①
高校の卒業間近のことである。僕は、'N子' という名の同級生の女子とともに、軽音楽のサークルに出入りしていた。
正規の部員としては学則により引退していたサークル活動ではあったが、N子は市内の大会で上位入賞するほどのピアノの本格派であり、しかも音楽大学への進学も決めていたほどの力の入れようであったので、特別にこの軽音楽サークルへの参加が認められていたのである。
では僕自身はといえば、ことさら技量が高かったわけではなかったが、ベースギターの真似事くらいはこなせたし、N子とは子供のころから家族同士がずっと懇意な関係でもあって、まあそんなこんなでやはり特別にこのサークルに出入りしていたのだった。
さて、この僕たちのサークルにて顧問を務めて頂いたのが、音楽科担当の若き女性教師、こちらも本名は隠すが 'S子' 先生である。
S子先生は美人だった、というより、もはや超美人だった、市内どころか都内でも有数の美貌だなどと教員たちが褒めそやすほど。
そしてなにより、彼女は傑出したピアノストだった。
素人目で推し測ってみても、なるほど数多くの楽曲を自由自在に編み直して弾きこなし、我が校の皆が茫然とするほど、そして、実際に全国レベルのオーケストラや何とか楽団などに所属して、しばしば受賞もされてきたほどの傑出した辣腕。
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②
じっさい、深淵かつ難解なひとつの問いを、僕たちに投げかけてきたのである。
「音楽と数学は重なるところが多いのよ。音階も音律も、リズムも旋律も、数学の秩序に則っているの。例えばプラトンは、人間に心地よい音程の振動数を計算したと言われるわね」
「はぁ、何だかそんなようなもので…」 と僕たちはとりあえず頷いてみせる。
「それで、こういうさまざまな'ハーモニー和音'も追求されてきた、とされているのよ」
そう言いつつ、S子先生はピアノの鍵盤でいくつもの長調や短調を弾き分け、さらに黒板に幾つかの分数式や音程計算表などをついついと列記すると ─ ふっと僕たちに向き直って問いかけてきたのだった。
「これは妙な話じゃないかしら?」
「はい…?」
「音楽は情感がつくる世界であり、数学は情感を排除した世界。いったいどうして、人間は両者を結びつけることを思いついたのかしらね?さぁ!あなたたちのアイデアは?」
「……」
とても答えられそうにはない難題ではあったが、それ以上に僕の意識に引っ掛かって離れなくなったひとつの思念がある。
それは協和音と不協和音の違い ─ S子先生とN子には何事か通じ合うものがあるのに、僕だけはいつも不協和音なのではないかという、ちょっとした劣等感、つまり不安感であった。
そして。
卒業式を数日後に控えたある日の放課後のこと。
僕とN子が音楽室で猥雑な軽口を交わしつつふざけ合っていたら、S子先生がつかつかと走り寄ってきて、僕たちを猛然と叱かり飛ばした。
「なにをしているのあなたたちは!くだらない時間を過ごすことは許さない!もうすぐ卒業でしょう!」
憧れの美貌から発せられた激昂、そして怒号。
すっかり恐縮して黙りこくっていた僕たちに対して、S子先生が静かに続けた。
「…きちんとしなさい。まともな大人になりなさい。分かった?」
ハイ、と僕たちは小声で首肯するしかなかった。
「いずれ分かることだから教えてあげる」 S子先生は僕たちに向き直った。
N子が進学する音楽大学についての話になり、僕はちょっと挑発するように言ってみた。
「なあN子、おまえの大学はかなり厳しい淑女教育らしいけど、おまえでも本当に『レディ』になれるのかな?」
「なれるわよ。なるつもりだし」
「ふん。レディには教養だって必要なんだぜ。ほら、S子先生が問いかけてきた疑問、『人間が音楽と数学を結びつけることが出来た理由』 、おまえは説明出来るのか?」
「そうね……たとえば星の光とか動きなどを観察していた人たちが、さまざまな星座の物語を思い描くようになり、それらが心を揺さぶり、いろいろな星を音符に置き換え、軌道をリズムに置き換え、銀河などが楽譜のイメージとなって…」
真顔で懇々と話し始めたN子を遮りつつ、僕はあははははと笑い飛ばしていた。
「そういうアイデアは、全てS子先生の受け売りなんだろう?」
「全てじゃないわよ、あたしのヒラメキも混じっているの」
それから店を出ると、二人して星空を見上げてみた。
「こんなに星が見えることもあるのね」
「そうだね」 と僕は返した 「なあ、星って本当に楽譜のようにも見えるんだな」
「そうね。それに、ピアノの鍵盤のようにも見えるわね」
「S子先生のピアノだ。レディのための」
「じゃあ、あたしのピアノでもあるわよ」
僕はN子の顔をまじまじと見つめ、それからもう一度笑い声を挙げていた。
「これからも頑張れよ!作曲に困ったらこの星空を思い出せばいいんだ!」
「数学の苦手なあんたが言うんじゃないわよ!'不協和音'のくせに!」
僕はこのN子の言にドキッとしたが、おまえだって数学は苦手だろうと声を返し、それから互いに手を振って別れたのである。
さて。
大学進学後、N子とはしばしば連絡をとってきたが、好きだ嫌いだという段階にまで進むには半年ほどかかり、そのご、どうってことはない月日が続いている。
そして、S子先生 ─ 彼女からは、新生活についてたった一度きり簡素な連絡が届いたのみであり、だからこそ僕たちは今でも彼女を’lady'と呼称することとしている。
(おわり)
それは協和音と不協和音の違い ─ S子先生とN子には何事か通じ合うものがあるのに、僕だけはいつも不協和音なのではないかという、ちょっとした劣等感、つまり不安感であった。
そして。
卒業式を数日後に控えたある日の放課後のこと。
僕とN子が音楽室で猥雑な軽口を交わしつつふざけ合っていたら、S子先生がつかつかと走り寄ってきて、僕たちを猛然と叱かり飛ばした。
「なにをしているのあなたたちは!くだらない時間を過ごすことは許さない!もうすぐ卒業でしょう!」
憧れの美貌から発せられた激昂、そして怒号。
すっかり恐縮して黙りこくっていた僕たちに対して、S子先生が静かに続けた。
「…きちんとしなさい。まともな大人になりなさい。分かった?」
ハイ、と僕たちは小声で首肯するしかなかった。
「いずれ分かることだから教えてあげる」 S子先生は僕たちに向き直った。
「あたしはあなたたちと一緒にこの高校を卒業するの。つまり、辞めるのよ」
「どうしてですか」 とN子が問い返した。
「結婚して、エディンバラに移り住むからよ」
「へぇ…エディンバラって、イギリスの、ですか」
「スコットランドよ。それからね、あたしは暫くの間は教職を離れるつもりなの ─ だから、あなたたちがふざけているのを見過ごせないのよ」
語尾にちょっとだけ優しさが戻っていた。
僕とN子は、何をどう評すればよいか分からず、よかったですね、とか、おめでとうございますなどと、しどろもどろに答えつつも、どうにもS子先生に対して申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうになり、それで逃げるように音楽室をあとにしたのだった。
式次第は順当に執り行われていった。
国歌、校歌、そして、仰げば尊し…
壇上の左隅に置かれたピアノを流麗にかつ艶やかに奏でてゆくのは、もちろんのこと、真っ白なブラウスを慄然と着こなした超美貌のS子先生。
あんなすごい美人は、他所ではお目にかかれないかもしれないなぁ ─ そんな子供じみた独り言の記憶がある。
ちらっとN子に目をやれば、ウサギのような真っ赤な目ですすり上げていた。
卒業式は恙なく片づき、それから、僕とN子は音楽室のS子先生に最後の挨拶に伺ったのだった。
そして、僕たちの進学のこと、それからS子先生のスコットランドにおけるこれからの生活のことなどをひとしきり話し続けた。
話が一段落すると、S子先生はちょっとだけ思案したふうではあったが ─ それからピアノの前に歩み出し、すっと踵を返すと、N子に向かって呼びかけていた。
「あなたのピアノを、最後に聞かせてくれないかしら」
「……」
「なんでも好きな曲を。そうね、自信のある曲を弾いていいわよ」
N子はといえば、ピアノをしばらく見つめていたが、それから呟くように言った。
「別れの曲を」
「えっ…?」
「ショパンの『別れの曲』を、弾いてもいいですか?」
S子先生は微かに身をうち震わせたようだった。
しかしそれも束の間で、すぐに真顔に戻ると、N子にこう告げたのだった。
「いいわよ。ただし、その曲を弾くからには、あなたは立派な『レディ』となることを誓わなければならないわ。立派なレディになるためには、これからの出来事をあなた自身が作り上げるの。そして、これからの運命をあなた自身が定義していくのよ。さぁ、その覚悟はあるのかしら?」
「…ハイ…」
「声が小さい!」
「ハイッ!」
この時の二人の会話に僕はすっかり感じ入り、もう威圧感すら覚えていたのだが、それ以上に、僕はおのれだけが不協和音なのではとのやるせない不安感に居たたまれなくなってしまったのだった。
それで、黙って部屋を退出しようとしたのだが ─ このときS子先生が高い声を挙げて僕を呼び止めたのである。
「山本君!」
それはS子先生が僕に対して初めて(そして最後に)見せた、陶酔的なほどに優し気な表情であった。
だから僕は惹きつけられるようにS子先生に向き直っていた。
「さぁ、山本君、これから彼女が弾き起こす奇跡を見届けてあげなさい。これから奏でられる彼女の素晴らしい曲に聴き入ってあげなさい。いま、彼女は少女を終えようとしているの、『レディ』としてのファーストステージに差し掛かったところなのよ。だから、この時この場にいることを誇らしく思いなさい」
「でも僕は、第三者に過ぎないのではないですか?」 ─ そんなひねくれたような、そして甘えたような言葉が喉元まで出掛かったが、でも僕はどうしても口を開くことが出来なかった。
むしろ、このせつないほどの超美人が発してきた『レディ』という語に幾重にも込められた想いを、なんとか僕なりに察したような、そんなささやかな自惚れにしがみついていたのである。
それから僕は、ピアノの前に座したN子の形相をあらためて見とめ ─ あっ!っと驚愕してしまっていた。
常日頃の澄まして気取った18歳の美少女像はもはや消し飛んでおり、うって変わって、動物的なほどに真摯な形相のひとりの女が、ピアノに敢然と挑みかからんとしていた……。
なかなか帰宅する気が起こらず、僕とN子は喫茶店でしばらく過ごした。
「結婚して、エディンバラに移り住むからよ」
「へぇ…エディンバラって、イギリスの、ですか」
「スコットランドよ。それからね、あたしは暫くの間は教職を離れるつもりなの ─ だから、あなたたちがふざけているのを見過ごせないのよ」
語尾にちょっとだけ優しさが戻っていた。
僕とN子は、何をどう評すればよいか分からず、よかったですね、とか、おめでとうございますなどと、しどろもどろに答えつつも、どうにもS子先生に対して申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうになり、それで逃げるように音楽室をあとにしたのだった。
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③
卒業式の日。式次第は順当に執り行われていった。
国歌、校歌、そして、仰げば尊し…
壇上の左隅に置かれたピアノを流麗にかつ艶やかに奏でてゆくのは、もちろんのこと、真っ白なブラウスを慄然と着こなした超美貌のS子先生。
あんなすごい美人は、他所ではお目にかかれないかもしれないなぁ ─ そんな子供じみた独り言の記憶がある。
ちらっとN子に目をやれば、ウサギのような真っ赤な目ですすり上げていた。
卒業式は恙なく片づき、それから、僕とN子は音楽室のS子先生に最後の挨拶に伺ったのだった。
そして、僕たちの進学のこと、それからS子先生のスコットランドにおけるこれからの生活のことなどをひとしきり話し続けた。
話が一段落すると、S子先生はちょっとだけ思案したふうではあったが ─ それからピアノの前に歩み出し、すっと踵を返すと、N子に向かって呼びかけていた。
「あなたのピアノを、最後に聞かせてくれないかしら」
「……」
「なんでも好きな曲を。そうね、自信のある曲を弾いていいわよ」
N子はといえば、ピアノをしばらく見つめていたが、それから呟くように言った。
「別れの曲を」
「えっ…?」
「ショパンの『別れの曲』を、弾いてもいいですか?」
S子先生は微かに身をうち震わせたようだった。
しかしそれも束の間で、すぐに真顔に戻ると、N子にこう告げたのだった。
「いいわよ。ただし、その曲を弾くからには、あなたは立派な『レディ』となることを誓わなければならないわ。立派なレディになるためには、これからの出来事をあなた自身が作り上げるの。そして、これからの運命をあなた自身が定義していくのよ。さぁ、その覚悟はあるのかしら?」
「…ハイ…」
「声が小さい!」
「ハイッ!」
この時の二人の会話に僕はすっかり感じ入り、もう威圧感すら覚えていたのだが、それ以上に、僕はおのれだけが不協和音なのではとのやるせない不安感に居たたまれなくなってしまったのだった。
それで、黙って部屋を退出しようとしたのだが ─ このときS子先生が高い声を挙げて僕を呼び止めたのである。
「山本君!」
それはS子先生が僕に対して初めて(そして最後に)見せた、陶酔的なほどに優し気な表情であった。
だから僕は惹きつけられるようにS子先生に向き直っていた。
「さぁ、山本君、これから彼女が弾き起こす奇跡を見届けてあげなさい。これから奏でられる彼女の素晴らしい曲に聴き入ってあげなさい。いま、彼女は少女を終えようとしているの、『レディ』としてのファーストステージに差し掛かったところなのよ。だから、この時この場にいることを誇らしく思いなさい」
「でも僕は、第三者に過ぎないのではないですか?」 ─ そんなひねくれたような、そして甘えたような言葉が喉元まで出掛かったが、でも僕はどうしても口を開くことが出来なかった。
むしろ、このせつないほどの超美人が発してきた『レディ』という語に幾重にも込められた想いを、なんとか僕なりに察したような、そんなささやかな自惚れにしがみついていたのである。
それから僕は、ピアノの前に座したN子の形相をあらためて見とめ ─ あっ!っと驚愕してしまっていた。
常日頃の澄まして気取った18歳の美少女像はもはや消し飛んでおり、うって変わって、動物的なほどに真摯な形相のひとりの女が、ピアノに敢然と挑みかからんとしていた……。
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④
その夜。なかなか帰宅する気が起こらず、僕とN子は喫茶店でしばらく過ごした。
N子が進学する音楽大学についての話になり、僕はちょっと挑発するように言ってみた。
「なあN子、おまえの大学はかなり厳しい淑女教育らしいけど、おまえでも本当に『レディ』になれるのかな?」
「なれるわよ。なるつもりだし」
「ふん。レディには教養だって必要なんだぜ。ほら、S子先生が問いかけてきた疑問、『人間が音楽と数学を結びつけることが出来た理由』 、おまえは説明出来るのか?」
「そうね……たとえば星の光とか動きなどを観察していた人たちが、さまざまな星座の物語を思い描くようになり、それらが心を揺さぶり、いろいろな星を音符に置き換え、軌道をリズムに置き換え、銀河などが楽譜のイメージとなって…」
真顔で懇々と話し始めたN子を遮りつつ、僕はあははははと笑い飛ばしていた。
「そういうアイデアは、全てS子先生の受け売りなんだろう?」
「全てじゃないわよ、あたしのヒラメキも混じっているの」
それから店を出ると、二人して星空を見上げてみた。
「こんなに星が見えることもあるのね」
「そうだね」 と僕は返した 「なあ、星って本当に楽譜のようにも見えるんだな」
「そうね。それに、ピアノの鍵盤のようにも見えるわね」
「S子先生のピアノだ。レディのための」
「じゃあ、あたしのピアノでもあるわよ」
僕はN子の顔をまじまじと見つめ、それからもう一度笑い声を挙げていた。
「これからも頑張れよ!作曲に困ったらこの星空を思い出せばいいんだ!」
「数学の苦手なあんたが言うんじゃないわよ!'不協和音'のくせに!」
僕はこのN子の言にドキッとしたが、おまえだって数学は苦手だろうと声を返し、それから互いに手を振って別れたのである。
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さて。
大学進学後、N子とはしばしば連絡をとってきたが、好きだ嫌いだという段階にまで進むには半年ほどかかり、そのご、どうってことはない月日が続いている。
そして、S子先生 ─ 彼女からは、新生活についてたった一度きり簡素な連絡が届いたのみであり、だからこそ僕たちは今でも彼女を’lady'と呼称することとしている。
(冠詞をつけるべきか否かについて、僕たちの精一杯背伸びした論争はいまだ片付いていないものの。)
以来現在に至るまで。僕は幾度もイギリスに業務出張し、また幼少期を過ごしたロンドン郊外の地区にも足を運んだことはあるものの、スコットランドは二度しか訪れたことはなく、もちろん栄えあるS子先生とは合わずじまいである。
(おわり)