベンゼンの6つの炭素原子が環状に完結しており、それらのどれに水素や塩素が繋がろうとも化合物の構造としては1つになると閃く ─ これが「ベンゼン環」つまり「芳香環」の着想のはじまり。
かつ、炭素原子同士の単結合と二重結合が固定化されてはおらず、これら結合が素早く入れ替わっていると想定することになる。

このあたりまでが、科学者ケクレを祖とする、芳香族化合物についての画期的な想定である。

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<炭素の結合強度、π電子、など>
1930年代以降に、ポーリングらによって「原子価結合理論」が確立される中で、芳香族化合物のベンゼン環が6員環の正六角形を成していること、じっさいに確認されるとともに、炭素原子の単結合/二重結合への「電子レベルでの精査」も進んだ。

単結合はいわゆる「σ結合」から成る。
二重結合は、「σ結合」および「π電子による垂直なπ結合」による計2本から成る。
三重結合は、「σ結合」が1本と「π結合」が2本から成っている。

炭素と他元素(水素など)は互いに反発力を与え合っているため、さまざまな角度の立体構造を成す。
エタン分子やメタン分子(飽和炭化水素)などにて4本の単結合を成す炭素原子を「SP3炭素」とも称し、炭素を中心に約109.5°(いわゆるマラルディ角度)を成す強固な正四面体構造。
エチレン分子(不飽和炭化水素)などにて二重結合を成す炭素原子を「SP2炭素」とも称し、炭素を中心に結合角が約120°を成す立体構造。
アセチレン分子(不飽和単価水素)などにて三重結合を成す炭素原子を「SP炭素」とも称し、炭素を中心に結合角が180°を成す立体構造。

以上の電子物理学アプローチをふまえて、これまでに明らかになったこと。
ベンゼン環は、6つの炭素原子が3本の二重結合と3本の単結合の入れ子で不飽和の「共役二重結合」を成しており、それぞれの二重結合における炭素のπ電子が直立しつつが引きつけ合うため、単結合の部分は回転し難い、よって立体的にブレることなく安定している
(…?? さぁここまで理解出来るか、或いは僕のように自信が無いかによって、本書50頁あたりから先を読み進める上での見識も想像力もかなり変わってくるであろう。ともあれ、さらに続けて読み進めてみた。)

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<分子軌道~ヒュッケル則、さまざまな縮環>
ベンゼン同様に環状の炭化水素として、4つの炭素原子による二重結合から成るシクロブタジエンや、8つの炭素原子による二重結合から成るシクロオクタテトラエンも在る。
しかし、これらの炭素原子は二重結合は成しているものの、ベンゼン同様の共役二重結合は成していない。
ここでケクレ以来の理論は矛盾につきあたってしまった。

ヒュッケルは電子軌道についての近似計算から、環を成している電子が「4n+2」個あたりで共鳴しあっているとの分子軌道理論を打ち立てた ─ これが「ヒュッケル則」である。
ベンゼン環の分子は’本当は’「単結合と二重結合のどちらともとれるいわば1.5重結合が6本在り」、構成する原子間を「π電子が常に共鳴しあいつつ非局在化している(動き回っている)」。

このヒュッケル則から、シクロブタジエンはπ電子の個数が4nの構造をとっているからこそ、実在が著しく不安定であり、またπ電子の個数が8nのシクロオクタテトラエン分子は盛り上がった立体構造をとりつつも安定している、と説明がつく。
ここから、π電子の数が4n個の分子を4π電子系、8n個のものであれば8π電子系、などと称すようになる。
これにより、分子の結合における分析がヨリ精密になった。

ベンゼン環を縮環させた炭化水素化合物は、その縮環の方式がさまざまであり、それぞれの環における二重結合が必ずしも共役二重結合を充足しているわけではなく、だから強度が異なる。
たとえばベンゼン環を3つ縮環させた炭化水素化合物として、直線型につながったアントラセンと、折れ曲がってつながったフェナントレンは、それらを成す個々のベンゼン環が共役二重結合を完成させているのでベンゼン同様に安定している。
しかしながら、やはりベンゼン環を3つ縮環させたフェナレンは炭素数が13なので、1つのベンゼン環がどうしても二重結合で完結出来ず、だから全体が共役系を成さないために脆い。

ベンゼン環を4つ縮環させた炭化水素化合物のうち、クリセンはジグザグに繋がり合ってはいるがどのベンゼン環も共役二重結合で成っているために強い。
一方で、やはりベンゼン環4つを縮環のテトラセンは、共役二重結合で完結しないベンゼン環が出来てしまうため、酸化しやすい(この縮環の形態を更に連続させたペンタセン、ヘキサセン、ヘプタセン…も同様。)

ベンゼン環を6つ円形に縮環させた炭化水素化合物のうち、これらを平面にて6つ繋いで周回させ完結とした構造がコロネン分子であり、周回はしているが上下に捻じれてらせん状の立体構造で繋がっているものをヘリセン分子と称す。
ヘリセン分子は人工合成が進み、最近までにベンゼン環16個の縮環から成るものも合成されている。

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<さまざまな原子から/分子を成す芳香環>
全ての芳香族化合物が炭素原子6つのベンゼン環(つまり6員環)のみから成っているとは限らない。
トロポノイド物質は7つの炭素原子の環状(7員環)から成り、結合している酸素に電子が取られるために「それぞれの環の電子数は6」となり、芳香族化合物である。

フェロセン物質は5つの炭素原子の環状(5員環)で成り、鉄など金属原子に対し陰イオンとして配位(金属錯体化)しつつ上下から挟み込む分子構造、かつπ電子が金属と結合しているので頑強化、これも「それぞれの環の電子数は6」となり、芳香族化合物である。
フェロセン物質の発見をきっかけとして、有機金属化合物の研究と合成が大いに進むこととなった。

なお、4本の単結合を成す「SP3炭素」ならば5員環か6員環の構造、また二重結合を成す「SP2炭素」ならば6員環の構造が、最も形状が壊れにくい→安定する。

さらに、芳香環を成す原子は炭素のみではない ─ つまり、芳香族化合物の基本構造は炭化水素ベンゼン環のみではない。
炭素以外の原子(ヘテロ原子)を含んでいる芳香環が「複素環」であり、さまざまな合成研究がなされている。

たとえば、ビリジン環はベンゼン環と同じ6員環の正六角形構造をとりつつも、一つの炭素の部分が窒素となっており、これが水素イオンと結合している。
窒素を2つ以上含んだ複素環も数多くあり、このうち窒素2つの複素環であるピリミジン環はDNAの核酸塩基チミンとシトシンの基本構造である。
窒素を3つ含んだトリアジン環はメラミン(樹脂類)の基本構造である。

とはいえ、複素環に窒素原子を増やしていくと、窒素間の非共有電子対同士が反発しあい環としての強度が落ちる、このため窒素5つや6つの複素環はまだ合成に成功していない。
窒素による電子対の数を過不足調整するためにホウ素を交互に隣り合わせた複素環がポラジンで、この複素環にはなんと炭素原子が無いのだが、電子配置はベンゼン環と同じになっている。

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…いやぁ、本書中盤のこのあたりまでざっと読んだだけでも、随分と勉強した気分だ。
惜しむらくは、芳香環における結合とπ電子と分子強度のかかわりについてどうも僕は直観的に理解しきれていない気がしており、だからきっと理解出来ていないのだろうが、ともかくも化学の素養について(とくに芳香族化合物について)あらためて学んだだけでも満足である。

さて、本書は中盤以降からがいよいよ実践論ぎっしり満載だ ─ 大注目のクロスカップリング反応やナノカーボンはもちろんのこと、色彩化学から有機ELなどなどまで。
とくに学生諸君、どうだろうか、本書をきっかけとして、芳香族化合物さらに有機化合物全般についての「基礎教養を超えた淵源」に踏み込んでみないか。
(僕は黙って見守っている、かもしれない)

以上

2019/03/11

別れの曲

(ささやかなエピソード。)

高校の卒業間近のことである。
僕は、'N子' という名の同級生の女子とともに、軽音楽のサークルに出入りしていた。
正規の部員としては学則により引退していたサークル活動ではあったが、N子は市内の大会で上位入賞するほどのピアノの本格派であり、しかも音楽大学への進学も決めていたほどの力の入れようであったので、特別にこの軽音楽サークルへの参加が認められていたのである。
では僕自身はといえば、ことさら技量が高かったわけではなかったが、ベースギターの真似事くらいはこなせたし、N子とは子供のころから家族同士がずっと懇意な関係でもあって、まあそんなこんなでやはり特別にこのサークルに出入りしていたのだった。

さて、この僕たちのサークルにて顧問を務めて頂いたのが、音楽科担当の若き女性教師、こちらも本名は隠すが 'S子' 先生である。
S子先生は美人だった、というより、もはや超美人だった、市内どころか都内でも有数の美貌だなどと教員たちが褒めそやすほど。
そしてなにより、彼女は傑出したピアノストだった。
素人目で推し測ってみても、なるほど数多くの楽曲を自由自在に編み直して弾きこなし、我が校の皆が茫然とするほど、そして、実際に全国レベルのオーケストラや何とか楽団などに所属して、しばしば受賞もされてきたほどの傑出した辣腕。

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S子先生は超美人の冠称に相応しく、学究心も旺盛な性質の女性であった。
じっさい、深淵かつ難解なひとつの問いを、僕たちに投げかけてきたのである。
「音楽と数学は重なるところが多いのよ。音階も音律も、リズムも旋律も、数学の秩序に則っているの。例えばプラトンは、人間に心地よい音程の振動数を計算したと言われるわね」
「はぁ、何だかそんなようなもので…」 と僕たちはとりあえず頷いてみせる。
「それで、こういうさまざまな'ハーモニー和音'も追求されてきた、とされているのよ」
そう言いつつ、S子先生はピアノの鍵盤でいくつもの長調や短調を弾き分け、さらに黒板に幾つかの分数式や音程計算表などをついついと列記すると ─ ふっと僕たちに向き直って問いかけてきたのだった。
これは妙な話じゃないかしら?
「はい…?」
音楽は情感がつくる世界であり、数学は情感を排除した世界。いったいどうして、人間は両者を結びつけることを思いついたのかしらね?さぁ!あなたたちのアイデアは?
「……」

とても答えられそうにはない難題ではあったが、それ以上に僕の意識に引っ掛かって離れなくなったひとつの思念がある。
それは協和音と不協和音の違い ─ S子先生とN子には何事か通じ合うものがあるのに、僕だけはいつも不協和音なのではないかという、ちょっとした劣等感、つまり不安感であった。


そして。
卒業式を数日後に控えたある日の放課後のこと。
僕とN子が音楽室で猥雑な軽口を交わしつつふざけ合っていたら、S子先生がつかつかと走り寄ってきて、僕たちを猛然と叱かり飛ばした。
「なにをしているのあなたたちは!くだらない時間を過ごすことは許さない!もうすぐ卒業でしょう!」
憧れの美貌から発せられた激昂、そして怒号。
すっかり恐縮して黙りこくっていた僕たちに対して、S子先生が静かに続けた。
「…きちんとしなさい。まともな大人になりなさい。分かった?」
ハイ、と僕たちは小声で首肯するしかなかった。

「いずれ分かることだから教えてあげる」 S子先生は僕たちに向き直った。
「あたしはあなたたちと一緒にこの高校を卒業するの。つまり、辞めるのよ」
「どうしてですか」 とN子が問い返した。
「結婚して、エディンバラに移り住むからよ」
「へぇ…エディンバラって、イギリスの、ですか
「スコットランドよ。それからね、あたしは暫くの間は教職を離れるつもりなの ─ だから、あなたたちがふざけているのを見過ごせないのよ
語尾にちょっとだけ優しさが戻っていた。
僕とN子は、何をどう評すればよいか分からず、よかったですね、とか、おめでとうございますなどと、しどろもどろに答えつつも、どうにもS子先生に対して申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうになり、それで逃げるように音楽室をあとにしたのだった。


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卒業式の日。

式次第は順当に執り行われていった。
国歌、校歌、そして、仰げば尊し…
壇上の左隅に置かれたピアノを流麗にかつ艶やかに奏でてゆくのは、もちろんのこと、真っ白なブラウスを慄然と着こなした超美貌のS子先生。
あんなすごい美人は、他所ではお目にかかれないかもしれないなぁ ─ そんな子供じみた独り言の記憶がある。
ちらっとN子に目をやれば、ウサギのような真っ赤な目ですすり上げていた。

卒業式は恙なく片づき、それから、僕とN子は音楽室のS子先生に最後の挨拶に伺ったのだった。
そして、僕たちの進学のこと、それからS子先生のスコットランドにおけるこれからの生活のことなどをひとしきり話し続けた。


話が一段落すると、S子先生はちょっとだけ思案したふうではあったが ─ それからピアノの前に歩み出し、すっと踵を返すと、N子に向かって呼びかけていた。
「あなたのピアノを、最後に聞かせてくれないかしら」
「……」
「なんでも好きな曲を。そうね、自信のある曲を弾いていいわよ」
N子はといえば、ピアノをしばらく見つめていたが、それから呟くように言った。
「別れの曲を」
「えっ…?」
「ショパンの『別れの曲』を、弾いてもいいですか?」
S子先生は微かに身をうち震わせたようだった。
しかしそれも束の間で、すぐに真顔に戻ると、N子にこう告げたのだった。
「いいわよ。ただし、その曲を弾くからには、あなたは立派な『レディ』となることを誓わなければならないわ。立派なレディになるためには、これからの出来事をあなた自身が作り上げるの。そして、これからの運命をあなた自身が定義していくのよ。さぁ、その覚悟はあるのかしら?」
「…ハイ…」
「声が小さい!」
「ハイッ!」


この時の二人の会話に僕はすっかり感じ入り、もう威圧感すら覚えていたのだが、それ以上に、僕はおのれだけが不協和音なのではとのやるせない不安感に居たたまれなくなってしまったのだった。
それで、黙って部屋を退出しようとしたのだが ─ このときS子先生が高い声を挙げて僕を呼び止めたのである。
「山本君!」
それはS子先生が僕に対して初めて(そして最後に)見せた、陶酔的なほどに優し気な表情であった。
だから僕は惹きつけられるようにS子先生に向き直っていた。
「さぁ、山本君、これから彼女が弾き起こす奇跡を見届けてあげなさい。これから奏でられる彼女の素晴らしい曲に聴き入ってあげなさい。いま、彼女は少女を終えようとしているの、『レディ』としてのファーストステージに差し掛かったところなのよ。だから、この時この場にいることを誇らしく思いなさい
「でも僕は、第三者に過ぎないのではないですか?」 ─ そんなひねくれたような、そして甘えたような言葉が喉元まで出掛かったが、でも僕はどうしても口を開くことが出来なかった。
むしろ、このせつないほどの超美人が発してきた『レディ』という語に幾重にも込められた想いを、なんとか僕なりに察したような、そんなささやかな自惚れにしがみついていたのである。
それから僕は、ピアノの前に座したN子の形相をあらためて見とめ ─ あっ!っと驚愕してしまっていた。
常日頃の澄まして気取った18歳の美少女像はもはや消し飛んでおり、うって変わって、動物的なほどに真摯な形相のひとりの女が、ピアノに敢然と挑みかからんとしていた……。


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その夜。
なかなか帰宅する気が起こらず、僕とN子は喫茶店でしばらく過ごした。

N子が進学する音楽大学についての話になり、僕はちょっと挑発するように言ってみた。
「なあN子、おまえの大学はかなり厳しい淑女教育らしいけど、おまえでも本当に『レディ』になれるのかな?」
「なれるわよ。なるつもりだし」
「ふん。レディには教養だって必要なんだぜ。ほら、S子先生が問いかけてきた疑問、『人間が音楽と数学を結びつけることが出来た理由』 、おまえは説明出来るのか?」
「そうね……たとえば星の光とか動きなどを観察していた人たちが、さまざまな星座の物語を思い描くようになり、それらが心を揺さぶり、いろいろな星を音符に置き換え、軌道をリズムに置き換え、銀河などが楽譜のイメージとなって…
真顔で懇々と話し始めたN子を遮りつつ、僕はあははははと笑い飛ばしていた。
「そういうアイデアは、全てS子先生の受け売りなんだろう?」
「全てじゃないわよ、あたしのヒラメキも混じっているの」

それから店を出ると、二人して星空を見上げてみた。
「こんなに星が見えることもあるのね」
「そうだね」 と僕は返した 「なあ、星って本当に楽譜のようにも見えるんだな」
「そうね。それに、ピアノの鍵盤のようにも見えるわね」
「S子先生のピアノだ。レディのための」
「じゃあ、あたしのピアノでもあるわよ」
僕はN子の顔をまじまじと見つめ、それからもう一度笑い声を挙げていた。
「これからも頑張れよ!作曲に困ったらこの星空を思い出せばいいんだ!」
「数学の苦手なあんたが言うんじゃないわよ!'不協和音'のくせに!」
僕はこのN子の言にドキッとしたが、おまえだって数学は苦手だろうと声を返し、それから互いに手を振って別れたのである。


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さて。
大学進学後、N子とはしばしば連絡をとってきたが、好きだ嫌いだという段階にまで進むには半年ほどかかり、そのご、どうってことはない月日が続いている。
そして、S子先生 ─ 彼女からは、新生活についてたった一度きり簡素な連絡が届いたのみであり、だからこそ僕たちは今でも彼女を’lady'と呼称することとしている。
(冠詞をつけるべきか否かについて、僕たちの精一杯背伸びした論争はいまだ片付いていないものの。)
以来現在に至るまで。僕は幾度もイギリスに業務出張し、また幼少期を過ごしたロンドン郊外の地区にも足を運んだことはあるものの、スコットランドは二度しか訪れたことはなく、もちろん栄えあるS子先生とは合わずじまいである。


(おわり)