①
高校時代のことである。
或るSF誌に投稿するつもりで、僕は『待ち伏せデート』という学園ラヴストーリーを考案し、おのれなりに筆をふるってこれを書き進めていた。
ここには、僕なりの基本的な世界像があった。
それは ー 世界のほとんどは雑多な虚構の立体交差ばかり、しかしながら、ところどころに’真実の系’も貫かれている…というもの。
貧しい世界観だと笑わば笑え、この世界像については今もほぼ変わるところがない。
しかし、この『待ち伏せデート』を書き上げるには至らなかった。
クラスメート女子のN子が割り込んできたためである。
このN子についてざっと記しておこう。
N子はお互い母親の代からずっと馴染み同士に在った因縁の娘。
馴染みのかかわりとはいえ、N子の家柄は我が家よりもずっと名家、よって何不自由の無い学生生活を悠然と送っていること、いつでも見て取れた。
そしてN子自身が何事にてもじつに利発で活発な娘であり、陸上でも水中でもさまざま都下の記録に拮抗するほどのスポーツ万能。
おまけに数年間のニューヨーク滞在経験もあり、いまや僕の眼前に迫りくるほどの生意気な高身長、そして僕の遥か上空をいく英語自慢でもあった。
何よりも悔しいことに、N子は宝塚然としてクッキリ映えるほどのとびっきりの’美少女(美人)’でもあること、僕はどうしても認めざるをえなかったのである。
現実においてこれほどまでに充足しているN子のこと、相応の世界観もかなり楽観的かつ強固ではあった。
それすなわち ─ 世界のほとんどは揺るぎなき真理の大系であるはずだが、どこかに’虚構’が残存し続けており、それらがところどころ不条理をもたらしている…というもの。
え?なになに?クラスメートの美少女?
どうせ今回はつまらない自慢話がつらつらと続くんだろうって?
さぁて、つまらないかどうか、とりあえずは付き合いなさいよ。
すでに本稿はセットアップがほぼ完了しているのだから。
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②
さて、某SF誌に投稿図っていた『待ち伏せデート』についてである。
その日の午後、休憩時間に教室内でそっと読み返している僕の眼前に、N子がぐいっと顔を覗かせてきた。
「ダメねぇ、ダメ、ダメ」
N子は鷹揚にかぶりをふりつつ、小鳥のような狡そうな眼をつくって僕をきゅっと一瞥、そして我が『待ち伏せデート』をすっと摘まみ上げると机にパーンと叩きつけたのだった。
「ぜーーんぜん、ダメよ。あんたはこーーーんな低劣な話しか書けないのね」
「低劣とは、なんだ!?何が低劣なんだ!?」 と僕は気色ばんでいた。
「世界観が低劣なのよ。な~に、このアブストラクトは?虚構ばかりのこの世界に一筋の真実を切望しつつ、僕は彼女を待ち伏せデート、ですって?ふっふふふ、バッカみたい。世界のどこが虚構ばっかりなのよ?あんたの発想は根本的に貧しいのよ。ねえ、こんなもの本気で投稿するつもり?恥っさらしもいいところだわ。やっぱり、あたしが居ないとね~」
「ほぅ、そうかい?」 僕は憤然と立ち上がった。
「それじゃあ、おまえは俺よりもずーーっとマシな世界像を描けるっていうのか?」
「フン、あんたのよりもずーーーっとマシなものを書いてきてあげるわよ。この世界を大いに賛美する知性と洒落っ気の掌編。明日まで待ってなさい、いいわね!」
「そうか、よし待ってやる。もしも気に入ったら投稿作品として採用してやってもいいぞ。たぶんそうはならないだろうけど」
「ふふふふっ、どうせ全部あたしのアイデアになっちゃうんだけど」
翌日になった。
N子は『ガラスの合鍵』というタイトルの掌編を小脇に抱えつつ、僕の前に立ちはだかった。
「さぁ、昨日の予告通り書いてきてあげたわよ。この素晴らしき世界において’僅かに残存する虚構’を、宿命の恋人たちが正していくっていう、ちょっとスリリングな恋愛ストーリーなの。あんたの駄作なんかほとんど吹き飛んでしまったわ。ふふふふっ」
僕はその『ガラスの合鍵』を無言でひったくると、アブストラクト部をざっと黙読した。
それからバーーンと机に叩きつけた。
「ダメだっ、ぜんっぜん、ダメだっ!世界観が根本的になっとらんっ」
「何するのよっ、ちゃんと読みなさいよっ」
「読む意義は無い。なにが’僅かに残存する虚構’だ?世界は’虚構だらけ’なんだよ!」
「へぇ?なんですって?」
「いいか、じっさいのところ、世界いたるところで情報と実体はいつも食い違っているし、カネはもっと食い違っていて、もう虚構ばっかりだ。それで仕方がないから物価も株価も予算案もかたっぱしから多数決任せじゃないか」
「フーーン、おかしなこと言うのねぇ。そもそも多数決は世の中の’ちょっとした虚構’を炙り出すための手段でしょう?ふふふふっ、あんたは発想が貧しすぎるのね。だから世界が虚構だらけに映ってしまうんだわ」
「おまえの世界観こそ俗物だ、スノッブだ、どうせ、エリートのパパとインテリのママと…」
「はぁ?スノッブとは聞き捨てならないわね。模試の英語で半分も得点出来なかったバカのくせに偉そうな英単語を使うんじゃないわよ!」
「どうしてそんなこと知っている?!ははーん、ご自慢のママに聞いたんだな」
「そうよ、あんたのことは何でもかんでも、お母さまからうちのママ経由であたしの耳に入ってくるの。子供のころから、な~んでも、か~んでも。ふっふふふふふふふ。ねぇ、おバカさん、隠し事は出来ないわね~。世界はほとんど完全無欠な真理で出来ているのよ」
「黙れ!」 と僕はまた声を張り上げていた。
「何を言おうと俺の信念は揺るがないぞ。いいか、明日まで待っていろ。俺流の話をきちんと仕上げてやる。おまえはもう出しゃばるな、わがまま娘が」
「そう?そんなに言うなら、もっと楽しいお話を楽しみに待っているわよ。真実味のあるお話をね」
さらに翌日になった。
僕は『恋の連立方程式』という掌編を小脇にかかえつつ、N子に声をかけた。
「さぁ、本格的な恋愛SFものを書き上げたぞ。さまざまな虚構がいたるところ交錯するこの世界において、愛し合う二人だけは常にお互いの真実を交信しあうという、ちょっとせつない恋愛テレパシーだ」
N子はといえば、猫のような狡猾な仕草で鼻面を近づけてきて、我が『恋の連立方程式』をひったくり、初めから大きくアクビしたり、紙面を指でパシンパシンと弾いてみたり ─ そしてこれをピシーーンと机に叩きつけたのだった。
「おいっ!」
「なにかしら」
「ちゃんと読めよ!」
「なにを?ん?なにを読めっていうの?まさか、これのこと?『恋の連立方程式』ですって?数学の偏差値が45のくせに、な~にが連立方程式よ?だいいち、あんたの貧しい世界観からすれば、連立方程式に乗っからない虚構が多元的になるばっかりじゃないの?」
「……」
「あーあ、やーっぱり、あんたはあたしが居ないとダメね。もう今回の投稿小説はすべてあたしに任せなさいよ。あたしがブレインで、あんたはあくまでも協力者。ほらっ、返事は?」
さらにその翌日。
N子は『ファーストクラスの十字軍』と銘打った掌編を書き上げてきた。
もちろん僕はこのアブストラクトすらろくすっぽ読みもせずに机にバーーーンと叩きつけ、何すんのよちゃんと読みなさいよっ、いーや読む必要は無いんだどうせおまえの贅沢三昧な夢物語はろくな創意工夫もないんだ、そんなことはないわよっあんたよりはずっと崇高で高尚なお話なのよっ…といった口論に終始。
こうして、僕もN子もこれといった着想上の閃きも無きまま、件のSF誌の投稿締め切り日は刻一刻と迫りくるのであった。
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③
ちょうど同じ時節のこと。
ひとりの女性音楽教師がわが校に転任してきた。
S子先生である。
S子先生は作曲から楽曲演奏まで常にトップレベルの天才肌、都下はもとより近隣県にまで美名を轟かすほどの超然タイプ、さらに数学の才にも傑出しており ─ だからもちろん美貌の女性に決まっている。
ここいらは他の掌編にて描写のとおり、だからあらためて賞賛の言を重ねるには及ぶまい、しかし此度の物語の展開上、S子先生についてとりわけ留意しておかなければならぬことがある。
S子先生は魔法使い ─ そう噂されていた。
もとよりS子先生は傑出したピアノ奏者ゆえ、我が校の有望な生徒たち数名のピアノ特訓コーチングにあたることになった。
そして、問題のN子である。
N子もまた、S子先生による技能評価に見事適って、特訓受講生の一人に収まっていたのだった。
そんな或る日、放課後のこと。
N子がピアノ特訓受講のため音楽室のS子先生を訪れるにあたり、僕も冷やかし半分のつもりで同道したのだった。
ふとN子が問いかけた。
「先生、この世界にはどうして’虚構’が残存し続けているんでしょうか?」
ここでS子先生はちょっと驚いた風ではあったが、しばらく思案すると、あらためてこちらを向き直り、僕らの顔を交互に見据えつつ語り始めた。
「今からあたしが話す内容は、ちょっと突飛に聞こえるかもしれないけれど、二人とも覚悟して聞きなさい」
「は、はい」
「もともと人類には何か決定的な宿命が備わっているのよ。だけどそれらのさだめを一度に実現してしまうと燃え尽きてしてしまうの」
「はぁ…?」
「それで、絶滅を回避するために、人類は敢えて様々な虚構を考案して、遠回りのバイパスを増やしてきた…と、まあ、こんなふうに考えることも出来るわけ」
「……」
「ねえ、あなたたちはいわゆる心身二元論を知っているかしら?」
「……フロイトみたいなやつですか?」
「デカルトよ。それじゃあゼウスとプロメテウスの神話は?」
「それはまあ、なんとなく知っています」
「よろしい。それで、その神話の伝承をピアノ曲にすると ─ 」 S子先生はとつぜんピアノの鍵盤を流麗に弾き始めた。
それはごく短い小節ではあったが、なんとも奇妙に転調が絡み合ったリプライズ。
「…こんなふうになるの。ねえ、不思議な曲でしょう?人間に備わったさだめを遂行させようとする『プロメテウスの真実』、それを懸命に抑制しようとする『ゼウスの虚構』、これら両者が入り混じった曲」
「……」 僕たちはドキリと仰天し、そして感嘆するしかなかった。
「これは言わば魔曲なのよ。だから面白半分に弾いてはいけないわ ── さぁ!お話はこのへんでお終いにして、N子さんのレッスンを始めましょう」
ここで僕はN子を見やった、そしてN子も僕を見つめていた。
いままさに聞かされた魔曲によって、僕とN子はほぼ同時に、例のSF投稿にふさわしいとてつもないインスピレーションに激しく突き動かされていたのであった。
それつまり ─ もしもこの曲から『ゼウスによる虚構』のパートを排除し、『プロメテウスの真実』のみを奏でると、いったい何が起こるだろうか?
さすがに、ピアノ演奏にても並外れた技量を有するN子である。
S子先生のレッスンを受けつつも、このゼウスとプロメテウスの魔曲を如才なく記憶してしまったのだった。
となると、いよいよ僕たちが試みるべきことは明らかだ。
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④
翌日の放課後。
すでに陽が傾きかけた夕刻時である。
N子が僕の脇腹を小突いた。
「出来たわよ」
「何が?」
「ゼウスとプロメテウスの分離」
「なんだとっ?本当か?!」
「ずっと考え続けてたんだけど、ついに成功したの」
ノートの最終ページに書き殴った楽譜を、N子は僕の眼前につきつけた。
「これが…これがそうなのか…?」
「譜面と音符から計算すればこうなるはずよ」
「それじゃあ…それじゃあ『プロメテウスの真実』のパートは?」
「このとおり」
「へぇ…!」
「さぁ、どうするの?『プロメテウスの真実』、弾いてみる?それとも、怖いからやめておく?」
「やめられるかっ」
僕とN子は駆け出した。
誰もいない音楽室、N子が巧みに開錠し、僕たちはこっそりと忍び込む。
S子先生のピアノがあった。
「よし、弾いてみろ」
「でも…あたしひとりだけだと、なんだか不安だわ」
「おまえだって本当は怖いんじゃないか」
「じゃあ一緒に」
僕たちは肩を寄せ合った、そして、N子はついに演奏を始めた……
バーーーーーーン!!
気がつけば、僕とN子の前に真っ白なピアノが在った。
そのピアノ越しに周囲をぐるり見回して、僕たちは唖然とした。
見渡す限り、遥か巨大な地平線ばかり。
まさに地平線のみが広がっていた。
そして地平線の向こうには、いままさに沈まんとする太陽が、狂った溶鉱炉のように真っ赤に燃え盛っている。
あっ、と、僕もN子も同時に悟っていた ─ ああここが、これこそが、あらゆる虚飾と虚構をかなぐり捨てた真実のみの世界!
プロメテウスが実現してくれた世界!
「おまえが信じてきた、完全無欠の世界ってことだ」
「あんたが信じることが出来なかった世界ともいえるわね」
N子が悪戯っぽい声を挙げた。
僕はN子の顔をあらためて見やった、いや、N子こそが僕の顔をまじまじと除きこんでいた。
僕は照れ隠しに声を弾ませていた。
「おい、絶対にこのピアノから離れるなよ」
「どうして?」
「どうしてって…おまえの大嫌いな虚構の世界に戻れなくなったら困るから」
「あたしは困らないわよ。あんたの大好きな虚構の世界に戻れなくても」
クスクスとN子は笑い声をあげた。
「あんたこそ、あたしから離れたらダメよ、あんたにはいつもあたしが必要なの」
「そうかね。まるで俺は獣だな」
「いいじゃないの。あたしだってあんたと同じくらい赤裸々なケダモノなんだから」
「…そういわれてみれば、おまえの顔はなんとなく動物みたいだな」
「あんたも動物みたい、だからいいもん」
まるで核融合の掟を引きちぎったかのように、太陽はいよいよ猛烈に燃え続け、そしてあっという間に地平線の彼方に沈みゆく。
…と思えば、いまや満天の星空が遥かぐるりと広がっている。
ピアノの足元で、僕たちは寄り添っていた。
てのひら越しにN子の温もりが伝わってくる。
肩越しには鼓動も呼吸も伝わってくる。
ピアノの鍵盤を見やれば、白鍵と黒鍵が星々の光にきらりきらりと撥ね続けている。
僕は立ち上がって、星空をぐるりと見渡した。
「見ろよ、たくさんの星座群がすごい速度で移動していく」
N子もついと顔を挙げ、それから楽しそうにつぶやいた。
「まるで、あたしたちはアダムとイヴみたいね」
「アダムとイヴか。最初の?それとも最後の?」
「さぁ…どちらも同じ存在だったのかもしれないわね」
ほどなくすると、もう地平線の彼方が白々と明けてきて、新たな太陽が昇り始めていた。
真っ白なピアノが輝き始める。
とつぜん、そのピアノの中から叫び声が響き渡ってきた。
「あなたたち、そこに留まっていてはいけない!
二人とも急速に燃え尽きてしまう!
すぐに戻ってきなさい!
N子さん、『ゼウスの虚構』のパートよ、分かっているんでしょう。
さぁ、弾きなさい!」
あっ。
S子先生だ。
僕たちはすっくと立ちあがって顔を見合わせた。
「S子先生が呼んでいる。さぁ戻ろう、元の世界へ」
N子はしばし逡巡の表情を浮かべていたが、それから観念したように鍵盤を弾き始め、幾度かの打鍵し損じののちに『ゼウスの虚構』を弾きぬけたのであった。
こうして僕もN子もこの’虚構’の世界に回帰したのである。
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⑤
以上で、此度の不思議な話はお終いだ。
件のSF誌への投稿は、この話を大本に仕上げたものとなり、僕なりには大いに満足ゆくものとなった。
だが、共著者たるN子については最後のさいごまで困ったもの。
完全無欠な真実を放棄して虚構まみれの世界を選んだ貧しい男の話なんか面白いわけがないわよ、といった趣旨の難癖をぶっつけ続けてくるのであった。
さらに、S子先生についてちょっとでも華麗な描写を試みると、何が不愉快なのか判らぬがN子は猛然と噛みついてくる。
「あ~っ、分かった!あんたはS子先生が好きなのね、好き、好き、だ~い好き、ねえ、言ってみなさいよ、S子先生、好きです、すっごく好きです、好き好き好きって。ほらっ!S子先生とまっすぐに向かい合って告白して差し上げなさいよっ」
「そんな無礼な真似が出来るか、ばか」
「へ~ぇ?ばか?ばかは誰なの?バカに馬鹿呼ばわりされたくないわね。あんたさ~、世の中を穿ってばかりの貧しい男のくせに、生意気よ。S子先生に憧れるなんて、なまいき!」
こんなだから、さすがに僕もN子にはちょっと辟易し、だから僕なりに確定していた本作のタイトル『初恋オフサイド』は投稿当日まで彼女には秘密に伏せおいたのであった。
<おわり>