新社会人の皆さんに伝えおきたことを、ちらっと記すことにする。
僕なりにここ数年ほぼ同じようなことを考えており、着想も問題意識もほぼ変わっていないので、今回も同じような意思を以てちらっと書き散らす。とはいえ、昨年はモノと観念についての人間なりの捉え方として、無限性と有限性について留意しつつ、創造的な掛け合わせもあれば不幸な割り算(引き算)もあると、まあそんなようなことを記した。
今回はもうちょっと単純に、大人社会で大いに威力を発揮している根元的かつ端的な学術思考、すなわち物理(学)と経済(学)について、ごく簡単な比較をはかりつつ大人社会の不可思議さを ─ まあいいや、ともかくそういうこった。
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物理学はあらゆる物質/物体の運動とそれら仕事/エネルギーの変化と保存則とエントロピー増大を考察対象とし、これらを再現的に捉えて語る。
再現性を語るためにこそ、必ず数学に則っている。
数学が有限が無限かはさておくとして、物理は一応はあらゆる実体の有限性と保存性を記述する ─ ことになっている。
コンピュータプログラムさえも、ブロックチェーンでさえも、電磁波の変化として捉えてみれば物理学の考察対象である。
人間の脳神経も遺伝子もやはり物質なので、物理学のうちにあるのは当然である。
では経済学はといえば、こちらも物質/物体や運動や仕事/エネルギーの変化を捉え、これらについての再現性を語る。
やはり再現性ゆえ、数学に則ってはいる。
それなら物理学そっくりじゃんと納得するかもしれないが、そっくりどころか、おそろしく異なっている。
経済学は人間風の価値と権利を物理よりも上位に据え、それらの需要/供給が増えただの減っただのと分析し、さぁこれは希少なメタルだの貴重なアースだのと誉めそやし、そうかと思えばダーティーなエネルギーだの過剰な仕事だなどと論じている。
さらに、そういう声を反映しつつ信用が高まっただの下がっただのと…。
とりわけ厄介なのは、経済事象のひとつひとつを通貨換算して価値や権利を表象しつつも、当の通貨そのものに価値や権利の絶対尺度が無いというところだ。
要するに、どこまでもその時その場の人間風の価値と権利をとっかえひっかえで、これらが物理の外部に超然的におわしますなのである。
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さて、物理学と経済学は同期をとりうるだろうか?
社会人らしくもうちょっと実践的に論うならば ─ さまざまな物質や仕事/エネルギーの「物理量」と「経済価値/権利」は比例関係にあるだろうか?
物理学に則れば、たとえば過去2000年間において地球の全物質量/全エネルギー量は全くといっていいほど変わっていない ─ ことになっている。
しかし同じ2000年間にて、資産の価値も通貨の価値も、それらの量も、とてつもなく増大しかつ変動してきた。
いったいなぜか?
人間とはそういうものさというのが達観的な答えであろうし、じっさいのところ、経験的な答えもこうならざるをえない。
① 物理学と経済学の差は、上にちらっと書いたように、物質物体の外部に人間風の’価値’を超然させるかしないかだ。
あらためて、’価値’について捉えなおしてみたい。
資産の「価値」には、物理上の絶対尺度も基準も無い。
1クーロンあたりや1電子ボルトあたりの「価値」尺度も基準も無い。
金(gold)1オンスあたりもだ。
あらゆる価値は、あくまで人間がその時その場で好き勝手に決めているにすぎない。
だいいち、データそのものの価値を独占するなどというが、物理に即していえばデータは電磁上の表象でしかないんだぜ、これらの価値とはいったいどういう意味だ?
ましてや、付加’価値’だの、それを見做した上での付加価値税だのと…
ともあれ、物理学には’価値’の観念は無いが、経済学にてはあらゆるモノや仕事に’価値’を設定する。
ここだけ捉えてみても、物理学と経済学は同期をとっておらず、量的な比例関係にない。
② その上で、さらに仕事(生産)において物理学と経済学を比較してみる。
物理学に則れば、あらゆる物体はそれ自体なんらかの「運動」を為しつつ、さまざまな物体が互いに作用/反作用しあい、これら成果の距離を以て「仕事」と称していること、誰もがお分かりのとおり。
仕事は’生産’でもある。
ところが経済学における用語では「仕事(生産)」の定義が分かり難く、どうも察するに何らかの'価値’の付加を以て「仕事(生産)」と見做しているようでもある。
だから経済学によれば、通貨のみをグルグルと回しているだけでも「仕事(生産)」の付加がどんどん増えていく(そしてGDPも増えていく)ように映る。
※ とくに女たちは、生活そのものがこれすべて「仕事(生産)」を為していると信じているようで、だから職場で遊んでいても寝ていてもとにかく通貨を寄越せと。
③ さらに、仕事(生産)とコストについて。
たとえば電気には、電位差克服のために電流に物理上のコストがかかる。
その電位差を克服すれば、物理上の仕事つまり電力を起こしたことになる(発電を為したこしたことになる)。
しかし経済学に則れば、なんぼ電力の仕事を為したところで、カネというコストばかりが発生し、リターンという名の仕事(生産物)はほとんど無いことになっちゃう場合もありうるわけで、そうなるとこの仕事(生産)行為は経済学上の価値はほとんどゼロだ、ナッシングだ。
むかっ腹が立つかもしれないが、これが物理学と経済学の差だ、そして理系と文系の違いといってもよさそうだ。
④ もうちょっと。
AIが、世界中のあらゆる物質と電力とさまざまエネルギーを統一的に制御しつつ、最適プログラムをとことん実行し続けていく ─ としよう。
すると、いずれは全世界のあらゆるハードやソフトやインフラまわりの物理上のコストが最低限まで下がる ─ かもしれない。
では、この偉大なAIとさまざまリソースの経済コストも下がり続けるだろうか?
むしろ、さまざまなリソースとカネの独占的な運用権を主張する連中どもによって、経済コストはバカっ高くなっていくのではないか?
どうだ、なかなか巨視的でエキサイティングな論題だろう。
新卒社会人の諸君は、このくらい巨視的な着想を日頃から弄ぶくらいで丁度いいんだ。
④ 安全保障について。
物理上は、人間にとって危険な物質やエネルギーは確かに在る。
では、経済学に則りつつこれら物質やエネルギーの価値や権利をゆっさゆっさと揺さぶっていれば、わが国はずーっと安泰でいられるのだろうか?
なんだか面倒くさくなったので、このへんでやめておく。
ともあれ、宇宙万物の真理のみからなる物理学と、人間都合の方便で’価値’や’権利’を使いまわす経済学 ─ これらがあらゆる学術思考の二大陣営であり、さまざまな事業や政策の根本ともいえよう。
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(付記)
毎年書いていることだが、仕事における実践的なアドバイスも一つだけしおく。
新人諸君は、なにはさておき、まずはメモ用紙を準備しろ、そして常に携行しろ、見聞きするもの片っ端からメモしまくれ。
チマチマした付箋などはダメだ、大きめの紙を使うんだ、出来ればB5サイズ以上のものだ、広告の裏紙でもなんでもいい。
これくらいのサイズであれば、まとめていろいろ書き記すことが出来るし、いつでもまとめてノート帳として一瞥できよう。
とくに、新規の世界への了察は理科や社会科の新分野学習に等しく、右脳的(絵画的)に物事をズンズン描き続けること必須、だから大きな紙面が望まいのだ。
また、電話番などで取り次いだメッセージもつらつらと書き残し、ビッと引きちぎって上長などに手渡すことが出来る。
一方で、書き損じをしてしまったメモは引きちぎってとっとと捨てるんだ、いちいち名残惜しんでいてはいけない。
以上の機能を同時に果たすべく、B5サイズ以上の紙を常時20枚くらい束ね、これを左上リング綴じの構造にしておけばいい。
これで重要なメモはノートとしてずっと保持し続けつつ、不要な紙はどんどんちぎり捨てることが出来る。
ホントに重宝するから。
もうひとつ付記。
技術仕様から契約書にいたる文書類について、職制を問わずほとんど誰もが実務上拘束されることとなろう。
これらの意義について精緻に了解しておきたい。
口頭による提示や合意ならまだしも、文書によるそれらは諸君らの想像を超えた恐ろしい失態を導きうるものだ。
例えば、同一の商材についての見積書が複数存在する場合、購入希望者はどちらかおのれに有利な方を正当な文書と見做し、それ以外の文書は黙殺すること、当然である。
契約書もしかり。
口頭による提示や合意ならまだしも、文書によるそれらは諸君らの想像を超えた恐ろしい失態を導きうるものだ。
例えば、同一の商材についての見積書が複数存在する場合、購入希望者はどちらかおのれに有利な方を正当な文書と見做し、それ以外の文書は黙殺すること、当然である。
契約書もしかり。
くれぐれも慎重に、ワンアンドオンリーの原則だぞ、ナンバリングと更新日時の明記を絶対に忘れるなよ。
※ 塾業界や風俗関係などであれば、うっかりミスでも土下座くらいで済まされる、かもしれない。
しかし、まともな産業のまともな産品や製品においてはちょっとしたミスのみでも復元不能なほどの大損をもたらす場合も多い。
そんなこと続けていたら多大な賠償を負うのみならず、さらには市場からバカアホ呼ばわりされて信用失墜してしまいかねないぞ。
以上
以上