新成人おめでとう。
ちょっとだけ伝えておきたいことがあるので、かーるく以下に記しおく。
中学生だったころ、さらに、高校生だったころを思い返してみよう。
ごく限られた時間と空間において、実に短期的な評価の連続だっただろう。
そんな窮屈な世界をあとにした今現在、君たちは自由で悠々とした世界を満喫しているかもしれない。
じっさいのところ、世の中は学校同様、いや学校以上に意思決定に頻繁に直面するところではあるが、それでも「自分自身による」意思決定のみならばそれはスリリングで楽しくもある。
しかし、だ。
世の中に出てみれば、むしろ「自分以外の多数の人たちによる」意思決定に苛まれることも多くなる。
たとえば、生活の基本は需要と供給であり、仕事の対象も財貨の需要と供給であるが、しかしそれらの需要を遍く価格(価値)に晒してみれば、じつに小刻みな多数決に依ってしまう。
よって、供給の意思決定も小刻みな多数決に依ることになる。
金利もそう、為替もそう、保険料もそう、土地価格もそう、世論だって広告だって視聴率だって小刻みな多数決で決まってしまう、そして ─ 経営株式も、代議制もだ。
こうして小刻みの多数決合戦がもっと進行すれば、いずれはサバイバル合戦となり、その勝者のみによる意思決定の独占にすら至るが、そのうち継続的な生産は放棄されて皆が飢えていく。
さて。
ここから、のんびり悠然と考えてみて欲しい。
自然科学にて明々白々なとおり、我々人間はひとりひとりが世界の(=自然界の)全体の系を成す断片であり、世界と人間とは、いわば「力の相互作用」による連綿としたフィールドを成している。
だから、我々人間は巡り巡って連続し連携しつつ、ゆくゆくは皆が楽しく生きられるはずだ。
なるほど、好きなやつや気の合うやつばかりじゃない、ブッ飛ばしたくなるやつとだってこれからわんさかと出会うことになろう。
しかし、人間はそういうふうにあっちこっちに向くように出来ているし、だからこそ一斉に絶滅することもなく、いつでもどこでもヨリ多くの者がほっかほっかと美味しいご飯を食すことが出来ている。
だからこそ、よしそれならば俺もあたしも、と、ヨリ良きものを目指し実現す者が増えつつ全体として繁栄していく、と察せされる次第。
これが「本当の市場経済」であり「本当の民主主義」のありようじゃないか。
(そもそも、小刻みの多数決サバイバルだけで数世紀に亘って継続してきた文明も法人も権威も世界どこを見渡したって無いし、そんな理念すら無いんだ。)
いまあらためて君たちに言いたい。
その時その場かぎりの損得に生きるな、大いなる得をイメージして生きろ。
その時その場かぎりの小理屈に生きるな、理屈におさまらないもののために生きろ。
死にゆく者たちのために生きるな、生きていく者たちのために生きろ。
遥か太古にパンドラの箱が開けられたその時、希望の未来は微かに残されたに過ぎぬというが、それらは時代をおうごとに箱から溢れんばかりに輝きを増している。
以上
(※ 上記は近く英訳して ─ いや本当は英語から起こして日本語にしたものであるが ─ 或る機関紙に載るもの、かもしれない。)