ところで。
慶雄は軽薄な連中が多いとの言質がいまも根強いようだが、これはどちらかといえば地方出身者に多い性向ではないかと察している。
たとえば、ぼくは〇〇製の自動車をお父さんに買ってもらった、とか、あたしは〇〇のカクテルについてはうるさいのよ、といった類の自慢話をそこいら中で吹いている連中がいる。
こういうのは真の塾生ではない。
なんぼ都会風を気取っていても、気取った眼鏡かけていても、偽物はニセモノだ。
真の塾生というものは、常日頃はこざっぱりとした体であり、食事は質素なおかずばかり、そして静謐な部屋で謙虚に勉強している連中なのである。
自動車ならばその内燃機関や電気制御などについて見識があり、カクテルやワインにしても成分から製法まで熟知しており、それでも自慢気に吹聴したりすることはなく、欲はあまり無くほとんど怒らず、ああ世界は深淵なのだなあといつも静かに笑っている、そういう清風のごとき青年紳士こそが真の塾生なのである。
そしてこういう塾生は内部進学者が多い。
(内部進学者がこういう青年ばかりとは言ってませんよ。)
卒業してからあらためて気づいたが、慶應人こそはじつは日本の物質と精神のよいところだけを組み上げた(あるいは遺し続けた)、真の日本人の姿ではないかと察する。
むしろ早稲田の方が派手好きで、我欲が強く、いつもイラついて怒っており、ケンカになると群れやがって、まあ全国区としての発信力と集客力だけは認めたるが、どうもブレが大きく外れも多いんじゃないかな。
話は前後するが、慶應に入学後、英語の強化クラスに入ることになった。
もともと僕は入学試験では英語の出来が芳しくなかったし、自身の幼少期の育ちにもかかわらず言語勘が高い方はなかったのだが、まあ何らか奇縁のごときが働いたのであろう。
この英語強化クラスは、さまざまなイギリス人講師(アメリカ人もいたかな)による英語での授業が週に2回だか3回だか組まれていた。
さほど学術レベルの高い授業コンテンツは無かったものの、英語という言語の本質というか本性をあらためて知らされ、これは東芝就職後の思考センスの一助とはなった。
それつまり ─ 英語という言語は文法構造そのものが物理式や化学式にそっくりであるというところ(数学そのものには必ずしも似ていないものの)。
たとえば、全体があってこそ部分があり、それら部分の集積が全体を成し、これらがほぼ過不足なく完結しあっているというところであり、じっさい講師たちは雑ではあるがアブストラクトとマトリクスを略地図のごとく総括的にそしてシステマティックに描くことがじつに上手い。
だからこそ英語コミュニケーションにては理系センスと理系ヴォキャブラリが必須であるってことだ。
この由、他の記事にても何度も念押ししてきたことではある。
だが併せて認識出来たことがある。
英語世界は「実体」と「論理」のすり替えが上手い、というより、狡い。
或る自然物についての話題がいつの間にか産品や製品の論題にすり替わっており、さらにそれらが価値の論理にすり替わり、だからカネの論理にすり替わり、これらどこをとっても市場経済システムでございといったところである。
思いつきならまだ楽しめる思考操作ではあるが、上述したように英語の思念はあらゆる全体像と部分要素が強固に完結しあっているためか、彼らイギリス人やアメリカ人はこれら’次元’のすり替えについてほとんど疑念を抱かぬようである。
これまた、東芝入社後に思い知らされたことである(それも、いやっていうほどだ)。
ついでに記しておく。
この英語強化クラスにてあらためて気づかされたのだが、どうも女子はコミュニケーションそのものを楽しんでいるようなのである。
幼馴染のN子からしてそうだったが、だまーーーって考えることが女子にはどうにも耐えきれぬようである。
それでも授業中は一応は慎み深くふるまってはいるが、自身のプレゼンタイムになるとよく喋るわ喋るわ、もともとエピソード記憶型なのかなんだか知らんが、とにかく話が蜘蛛の巣のようにどんどん横展開してゆく。
こうなると、何が論点であり何が論旨であり結論なのか、もうアブストラクトもシステム思考もない。
しかも女子はなまじっか言語勘は高いためか、発音は綺麗だし単語表現は澱みないしで、だから英米人講師たちもどことなく楽しそうであり…
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さりとて。
僕自身、大学在学中にこれといって大きく飛躍させた才覚は無かった。
若干は乱暴な真似もしでかしたが、大した怪我をすることもなく、どちらかといえば漫然と日吉時代を過ごしていたことは否めない。
それでも、ちょっとした技量を習得することは出来た。
ひとつは、上に挙げた英語クラスをきっかけとした英米式のアブストラクト要約力であり、もうひとつは甲賀忍術の流れをくむ特殊能力である。
(つづく)