そもそも「化学」分野は極めて多元的/学際的、そして化学物質は姿形も特性も変幻自在にしてアプリケーションも図抜けて多彩、よって化学分野についての総論化はけして容易ではなかろう。
しかるに、本書は芳香族化合物に主眼をおきつつ化学分野について広くかつ立体的に総論を展開した快作だ。
多元的な想像力を触発してやまぬ柔らかな文体もいいが、とりわけ本著者が随所に呈する寸評がなかなか深淵である ─ 「化合物の実像と実相に対し、化学からのアプローチと電子物理学からのアプローチがなされてきた」云々など。
そして、なんといっても本書は随所に呈された化合物の模式や図案がふんだんにしてバツグンに分かりやすい!よって、化学通の読者であればこれらを目視しつつ、本書の概略と展開を長足に一瞥出来よう。
ただし、本書を読み進めるためには少なくとも以下について高校レベル(?)の基礎理論と知識が必須であろう。
・原子、分子、価電子、ファンデルワールス力、飽和/不飽和
・単/二重/三重結合、共有結合、配位結合
・員環、縮環、化合物、結晶
・官能基、付加反応、置換反応、同位体、異性体
・とりわけ有機化合物、芳香族化合物、炭化水素(ベンゼンなど)
そしてこれらをひととおり理解していたとしても、おそらく本書における最初の難所はケクレ~ヒュッケルらの理論によるベンゼン環の物理構造と分子強度(安定度)のかかわり、および「共役系」云々ではないか ─ ここいらについて本書は概説が大雑把に過ぎる感もあり、電子物理学の基礎素養すら怪しい僕などは却って論旨を掴み難かったのが正直なところである。
そんな僕なりにざっと第2章~第5章まで読んでみたが、このあたりが芳香族化合物の特性の概括にあたると察してのこと、ともあれ以下のとおり読書メモとして雑記してみた。
有機化合物の多くは炭素原子よりも水素原子の方が多く結合している、が、いわゆる芳香族化合物では総じて炭素原子の方が多い、と近代以降には知られていた。
とくに炭化水素のベンゼンC6H6が芳香族化合物の基本構造を成しているとみて、それらの化合物の分析が始まった。
ベンゼンは炭素原子同士の飽和結合をによる極めて安定した炭化水素であり、付加反応変化を起こさない(かつ、強引にエネルギーを加えると炭素原子同士の結合が切れて、別原子との置換が成ってしまう)。
ここから、炭素の結合方式に単結合、二重結合があり、これが飽和/不飽和と結合強度に関係があると想定が始まった。
ベンゼンの6つの炭素原子どれかに繋がっているはずの水素原子をひとつ塩素原子に置き換えたクロロベンゼンは、6種類の形状構造が在りうるはずだが、じっさいにはたった1種類の構造しか存在しない。
また、ベンゼンの6つの炭素原子どれか2つに繋がった水素原子を塩素原子に置き換えたオルトジクロロベンゼンは、異性体として2種類が存在するはずだが、じっさいには1種類の構造しか存在しない。
以上をまとめて理解するためには、実はベンゼンの6つの炭素原子が環状に完結しており、それらのどれに水素や塩素が繋がろうとも化合物の構造としては1つになると閃く ─ これが「ベンゼン環」つまり「芳香環」の着想のはじまり。
かつ、炭素原子同士の単結合と二重結合が固定化されてはおらず、これら結合が素早く入れ替わっていると想定することになる。
このあたりまでが、科学者ケクレを祖とする、芳香族化合物についての画期的な想定である。
=======================
<炭素の結合強度、π電子、など>
1930年代以降に、ポーリングらによって「原子価結合理論」が確立される中で、芳香族化合物のベンゼン環が6員環の正六角形を成していること、じっさいに確認されるとともに、炭素原子の単結合/二重結合への「電子レベルでの精査」も進んだ。
単結合はいわゆる「σ結合」から成る。
二重結合は、「σ結合」および「π電子による垂直なπ結合」による計2本から成る。
三重結合は、「σ結合」が1本と「π結合」が2本から成っている。
炭素と他元素(水素など)は互いに反発力を与え合っているため、さまざまな角度の立体構造を成す。
エタン分子やメタン分子(飽和炭化水素)などにて4本の単結合を成す炭素原子を「SP3炭素」とも称し、炭素を中心に約109.5°(いわゆるマラルディ角度)を成す強固な正四面体構造。
エチレン分子(不飽和炭化水素)などにて二重結合を成す炭素原子を「SP2炭素」とも称し、炭素を中心に結合角が約120°を成す立体構造。
アセチレン分子(不飽和単価水素)などにて三重結合を成す炭素原子を「SP炭素」とも称し、炭素を中心に結合角が180°を成す立体構造。
以上の電子物理学アプローチをふまえて、これまでに明らかになったこと。
ベンゼン環は、6つの炭素原子が3本の二重結合と3本の単結合の入れ子で不飽和の「共役二重結合」を成しており、それぞれの二重結合における炭素のπ電子が直立しつつが引きつけ合うため、単結合の部分は回転し難い、よって立体的にブレることなく安定している
(…?? さぁここまで理解出来るか、或いは僕のように自信が無いかによって、本書50頁あたりから先を読み進める上での見識も想像力もかなり変わってくるであろう。ともあれ、さらに続けて読み進めてみた。)
=======================
<分子軌道~ヒュッケル則、さまざまな縮環>
ベンゼン同様に環状の炭化水素として、4つの炭素原子による二重結合から成るシクロブタジエンや、8つの炭素原子による二重結合から成るシクロオクタテトラエンも在る。
しかし、これらの炭素原子は二重結合は成しているものの、ベンゼン同様の共役二重結合は成していない。
ここでケクレ以来の理論は矛盾につきあたってしまった。
ヒュッケルは電子軌道についての近似計算から、環を成している電子が「4n+2」個あたりで共鳴しあっているとの分子軌道理論を打ち立てた ─ これが「ヒュッケル則」である。
ベンゼン環の分子は’本当は’「単結合と二重結合のどちらともとれるいわば1.5重結合が6本在り」、構成する原子間を「π電子が常に共鳴しあいつつ非局在化している(動き回っている)」。
このヒュッケル則から、シクロブタジエンはπ電子の個数が4nの構造をとっているからこそ、実在が著しく不安定であり、またπ電子の個数が8nのシクロオクタテトラエン分子は盛り上がった立体構造をとりつつも安定している、と説明がつく。
ここから、π電子の数が4n個の分子を4π電子系、8n個のものであれば8π電子系、などと称すようになる。
これにより、分子の結合における分析がヨリ精密になった。
ベンゼン環を縮環させた炭化水素化合物は、その縮環の方式がさまざまであり、それぞれの環における二重結合が必ずしも共役二重結合を充足しているわけではなく、だから強度が異なる。
たとえばベンゼン環を3つ縮環させた炭化水素化合物として、直線型につながったアントラセンと、折れ曲がってつながったフェナントレンは、それらを成す個々のベンゼン環が共役二重結合を完成させているのでベンゼン同様に安定している。
しかしながら、やはりベンゼン環を3つ縮環させたフェナレンは炭素数が13なので、1つのベンゼン環がどうしても二重結合で完結出来ず、だから全体が共役系を成さないために脆い。
ベンゼン環を4つ縮環させた炭化水素化合物のうち、クリセンはジグザグに繋がり合ってはいるがどのベンゼン環も共役二重結合で成っているために強い。
一方で、やはりベンゼン環4つを縮環のテトラセンは、共役二重結合で完結しないベンゼン環が出来てしまうため、酸化しやすい(この縮環の形態を更に連続させたペンタセン、ヘキサセン、ヘプタセン…も同様。)
ベンゼン環を6つ円形に縮環させた炭化水素化合物のうち、これらを平面にて6つ繋いで周回させ完結とした構造がコロネン分子であり、周回はしているが上下に捻じれてらせん状の立体構造で繋がっているものをヘリセン分子と称す。
ヘリセン分子は人工合成が進み、最近までにベンゼン環16個の縮環から成るものも合成されている。
===================
<さまざまな原子から/分子を成す芳香環>
全ての芳香族化合物が炭素原子6つのベンゼン環(つまり6員環)のみから成っているとは限らない。
トロポノイド物質は7つの炭素原子の環状(7員環)から成り、結合している酸素に電子が取られるために「それぞれの環の電子数は6」となり、芳香族化合物である。
フェロセン物質は5つの炭素原子の環状(5員環)で成り、鉄など金属原子に対し陰イオンとして配位(金属錯体化)しつつ上下から挟み込む分子構造、かつπ電子が金属と結合しているので頑強化、これも「それぞれの環の電子数は6」となり、芳香族化合物である。
フェロセン物質の発見をきっかけとして、有機金属化合物の研究と合成が大いに進むこととなった。
なお、4本の単結合を成す「SP3炭素」ならば5員環か6員環の構造、また二重結合を成す「SP2炭素」ならば6員環の構造が、最も形状が壊れにくい→安定する。
さらに、芳香環を成す原子は炭素のみではない ─ つまり、芳香族化合物の基本構造は炭化水素ベンゼン環のみではない。
炭素以外の原子(ヘテロ原子)を含んでいる芳香環が「複素環」であり、さまざまな合成研究がなされている。
たとえば、ビリジン環はベンゼン環と同じ6員環の正六角形構造をとりつつも、一つの炭素の部分が窒素となっており、これが水素イオンと結合している。
窒素を2つ以上含んだ複素環も数多くあり、このうち窒素2つの複素環であるピリミジン環はDNAの核酸塩基チミンとシトシンの基本構造である。
窒素を3つ含んだトリアジン環はメラミン(樹脂類)の基本構造である。
とはいえ、複素環に窒素原子を増やしていくと、窒素間の非共有電子対同士が反発しあい環としての強度が落ちる、このため窒素5つや6つの複素環はまだ合成に成功していない。
窒素による電子対の数を過不足調整するためにホウ素を交互に隣り合わせた複素環がポラジンで、この複素環にはなんと炭素原子が無いのだが、電子配置はベンゼン環と同じになっている。
=======================
…いやぁ、本書中盤のこのあたりまでざっと読んだだけでも、随分と勉強した気分だ。
惜しむらくは、芳香環における結合とπ電子と分子強度のかかわりについてどうも僕は直観的に理解しきれていない気がしており、だからきっと理解出来ていないのだろうが、ともかくも化学の素養について(とくに芳香族化合物について)あらためて学んだだけでも満足である。
さて、本書は中盤以降からがいよいよ実践論ぎっしり満載だ ─ 大注目のクロスカップリング反応やナノカーボンはもちろんのこと、色彩化学から有機ELなどなどまで。
とくに学生諸君、どうだろうか、本書をきっかけとして、芳香族化合物さらに有機化合物全般についての「基礎教養を超えた淵源」に踏み込んでみないか。
(僕は黙って見守っている、かもしれない)
以上