2022/09/27

男と女

男のセンスは、物理学に近い。
万物による「仕事」とその「運動」を別次元のものとして捉えている。
だが、女たちはあらゆるものにおいて「仕事」と「運動」の区別が希少である ─ ように映る。

なぜ男女の物理感覚がこのように異なるのか、ちょっと考えを巡らせてみた。

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男は、神も仏も真理も教典も座標も’おのれの外部’に設定している。
だからこそ、男にとっては主観と客観が常に別意識である。
そして、だからこそ、男は外部に働きかける「仕事」と、自己内部における「運動」を、別物として捉えることができる。

きっと、はるか昔から男たちこそが物理学や化学を切り開いてきた。
物理学も化学も、物体や物質を元素として切り分け、原子における核子だの電子だのの粒子レベルまで分け、さらに加速度だの質量だのエネルギーだのまで切り分けたり組み替えたり、これはこれ、それはそれ、俺は俺、と、とことんバラしてゆく…そういった思考方式である。
だから空間も時間もデジタル離散的にバラして組み替えたり。

一方、女たちは神も仏も真理も教典も座標も、’おのれの内部’に有るようである。
だから、主観と客観がもともと厳密に分かれておらず、ゆえに、女たちは外部に働きかける「仕事」と自己内部における「運動」にほとんど区別が無いのではないか。
きっと、宇宙の万物は連綿とつながっており、精密に切り分けることなど出来ないと、そんなふうに感じているのではなかろうか。
そして、他者への「仕事」とおのれ自身の生命「運動」に明確な区別は無いのではないかしら。

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人間の身体は外部の物体に治して「仕事」を為すが、脳神経はあくまでも自身の電磁物質上の「運動」にとどまっている。
ロボットは外部の物体に対して「仕事」を為すが、コンピュータはあくまでも自身内部で電磁粒子の「運動」を行うにとどまっている。
航空機や鉄道は輸送の「仕事」を為しているが、それらの乗客はおのれ自身の移動「運動」を続けているに過ぎない。
会社で残業を続けている男は「仕事」をしていることになるが、その会社を運営し運用している部門の連中のことは知ったこっちゃねぇんだ。

…といったところも、男だからこそ閃く。

だが女たちの感覚はきっと違う。
女たちにとっては、身体と脳神経に区別が無く、ロボットとコンピュータにも区別が無く、どちらも「仕事」≒「運動」を同時に為していることになっている。
航空機も乗客もともに「仕事」≒「運動」を為していることになっている。
会社で「仕事」が出来るのは、運営し運用してくれる人々の「仕事」のおかげでもある。

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このように男女間で物理勘が異なるのであれば、経済勘も異なってしまうのは当たり前である。
典型的にいえば、コストに対する考え方が男女間でつねに食い違う。

男の物理勘からすれば、他のものに対する「仕事」においてはコスト回収を主張してよいが、おのれ自身の「運動」におけるコストまでも回収を主張するのはおかしい。
リングの上で殴り合っている選手たちは「仕事」をしており、ゆえに相応の「仕事コスト」を回収を主張できよう。
しかしリング下で観戦し応援しているだけの連中はあくまでもおのれ自身の「運動」をしているにすぎず、その「運動コスト」回収を主張すべきではない。
よって、ボクシングでもレスリングでも選手たちには報酬があるが、観客には報酬など無い ─ というのが男たちの掟である。

だが女たちにとっては、リング上の選手もリング下の同胞やファンたちも、ともに「仕事」≒「運動」を為していることになっており、だから「仕事コスト」と「運動コスト」にも違いは無い。


男たちの見識からすれば、世の中あらゆるところ、真剣勝負のリアルディールもある一方で、カネの内需拡大や信用創造のために設定されたフィクションもある。
そして、いわゆるGDPはあくまでもカネまわしの速度に過ぎぬので、社会構成員たちの知力や技量とはあまり関係がない ─ というのも男なりのセンスである。

しかし、女たちの直観からすれば、リアルディールとフィクションには区別がない(なにもかもがリアルディールである)。
だからみんなでお金を分かち合うべきだということにもなりうる。
そして、いわゆるGDPは社会構成員たちの知性や技量の総和であると、これも女たちなりの見識であろう。


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以上のように想定してみると、あらゆるものを連綿と混然一体化せる女たちの感覚の方が宇宙の物理そのものに近いのかしらと、妙な気にもなってくる。
宇宙の物理は極論だとしても、たとえば、人間同士において断絶を回避すべく、さまざまな交換行為のために万物の価値の共通化を図ってきたのは、女たちの遠い祖先だったのかもしれない。
万物の価値の共通化ゆえに、数字を、ひいては数学を発明することになったのかな。
そして、数字や数学を元にして通貨や言語を考案し発展させたのも、女たちの遠いとおい祖先たちだったのではないか。

万機公論に…というが、多数決議会も社会保障もさらに共産社会も女たちの発案ではなかろうか。

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…こんなふうに書くと、女たちの方が博愛的で立派な種族のようにも映ってしまう。
しかしだね、女たちにはちょっと困った欠点があるんだ。
教育にかこつけて言えば、例えば英語教育の軽薄さだ。

なるほど、英語そのものの文章構造は物理式や化学式に似ており、つまり「仕事」的な表現と「運動」的な表現が冷徹に分かれており、よって他動詞用法と自動詞用法も厳密に分かれてはいる。
しかしながら、我が国の英語教育では単語の語義に総じて無頓着であり、無頓着なままに英語をどんどん普及させ普遍化させようとしてやがる。

どのくらい語義に無頓着かといえば、例えば 'power' と 'force' 差異である。
物理学に則って言えば、或る電気回路「が」他者になんらかの仕事を為す「電力x量 W」は electric power である。
一方で、その電気回路「にて」電位差克服のために課される「電圧つまり起電力 V」は electromotive force だ。
こうして物理学的つまり分析的に捉えれば(すなわち男性的に捉えれば)、'power' と 'force' の基本通念の差異が分かりやすい。
だが英語科のとくに女性教師たちはこういうセンスが働かないのか、あるいは心情的に忌避しているのか、もうとにかく語義がアイマイのウヤムヤで、どっちも「力」でしょうなどと…
だから軽薄だって言っているんだ。


以上だ。