2023/01/09

新成人 (2023)


成年年齢が18歳となって、初めての「成人の日」。
いわゆる少子化が進み、だから成年人口も減り続けてはいる。
この意味はいったいなんだろう?

人間という「実体」が通貨や多数決議会などの「論理」に反旗を翻し続け、だから人間の個体数とバラつきを減らしてきたということか?
あるいは逆に、通貨や多数決議会などの「論理」が人間という「実体」を侵し続けてしまったからこそ、人間の個体数とバラつきが少なくなったのか?
ならば、かつて人口が増大してバラつきも拡大していった時代局面では、「実体」が優位に尊重され続けてカネや政治などの「論理」を抑え込んでいたのだろうか?

どう解釈すればよいのか、どうにも分からない。
分からないながらも、「実体」と「論理」について思案を続けているうちに、新成年の諸君らに伝えたいことが一応はまとまった。

昨日まで子供だった諸君らにとって、「実体」と「論理」は一緒くたの不可分だった。
というより、すべて「実体」そのものに映っていたことだろう。
しかし、成年に達したということは、その彼/彼女にとって「実体」の次元と「論理」の次元が完全に分離したということ、そして、これらどちらもともに生きなければならぬということである。

だから、此度は「実体」と「論理」について、ちょっとだけ理屈をおいてみよう

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あらゆる物質も物体も、そして我々の肉体もまた脳神経すらも、1度に1つ限りの自然な「実体」である。
たとえば、遺伝子や細胞はむろんのこと ─ 水や食材、薬剤、電磁波、核、熱、鉱物、イオン、木材、鉄鋼、コンクリート、ガラス、プラスティック、機械類、半導体や導線、火力兵器、核兵器、ウイルス物質、ワクチン、さらにスポーツや絵画や音楽や文学などなど。
これらは何らかのエネルギーから起こり、何らかのエネルギーに転化もできる、だからこそ「実体」といえる。
日本国、皇室、日本人、お正月、アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、ロシア人…そして伝統文化や社旗規範なども「実体」。

「実体」は、途切れることなく連綿と変化し続けてはいるが、どこまでも有限の存在でもある。
変化し続けている以上は、「実体」それら自体をデジタルに均等細断することはおそろしく困難、ましてや有限の存在ゆえ、完全無欠の複製や流動や組み換えや復元はもっと困難、(素粒子レベルで本当に復元できようか)。

君たちは「実体」として生まれ、「実体」として育ち、「実体」として成人した。
「実体」として走り、「実体」として跳び、「実体」として「実体」を見聞し感受し、「実体」に対して右ストレートや左フックを叩き込み、「実体」を掴んで抱えて上手投げや下手投げを繰り出し、「実体」をぶっ叩いて場外ホームランを叩き出し、「実体」を蹴り飛ばしてオフサイドギリギリのシュートを放つことも出来る。


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一方では、成年なりたての諸君を大いに惑わしうる「論理」について注記しておこう。

「論理」はどれもこれも人間が考案した観念でしかない。
たとえば、数学とか言語とかソフトウェア(デジタル)とか、通貨とか価値とか税とか証券とか保険とか、法とか権利とか義務とか、多数決とか議会とかメディアとか…
さらに、国際金融資本、アメリカ合衆国、ヨーロッパ連合、ウクライナ政府、中国共産党、国際連合、NHK、感染者数、などなど。

人間考案の観念にすぎぬがゆえ、あらゆる「論理」は無限を前提とし得る。
無限の「論理」ゆえにこそ、作為的に意義や文脈を無視してデジタルに均等断裂が出来、なんぼでもシャッフルして組み換えが出来、さらに複製も流動も自由自在、そしていつかどこかで完全復元もOK ─ ということになっている。

「論理」のほとんどは、しばしば言葉遊びでもある。
たとえば「勤労の義務」は規範とされているが、「雇用の義務」という規範は無い。
また、「生産」および「生産物」は「実体」だが、「生産性」はカネまわしの「論理」でしかない。
「地球の気温」は「実体」だが、「温暖化あるいは寒冷化」となると「論理」でしかない。


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何が言いたいのかって?
成年なりたてホヤホヤの諸君に伝えたいことは、要するに簡単なことだ。
「実体」あってこその「論理」である!
「論理」のために「実体」があるわけではない!
有限の「実体」を改編し新規に作り上げるためにこそ、さまざまな「論理」の無限のフレキシビリティが起用される!
感染という「論理」をコロコロ転がしてカネをコロッコロと回すために、諸君らの肉体という「実体」が犠牲になってよいわけがない!

ひとたびカネに変えてしまった肉体を完全な元通りに買い戻すことは不可能なんだぞ!


君たちの多くが学んできたとおり(あるいは言い聞かされてきたとおり)、物理学は名称こそ紛らわしいが明らかに「実体」に則った学問である。
その証拠に、「万物」の運動現象をとことん還元すれば何らかの物体の単振動、それら力の作用と反作用である ─ などなどと断言している。
そして、エネルギーとその仕事の有限性に則ってこそ、エネルギー保存則もエントロピー限界説もある。
一方で、数学は「論理」でしかない、だからエネルギーも保存則もねぇんだ、無限にずーーーっと縦横無尽の展開をしていくんだ。

なるほど、物理学は数学「論理」によってさまざま新たな仮定もおこり、新たな発見もなされ、それらによってこそプラスティックもシリコンウエハーもコンピュータも航空機もレーザーも量子マシンも核兵器も生み出してはきた。
だから、「論理」あってこその新規創造だろうと反論したくなるかもしれない。
しかし、じっさいに生み出されたそれらは有限の物理環境においてこそ駆動するもの、だからどこまでも有限の「実体」である。

生命科学によって出現したクローンやIPSにしてもそうだ。
クローン男にせよ、IPS女にせよ、数学「論理」によって設定された完全な同一複製や組成再現であるはずだから、「論理」あってこその新たな生命秩序じゃないかと言いたくなるかもしれない。
しかしながら、それらはひとたび発生した瞬間から別々の環境にて別々の代謝を始めるもの、ゆえにどれもこれも別々のそして有限の「実体」である。


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グダグダと書き殴りやがって…と閉口しているかもしれぬが、ともかくも「実体」と「論理」の峻別は個々人にとっても国家民族にとっても生きるか死ぬかの超重大問題。
独立した成人であれば、なおさらのことだ。
だからこれからも何度でも繰り返すつもりだ。


以上