2021/11/07

選挙と民主主義

代議制は、そしてそのための選挙は、人類の民主的な意思決定における最も優れた制度であるといわれる。
はて、本当にそうだろうか?

仮にだが、こんごも科学技術が発展し続けてゆくとすれば、いずれは通貨も立法も限りなく無用となる世界が実現するかもしれず、もし本当にそうなったら議会も選挙も限りなく無用となりうる。
しかしここまで理念的に突き詰めていくと文系の仕事が限りなく減ってしまう ─ だからヨリ現実的に、代議制と選挙はこれからもしばらくは必要だとしておこう。


その上で、ちらっと頭をひねって、以下のようにさまざまな選挙区を超単純にモデル想定し、比較検証してみることにした。


<選挙区A>
保守党はいつも保守の代議士で固められ、革新政党はいつも革新志向の代議士で固められている。
選挙をすると常に保守政党とその代議士が圧勝する。

<選挙区B>
保守党はいつも保守の代議士で固められ、革新政党はいつも革新志向の代議士で固められている。(ここまでは選挙区Aと同事情)
選挙をすると大激戦を展開する。

<選挙区C>
保守党が革新志向に変わり、革新が保守志向に変わり、それぞれの代議士も入れ替わり立ち替わっている。
選挙をすると常にどちらかとその代議士が圧勝する。

<選挙区D>
保守党が革新志向に変わり、革新が保守志向に変わり、それぞれの代議士も入れ替わり立ち替わっている。(ここまでは選挙区Cと同事情>
選挙をすると大激戦を展開する。

以上、政党と代議士と勝敗バランスについて’ごく単純に’分類してみてもこれだけの場合分けがありうる。
さぁ!これらの選挙区のうちで、’最も民意を反映している'処はどこだろうか?

え?なになに?何を訊いているのかって?
つまりだな ─ 
代議士が常に自身の政党に忠義を払ってこそ、民意を忠実に反映しているのか?
あるいは頻繁に宗旨替えしてこそ、民意を反映しているといえるのか?
そして。
選挙を幾度繰り返しても特定政党が圧勝し続けてこそ、選挙が民意を反映しているといえるのか?
あるいは、選挙の度に毎回まいかい僅差の大激戦を展開してこそ、選挙が民意を反映していることになるのか?


さらに、本問を「民主主義上の選挙の目的/効果」にまで立ち返って再考することも出来よう。
選挙とは「民意の’再確認’のための儀式」に留め置かれてこそ、民主的な制度といえるのか?
これが正論ならば、いつもいつも安定的な圧勝型の選挙が繰り返されてこそ、まともな民主主義の体現といえよう。
いやいや、そうではなくて、「民意の'感化'と’触発のためのアクション」こそが選挙の目的であり、民主的な制度と称されるにふさわしいのか?
もしこちらが正論ならば、選挙のたびに僅差の大激戦を展開してこそ民主主義の体現であるということになる。


如何だろうか?
誰もが気軽に口にする選挙そして民主制度だのについて、ざーっと考えを巡らすだけでも、これだけ複合的な検証課題となってしまうのである。
むろん考慮すべき要素はまだまだ有る、というより有り過ぎる ─ 選挙権と国籍と最適年齢、有権者の職能や所得と選挙区割、比例区の当選カウント方式、比例区との重複候補、拘束/非拘束の名簿制、最大得票与党が仕切る議院内閣制、衆参二階建の議会構造、米大統領選の選挙人設定のような多段式選挙…


’ずいひつ’なので思いつくまま、あらためて哲学的に立ち返って考えてみる。
人間の人間による人間のための政治(統治制度)と称するは易しいものの、この人間’の(of)'の真意が恐ろしく難解である。
この’の(of)’が人間という種の先天的な属性の意なのか、それとも人為後天的な調整手法の意となるのか、政治学上も法学上も誰にも最終定義が出来ていない。

社会科系の学術としてよく比較される経済学とて、通貨の確定的な定義は無いし需要についての定量的な定義も無いので難解ではあるものの、しかしカネの所在や速度を追えば貧困化の犯人捜しやインフレ予測などなどの効用はあり、だから一応は正義論も立つ。
それでは政治学はどれだけ合目的な思考系か。
政治の超根源たる民主主義制度、その根本たる選挙について、何が正義であり正論であるのかすら、本稿に記したとおり腰が据わっておらず、だから選挙制度についても政党の在りようについても理想形無きまま、有史以来ずーーーっと試行錯誤が続いており、むろん世界万民共通のフォーマットなど無い。
まことこれは難しい、難しすぎる!


政治学科への進学を考えている高校生諸君、なるほど大学入試までは比較的易しいかもしれぬ、しかしだぜ、君たちはとんでもない難解な世界に足を踏み入れようとしているんだ。
さぁ覚悟しておけ。

以上