『因果推論の科学 ジューディア・パール / ダナ・マッケンジー 文藝春秋』
本書原書版の英文タイトルは "The Book of Why - The New Science of Cause and Effect” であり、これだけ一瞥すると既存の視座や思考枠を打ち破る新たな科学哲学の紹介本のごとくに映らなくもない。
しかし、巻頭部から前半部まで僕なりにざっと一瞥したかぎりでは、本書の主幹メッセージはぐっとテクニカルなコンピュータ論ではないかと察せられる。
大雑把に捉えれば、たぶんこういうものだ;
- まず、人間自身が想起するさまざまな命題を、さまざまな「因果'有り/無し'の選択経路ダイヤグラム」として人間自身が作成する。
- これらさまざまな「因果のダイヤグラム」を、本著者が開発した由の「数理フレキシビリティの高い記号言語」にて表現する。
- そしてこれら「記号言語」を以て、コンピュータ(AI)に学習させる。
- かかる試みをとことん精密に続けていけば、コンピュータ(AI)は「当初の因果経路における'人間なりの真意'」をほぼそのとおりの確率で正鵠に推論出来るようになるであろう…
もとより本書は論旨がしばしば学際的かつ多元的な一方で,、図説は控えめにおかれており、このため「因果ダイヤグラム」と「記号言語」と「コンピュータ(AI)」に亘るシステムコンフィギュレーションもオペレーティング環境要件も具体像を絞り込み難い。
よって、上にまとめたステップはあくまでも僕なりに思案を重ねつつ想像力もそこそこ動員してまとめたものにすぎぬ ─ が、とりあえずはこれらに則りつつ読み進めてみた。
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総じて、本書には了察しやすい側面と了察し難い側面があるように見受けられる。
そこで此度の【読書メモ】としては、これらそれぞれを評しつつまとめおこう。
まず了察しやすい側面としては、本著者が考案開発した由の「記号言語」の優位性をおそらくは本書ほぼ全編に亘って推しているところである。
この「記号言語」は確率論に則りつつも、従来の’固定的な’確率数理には留まらず、そもそもの「因果ダイヤグラム」の自由自在な「介入的」改編に即応して確率計算をダイナミックに遂行できる数理言語 ─ とされている。
ごく単純な例として;
或る薬'D’がその服用者の寿命'L'に与える影響の「因果ダイヤグラム」があるとする。
これを確率'P'のみに則った「記号言語」で表す場合、従来の条件的確率の発想ならば 'P(L|D)' と表現するに留まる。
一方で、「因果ダイヤグラム」にてさまざま随時の経路'介入を許容するならば、その'介入'のための'do演算子'を加えた「記号言語」として、
'P(L|do(D))' および 'P(L|do(not-D))' と比較対象化が出来る。
この 'do演算子'付きの「記号言語」をさまざま複合させ、これらをコンピュータ(AI)に入力することによって、当初の人間による命題の精密な因果関係のみをコンピュータ(AI)にとことん確率計算させることが出来、もともとそこに含めおかなかった無関係因子や交絡因子はきちんと排除させることが出来る。
あわせて、起こりえない事実を反証的に炙り出し排除させることも出来よう。
(本著者はこれらの進展を「因果のはしご上り」とも比喩されており、またひとつのトライアルとして「ミニ・チューリングテスト」に敵うだけのコンピュータ(AI)モデル実現を追求されてもいる。)
そして、これまで広く導入されてきたベイジアンネットワークは、ここまでは至っていない ─ とのこと。
如何であろうか?
どどんと560頁から構成させている分厚い本書ではあるが、その主たるメッセージが上のとおりであるとすれば、近現代におけるじつにさまざまな因果推論の論理とその限界を随所に指摘する啓蒙の書として総括出来なくもない。
とりわけ、従来型のいわゆる計量経済学などなどについて、どこまで受け入れつつどこまで疑義を呈しているものか…
また、そもそもコンピュータ(AI)は再現性を回帰分析する特性に秀でたマシンではあるが、もしも再現性を排除するような’ひねくれた’推論を次々と呈するようになったら、コンピュータたる存在意義をどう捉えればよいのか…?
それらひとつひとつを僕なりに咀嚼し要約して本ブログに記すとおそろしい分量になってしまい、見当はずれの投稿も増えてしまうかもしれぬので、此度はこのような総論に留めおくこととする。
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さて一方で、本書にて了察し難い側面もざっと指摘…。
そもそも数学論やICT論の分野にて多く散見されることであるが、人間とコンピュータの相対化および対峙を前提とした論旨が進んでいるためか「…が」「…を」「…に」といった助詞類の論理ががかなりウヤムヤに映ってしまっているところ、指摘しておきたい。
とりわけ分かり難いタームのひとつは「観察」であろう、何が(誰が)何を観察しているのか、人為なのかコンピュータなのかプログラムなのか…どうにも僕は未だに把握し損ねている。
もとより、数学とコンピュータ関連の作家世界では「…が」や「…に」の論理峻別が無用なのであろうか、そんなもんどうでもええやないかってことか ─ となると、(たとえ日本語より論理の厳正な)英文原書においてもやはり何が何を何やっているのか読解は難しいのかもしれぬ。
結局は読者の素養と見識次第ではあろう。
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ともあれ、素養も見識もたいして持ち合わせぬ僕なりに、あくまでほんの巻頭部の一端を垣間見ただけでも、さまざまなパースペクティヴと着想をぐるぐる触発され、なかなかチャレンジングな一冊とはなった。
同じ理由から、大して素養も見識も持ち合わせていないであろう大学受験生などにとっても、本書におけるエキサイティングな論題論説の数々は英文読解の課題として面白い、かもしれぬ。
(じっさい、そのうちに慶應SFCや早稲田理工あたりの入試英文にて出題されたりして。)
以上