2012/01/26

【読書メモ】 強国論 ─ 富と覇権の世界史

俗に、古い問題ほど新しい ─ などという逆説めいた真理があります。
古くから残存している問題は、人間の根本的で重大な属性がもたらしてきたものだから、今後もずっと課題たりうる (一方で暫定的な小さな問題はすぐに片付くから、たちまち終わった話となる。)
……というものらしいのですが。

さて、D.S.ランデス著 『強国論』 です。
原題は、”The Wealth and Poverty of Nations – Why Some Are So Rich and Some So Poor”
世界の近現代史において、なぜ強者(富者)と弱者(貧者)が存在し続けてきたのか、その経緯と必然を明示せんとした大作。
著者のランデス氏は西洋経済史における最高峰の見識者とのこと。
日訳版が、三笠書房から2000年頃に発行されています 
─ せいぜい500ページ程度の編集ではあるものの、それでもこのたった1冊が、浅薄な参考書を束ねても到底おいつかない事実検証の数々、そして説得力。

この日訳(総指揮?)は竹中平蔵氏によるもの。
物事の成否は、意思決定にかかる能力と手順とタイミング次第でいくらでも変えることが出来る ─ そのようなことをきっとこの日訳において伝えられたかったのでしょう。
大人のみならず、大学生にも是非とも薦めたい最強の1冊。

なるほど、この 『強国論』は、特に近現代の西欧世界(と日本)という 「強者(富者)が強者となった所以」 を総決算させうるに留まるかもしれません。
世界の近現代史における様々な論理要件を問いかけているようでいて、実は豊かなる者たちの経済的な成功要因の事後分析にかなり絞り込んでいる文脈構成。
退屈といえば、この上なく退屈な。
しかしながら、いや、むしろそれゆえにこそ 『強国論』 は、多様化と不確実化が続く未来の世界像をも予習させうる、経済の巨大な公約数たりうると思うのです。
(日訳をされた竹中氏はもう少し控え目に、本著を「壮大なる知的挑戦状」と評されています。)
もう購入してから10年以上経つのに、いまだにこれほど読み返している本はありません。
予備校で勤務中にも読んでたりして。  

ともあれ、多大なエピソードを交えて濃密に練り上げられた本でして。
仔細に亘りメモってみれば、とんでもない分量になってしまいます。
ゆえに、ここでは特に全編のうち前半2/3までに絞った上で、「強者が強者となった所以」 に注目し、興味深い箇所を僕なりに端折った表現で列記しておきます。

かつ、以下については記述量があまりに少なすぎるため、経緯や見解を理解しがたく、すべて省きました。
・イギリスの18世紀の南海会社のバブル崩壊から大合資会社設立まで、および、19世紀の物価高の時代にいたる企業組織の有限責任化のプロセス。
・19世紀フランスの開発銀行(クレディ・モビリエなど)と、フランスの国庫とナポレオン3世の関わり合い
・19世紀ドイツの開発銀行(デー・バンケンなど)の大兼営戦略と、クルップ家などの巨大な産軍複合体との関わり合い



・ある社会が豊かさを追求する上で、理論上の最適な性質とは:

(1) 生産手段を操作・管理・製造する方法や、最先端の科学技術を開発・改良・会得する方法を知っている
(2) こうした知識や秘訣を、正式な教育課程においてであれ、徒弟制度を通してであれ、若い世代に伝えていくことができる
(3) 能力や相対的な長所によって職業が決まり、昇格や降格は仕事の成果に基づく
(4) 個人や企業に機会を与え、独創力や競争、対抗意識を煽る
(5) 人々が労働や努力の成果を享受し、利用することを許す

・さらに付随要件としては ─
(6) 両性の平等(人材が倍になるから)
(7) 人種・性別・宗教による差別の撤廃
(8) 不合理な呪術や迷信よりも、手段としての科学的合理性や重視される

・これらを活かした上での大目標を促す政治的・社会的規範の一例としては:
(1) 私有財産権の保証、これは倹約や投資を奨励するのに都合がよい
(2) 個人の自由に関する権利の保証、圧政や不正から個人を守る
(3) 明示されたものかどうかに関わらず、契約の権利を重視する
(4) 安定した政治体制、必ずしも民主政体である必要はないが公にされた法治であること、定期的な選挙が約束され、多数派が勝っても敗者の権利を侵害しない
(5) 苦情に対して迅速に救済措置をとる政治体制
(6) 依怙贔屓や高い地位がそのまま超過利潤をもたらすことなく、各メンバーに市場外での利益追求を促すこともないような、公正な政治体制
(7) 穏健で有能で無欲な政治体制、結果として政府は税金を抑制し、社会の剰余資産への要求を縮小し、特権を排除していくことが期待される

・さらなる基本要素として、地理的・社会的な「流動性」が約束されていること
─ ゆえに、たとえ成果に一時的な不平等が生じても所得再分配は公正になされ、かつ再チャレンジがいくらでも可能なこと。
こういった理想に到達した社会のパラダイムが、歴史の方向性を際立たせる。

・所有権の概念は聖書の時代まで遡り、キリスト教が普遍化した。
中世の西ヨーロッパでは、古代ローマの遺産と、ゲルマン民族の法や習慣と、ユダヤ=キリスト教の伝統が相乗した状況にあり、これらが所有権の法制定を導いた。

・さらにキリスト教の特性として、神(聖職者)と皇帝の権威を分立させ、その聖俗間の権力緊張関係がむしろ平民の私有財産の保証を認める結果となった。
権威や権力が分立していたため、ヨーロッパは対外的な脅威にあたっても全滅することはなかった。

・もっとも、聖書はしばらくの間は聖職者が独占してきた。
だが、12世紀のワルド派からさらに後代のウィクリフやルターやカルヴァンを経て、聖書の正統な理解を追求する過程で、所有権(自然権)の正統性もが追求されてきた。

・ヨーロッパ中世の都市に生まれたコミューン(生活共同体)が、市民による自治的な経済運営を活性化させた。
ここでの事業収入はおのおの支配者(領主)からは独立した生産活動によるもの、だがそれが結果的には国全体の統治者の権力基盤強化に貢献した。
そこで、国の統治者と地方の領主は競って有力な市民を奪い合うようになり、却って市民に対し権利や自由や特権を与えていくことになる。

・西暦1000年~1500年の間に、ヨーロッパでは生産・流通・消費の全行程が劇的に進歩した。
地代の貨幣化については言うまでもない。
農法の発明と動物の家畜化に重点がおかれ、エネルギー供給量がかなり増大したため、人間の作業効率も大きく向上した。
とくに家畜の利用は労働効率を高め、余裕の生まれた耕作者たちは共同出資して更に家畜の購入を進めていった。
一方では、ゲルマン人が伝統的に使ってきた犂が、粘土質の土壌をどんどん耕作地に変えた。
(ローマ人がかつて使っていた犂は砂利質の土壌にしか合わなかった。)

・ヨーロッパで人口が増大しはじめると、さらなる耕地拡大のために低地の沼沢の排水を進め、その過程で風車が用いられ、そうやってオランダという新たな耕地も出来た。

・中世都市のギルドは、もともと地方村落の出身者たちが組み上げていったもの。
ゆえに、権力が過度に特定メンバーに集中・増大しないように市場を有限化(ゼロサムゲーム化)し、事業の場所も時間も制限しあい、価格競争も無かった。
この閉塞状況は、皮肉にも都市部ではなくむしろ周辺の郊外で打ち破られていった。
新たな技術者による、新たな品質の新たな製品が、自由闊達な郊外にどんどんもたらされていった結果、都市と郊外の間で、外注化や分業化が展開されることになった。

・農業は労働者に有閑状態をもたらすので、その有閑農民たちが農村部における余剰労働力となり、家内工業が進む。
そこで、商人たちが織物を農村部の家内工業に外注した。
ここに至って、都市のギルドの織物事業の権益がついに脅かされ、イタリア自治都市や北海沿岸では都市部の住民が農村の家内工業を潰してしまった。
このため、イタリアはギルドが残り続け、労働コストの競争は起こらなかった。

・ただし、地方自治が早くから進んでいたイギリスでは、もともと王権がギルドの独占権を認めていなかったため、ギルドの圧力を受けぬまま、低賃金の家内工業の織工へ仕事の委託がどんどん進む一方だった。
こうしてイギリスは、16世紀までにはヨーロッパ最大の毛織物産業の国に生まれ変わる。

・以上の過程において、ヨーロッパの統治者や各領主は有力企業の誘致を競い、また商人たちは投資と支払いを容易にすべく新たな企業形態や契約方式、さらに商業証券や業務提携協定を考案し続けた。
(こういう話が、自由競争経済においてとりわけエキサイティングなところ!)

・アフリカ奥地から地中海沿岸に運ばれてくる金(gold)は、ヨーロッパの商人たちの間で主要な決済手段となり、やがて貿易網の拡大とともに、14世紀の半ばには地中海東部で金本位制が始まっていた。

・サトウキビはインドから、アラビア、地中海、マグレブ地方へと流通され、十字軍をきっかけにヨーロッパ人がギリシアやシチリアやポルトガルに持ち込んだ。
砂糖は薬剤でもあり防腐剤でもあり、中毒性があり、料理の味を誤魔化す効果もあったため、ヨーロッパ人の関心意欲を高めた。

・レコンキスタが完了する遥か以前の14世紀までに、ポルトガルはアゾレス諸島、マディラ諸島、カナリア諸島を発見しており、ここでサトウキビの大プランテーション栽培が始まった。
そこでは奴隷労働が必要であったが、やがて、アラブ人のやり方に倣いつつ、ポルトガルと宗教的な確執も無いアフリカ人を充当するようになった。
こうしてポルトガルはサトウキビで大きな収益を得た。

・コロンブスは新大陸を「発見」して、同じことを考えた ─ ただし奴隷労働には現地のインディオを充てるとして。
もっとも、コロンブスを送り出したスペインは新大陸では収奪のみに徹し、開拓事業には乗り出さなかった。
サトウキビを新大陸に持ち込んだのは、ポルトガル人はもとより、オランダ人。

・やがてイギリス人も新大陸でのサトウキビのプランテーションに着手、イギリスが1655年にジャマイカを獲得したのもそのため、さらに、フランスのハイチ獲得も、同じ。
新大陸の原住民が激減していたため、奴隷労働ではアフリカの黒人が充てられた。
ここに、カリブ諸島と北アメリカとヨーロッパを結ぶ、世界経済史でいう 「大西洋システム」 が発展し、これがイギリスはじめヨーロッパ主要国に利潤と分業と社会構造変革をもたらした ─ ということは疑う余地が無い。

・ポルトガルが送り出したバスコ=ダ=ガマは、インドでのイスラーム商人との通商拡大には失敗した。
しかし、イスラームやインド相手であっても船や銃においてヨーロッパ人の方が優位であること、また、香辛料が莫大な利益をもたらすということをヨーロッパに知らしめた。

・ポルトガルの発展は、ユダヤ人などの知識人に依るところが大きかった。
しかし15世紀末、ローマ教会とスペインの圧力によって、ポルトガルはユダヤ人を迫害し、以降はポルトガルの知的・科学的レベルは下降線をたどっていくことになった。

・神聖ローマ皇帝のカール5世は同時に出身元スペインの王を兼ね、さらにオランダも抑えていた。
そのあとを継いでスペイン王となったフェリペ2世も、オランダに重税を課しつつ、反カトリックの名目で弾圧する。
オランダは1581年に独立を宣言したが、更にそのご30年近くスペインからの独立闘争を続けた。
その過程でオランダ人は戦闘技術を磨きあげた。

・前後して、スペインは1580年にポルトガルを併合したさいにオランダ商船を締め出した。
オランダ人はポルトガルに伝えられた航海技術を活かして、自力で航海することになった。
その結果としてオランダ人は航海術を磨きあげた。

・オランダは東インド会社が大胆にかつ乱暴に、モルッカ諸島、マラッカ、ジャワ、セイロンを収奪し、他ヨーロッパ勢力との戦闘までも展開した。
こうしてオランダ東インド会社はアジアにおいて過度な独占事業を進めたが、その過程で増大する経費もまた東インド会社が独自に強引に捻出したため、次第に収益は悪化。
母国がイギリスと戦争を始めると、オランダ東インド会社はさらに凋落。
ついにオランダ本国に接収される。

・強力な事業推進を一貫してきたオランダ東インド会社と比べると、イギリスは航海ごとの出資者を募る方式をとっていたため投資の規模が小さく、総合力で非力であった。
このためイギリスはオランダ東インド会社との競合を諦めて、インドに向かった。
そのインドの綿織物が、ヨーロッパにおける衣服を革命的に変え、巨大な需要をもたらし、イギリスは大きな収益をあげた。

・一方で、胡椒の価格は産地拡大とともに下落、清の遷界令や日本の鎖国でによって銀の流通もとまり、世界経済は17世紀にいったん「破綻」してしまう。
しかし、イギリスには関係なかった。

・イギリスの東インド会社は、莫大な労働力と剰余金がうごめくインドに長期的に根差し、政治的な介入をどんどん進め、1757年のプラッシーの戦いの結果として莫大な賠償金を獲得。
こうしてインドの経済的な支配に成功した。

・マックス=ヴェーバーが著わした 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は多くの批評や非難に晒され続けてきた。
プロテスタンティズム(特にカルヴァン主義)は事業者が商売で成功するための倫理価値を本源的に定めている、というのがこの著作の主旨。
これに対し、唯物論者は「宗教が経済的合理性の動機付けとなることなどない」と否定し、また歴史学者からも 「宗教改革は勤労に独自の宗教的な権威付けをしたにすぎなかった」 などと、やはり否定する声があがってきた。

・現実には、貿易や銀行業や製造業で近代以降の牽引力となったのは、”合理的で規則正しく勤勉な”プロテスタントの商人と製造業者である。
プロテスタントの属性として注目すべきは ─ 
少年たちのみならず少女たちの読み書きの必要性をも説いたこと(だから母親たちが読み書きが出来るようになった)、また、時計を普及させ時間観念の重要性をひろく知らしめたこと、さらに、知識や経験の継続と確保をもたらして固定資本を形成させたこと。

・あらためて、ヨーロッパが産業革命に成功した理由は、以下の3つ。
(1) 知識の探求が自律的に行われるようになり、その際限が撤廃されていたこと
(2) 学術上の様々な約束事がヨーロッパを通じて科学的に統一され、また現実が「数量化」されていったこと
(3) 発明という概念によって、研究とその普及が一般化され、また人的交流が自由で学会サロンや雑誌発刊などが盛り上がっていったこと

・産業革命の最初のインパクトは、紡績と織機の機械化、それから蒸気機関の採用による自動化。
もともとヨーロッパの繊維産業といえば、14世紀以降のイタリアの絹織物が花形産業であり、絹織物の生産には水力による機械化も進められていた。
そこでしばらくの間、他国はこの絹織物の生産技術を盗み続けた。
しかしながら絹は高価で、顧客筋も限られていたため、大量生産と自動化をもたらすことはなかった。

・一方で、毛織物と綿織物は一般需要が極めて大きかったため、紡績機械の改良による大量生産が図られた。
ただ、毛糸は紡績機に向かず、かつ毛織物の労働者の権益が強すぎたため、毛織物産業も大産業に成長することはなかった。
以上から、綿織物こそが綿糸紡績の大いなる改良を生みだしつつ、産業革命の起爆剤となっていったのである。

・真空や気圧の実践的な研究は、16世紀から既に取り組まれており、ワットも独自に試行錯誤を続け、18世紀後半にはきわめて実践的な蒸気機関をつくりあげていた。
それは、カルノーらによる熱力学の法則が確立する半世紀以上も前のことだった。
企業家・発明家の精神性の凄さ。

・もちろん、産業革命時に大きく進歩した産業分野は、紡績と繊維だけではない。
冶金においては、金属板の製造が打ち延ばしからローラーによる圧延にかわり、針金の製造が可能となり、穿孔にドリルが使われるようになった。
精度測定技術が飛躍的に向上し、固定目盛が使われるようになった。
反復駆動を行う機械を多様な部品と組み合わせることで、時計や銃器や錠前などの大量生産を可能とした。

・イングランドでは、中世から近代初期にかけて、農業と流通も既に商業化/市場化がかなり進行しており、作物栽培の研究論文も行き交い、さらに18世紀までには土地の囲い込みによる農業の資本主義化と農民放逐(労働者の流動化)も進んでいた。
くわえて、王権が各地方にまで徹底されることはなく、土地の鉱物資源はその土地の所有者のものであった。

・そんなイングランドで産業革命が本格化していった積極的な理由として、製造事業者と労働者の間の絶妙の緊張関係があげられる。
伝統的に地方分立行政であったイングランドでは、同時に地理的な分断もあり、製造事業者は各地方の家内工業の労働者に一括した下請発注が出来なかった。
逆に、各地方の家内工業労働者は、独自の資材調達と製品化のネットワークを巧みに活用しつつ、製造事業者との賃金交渉でもうまく立ち回って、私腹を肥やし続けていた。
それでも、家内工業は管理コストのほとんどが労働者負担だったため、製造事業者からは放置され続けた。

・やがてイングランドでは、これらの地方の労働者を強引に一か所の大きな工場に集めて働かせるメリットが生まれる。
それが、大工場での熱を利用した生産技術の導入(洗浄やガラス製造や鉄製造など)、および動力機械の導入であった。
この結果、熱源を集中しつつ、低コスト、大量生産、そして高利益をもたらす大工場の時代がはじまり、一方で家内工業はどんどん廃れていった。

・以上の過程で注目すべきは、イングランドでの大工場化は製造事業者と労働者の拮抗の結果であったこと。
これに対して、大陸ヨーロッパでは政府主導でどんどん補助金を出資して大工場の運営を図っていった。

・イギリスが綿織物で大きな収益をあげ始めていたころ、フランスは革命によって政府がブルボン王家の資産を没収し、各領地を押さえて全国民経済のコントロールをはかり、ゆえに自由な競争が停滞した。
さらに化石燃料が希少=高価で輸送ルートが貧弱だったことも、フランスの停滞の要因となっていた。
ただし、それまで国内の諸候や自治体が人の移動時に勝手に課していた通行料は、フランス革命で払拭されることになった。

・ドイツ諸国はフランスに対抗するため、プロイセンが1809年に農奴を解放するなど労働者の自由化を進めていったが、一方では伝統的な世襲制も根強かったため、産業化推進のための土地の有効活用や労働者の流動化において後れをとった。

・またドイツは中世以来、とてつもない数の地方領主たちや自治体が人やモノの移動に通行料や関税を複雑に課し、それぞれ税収を都合よく確保していた。
ナポレオン戦争後にライン川沿岸の輸送は無料となり、さらに1834年の関税同盟でやっとドイツのほとんどの諸邦が相互の税障壁を払拭し、経済的な統一へむかう。

・ロシアは中世以来、領主が運用する土地が広大過ぎるため労働力が慢性的に不足、ゆえに農民を農奴として土地に縛りつけることが恒常化していた。
一方では、労働者たちの自由な流動性と就職を可能とする都市もほとんど無かった。

・ロシアで機械化・工業化がおこっても、広大な土地ゆえ製品の輸送コストが高く、それでも生産性を確保するためには一層多くの労働者による大量生産しかなかった。
そこでアレクサンドル2世によって農奴が解放されるに至ったが、産業も市場も貧弱なままであったため、新たな労働者たちは皆が豊かになったわけではない。

・1951年にガーシェンクロンが著わした論文『歴史的観点からみた経済的遅延性』は、資本も技術力も乏しい遅れた国々がどうすれば先進国の知識やノウハウを獲得できるか、を分析している。
まず前提として、経済発展はどの国・地域でも単線的に進み、だからたとえ遅れた国でも知識と実践次第では必ず先進国を追いつくことが出来る、とする。
かつ、そのキャッチアップの過程で遅れた国は先進国の失敗も学びつつこれを回避するから、先進国以上のスピードで経済成長する、としている。
遅れた国は、たとえ労働コストが安くてもどうせ生産技術そのものが低いのだから、思いきって先進国の先端技術にどんどん投資・導入を図ったほうがマシだと。

・ガーシェンクロンが特に強調しているのは 「資本の流動化」 であり、私有財産と資金がどの程度銀行に余裕を与えているか、あるいは逆にどれだけ貧弱で政府に依存しているか、によって先進経済国と途上国を分類した。

・1830年を過ぎると、ヨーロッパでは鉄道、運河、道路、橋などの大インフラ投資が必須となり、そのため景気後退や信用不安に簡単には屈しない金融システムが求められる。
物件ごとの信用貸しから、ロスチャイルドなど巨大資本によるインフラ投資へ、あるいは開発銀行の設立による国内資本の収斂など。

・イギリスは、国ではなく大資本家によってスエズ運河開削などの巨大投資がなされた。
なお、アメリカの大陸横断鉄道も大資本家が出資したもので、国が資本投下したものではない。

・19世紀中盤以降、イギリスの産業分野での独走が終わるが、それにはフランスやドイツが拡大させていった学校教育の成果があげられる。
これら大陸の学校教育はイギリス経験主義とは異なり、理論教育を進め、科学理論そのものが重大な新技術を生みだす時代局面を導くことになる。
つまり、有機化学と電気である。
資源、財力、権力はすべて価値を奪われ、知性が物質の上に君臨するようになった。

・俗にいう経済の 「ステープル=セオリー」 は、製造の拡大が消費拡大と余剰資本をうみ、その余剰資本が更なる製造投資はもとより、将来性の高い産業分野への先行投資も可能にするというもの。
つまり、投資がどれだけ有為になされるかが経済発展の可能性を決定する問題となるが、この観点からアメリカを捉えると、経済の大回転をもたらしたには条件が整っている。

・アメリカは独立前後の頃までは穀物生産の余剰が少なく、小作農労働力も極めて希少で、けして贅沢な再投資はなされず、そうさせる王も領主もいなかった。
土地がただ同然に安かったため、製品価格の多くは製造労働者に還元され、賃金はイギリス本国よりも高かったが、その高い利潤は輸入購買のみに費やされることはなく、自身が国際的に比較優位に立ち得る製造業への投資に向かった。
イギリス本国の単なる下請けに留まらず、様々な産業規制にも関わらず独自に製造業を着実に発展させていった。
こうして、アメリカでは民主主義と起業意欲が育まれた。

・さらに、製造事業者の社会階層の差異が小さく、かつ労働者が圧倒的に希少であるため、工業の共有化(つまり規格化)と分業化を徹底し ─ いわゆるアメリカ型生産方式 ─ アメリカ製造業の急速な機械化や技術革新を可能にした。
同じく広大な土地で労働者が希少であったロシアと決定的に異なる点は、アメリカには強大な権力を独占した皇帝も領主さまも存在しなかったこと。
とくに武器製造においては、アメリカは独立前から需要増大に応じた製造分業化が進んでいた。

・アメリカは元来から、港湾に適した海岸線、大物流に優位な大河川に恵まれている。
しかも、19世紀には、綿の生育に最適な気候、鉄の冶金にうってつけの鉱石埋蔵量、また木材や石炭や水力を活かし、ありあまる資源はどんどん活用されるようになった。

・こうして、製造業の生産性(投資効率)においてアメリカは19世紀に入るとイギリスを追いぬいていた。
かつ、製造業において北部諸州が南部諸州を遥かに凌駕しており、これが南北戦争の勝敗を決定づけた。
さらに、埋蔵量の豊富な石油や銅が、19世紀後半以降は戦略的に重大な資源となった。

・アメリカでは、生産性重視のための工業技術の転用が、さらなる新たな工業を生みつつ、古くて非効率な産業技術は容赦なく切り捨てられ、それを抑制する伝統文化社会も無かった。
農業の機械化もどんどん進行し、これが製造業とともに大胆な西部開拓を可能とした。
こうして人口が増え、移民も増え、第一次大戦が終わるころには大量消費社会へと向かっていく。

・江戸時代の日本がヨーロッパより有利であった点。
250年以上戦争も革命もなかった、低コストの水上輸送が充実していた、単一の言語と文化を共有していた、商業規制の撤廃が続いた、共通した商人倫理があった。

・江戸時代の日本は、近代初頭のヨーロッパに極めて似た状況にあった。
政治権力の分立、大名によるインフラ投資、耕作地の大拡大や農作物の品種改良、藩同士の産業競争、養蚕や砂糖や甘藷ほか特産物の育成。
しかも、市場の分立が恒常的であるヨーロッパと比べ、行動範囲の比較的狭い日本では特定の権力が独占権益を保持しにくく、藩同士の市場競争が機能していた。

・また江戸時代の日本では、商人が権力者の庇護を受けつつ、倫理意識を高めていった。
商人の倫理は、富そのものではなく労働への献身を鍵としたものであり、それはヨーロッパのプロテスタンティズムと通じるものだった。
そして労働観と勤労習慣の普及を日本中にもたらした。

・江戸時代の参勤交代は都市部と田舎を連結させ、産品の販売を増やし、資金流動と為替取引を活性化させ、それがまた産品の製造を導く効果があった。
また日本人は正直であるため、都市と田舎を結ぶ信用販売も進歩した。
江戸は18世紀には人口と商業規模も拡大し、世界最大の都市となった。

・江戸時代以降の日本に綿や麻が普及すると、たちまち庶民の巨大な需要を喚起した。
これらは同業者による都市での生産から始まったが、やがて地方の独立工場や家内制工場と拮抗し、そのうち賃金の安い農村部での集団生産に至る。
この経緯もヨーロッパにそっくり。

・欧米列強に開国し、日本の既存の製造業は欧米の機械に敗れたが、綿の工場網と熟練工はうまく機能し、機械化による綿紡績(つまり産業革命)を成功させていく。
やがて、20世紀に入る頃には日本の綿紡績は世界有数のものとなった。

・日本で最初にアーク灯がついたのは1878年。
やがて旧公家や実業家や商人が企業家連合を結成、東京電灯が設立された。
最初は工場や造船所などの電力供給機関であったが、すぐに一般家庭への給電も始め、電力会社の数は33にまで増えた。1920年になると、日本の製造業の動力源の過半が電力となっていたが、この頃のアメリカやイギリスでさえも動力源の電力化は30パーセント前後に過ぎなかった。


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ざっとここまでで、本編の2/3くらいからとくに興味を惹かれた箇所を抜粋メモしました。

残りの部分においては、ヨーロッパが総じて弱体化した理由、途上国の途上国たる所以、市場と国家の相克など、かなり普遍的な多くの議論が紹介されています。
それはそれで大変に読み応えのあるものなのですが、ここではもう思いきって著者ランデス氏が最後に総括されている文明論を総括して記すに留めます。

・西洋中心主義は間違っているとしつつ、いわゆる文化相対主義=世界主義に則った楽観論や悲観論を展開する人々がいる。
国際競争を通じ、世界は遅かれ早かれみなが均質の豊かさを享受するはずだ、という人々がいる。
だが実際には ─
文化は民族によっても地域によっても異なり、ゆえに経済上の国際競争のみで皆が均一に豊かになることは有り得ない。
同じ貿易をしても、知識と技能次第で生産的な効果をもたらす場合もあれば、そうでない場合もある。
人材の(雇用の)輸出入は、製品の輸出入と異なり、その成果は文化的な影響を多分に受ける。
経済における相対的な有利性は永続しない。
市場の発するシグナルにどう対処するかは、文化によって異なる。
作るよりも奪う方が簡単だ、という誘惑に打ち勝つためには道徳心の鍛錬が必要。

以上

2012/01/15

2012 大学入試センター試験についての所感


大学受験のファンの1人として、今回のセンター試験についても我流の講評をちょっとだけ。 

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まず。
毎年思うんだけど、大手予備校のサイトを拝見しても具体的な講評がいまだに載っていないのが不思議。
既に試験が終わって、もう一昼夜経っているんだよ。
まだ受験生たちの体験記憶がフレッシュなうちに解説したるのが教育関係者のマナーでしょうに。 


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さて。
知力を最も正直に反映させている(に違いない)現代文。

あらかじめ、現代文の出題タイプを僕なりに勝手に大別している。
まず、文面に輻輳する「論理」の峻別力を求めるものがある。
一方では、文中に散りばめられた「メッセージ」の合成力を求めるものがある。
前者については、理科系の大半はもとより、文科系でも法学部あたりで必須の課題だと、これも勝手に想定している。
もちろん後者にしても、高度な想像力のフル稼働が必須の課題。 

センター試験の現代文こそは、これら両方の素養を問う出題が図られ続けてきたと思う。
とはいえ、マークシート形式の出題ゆえ、どうしても前者を問いかける出題の方が作成しやすいのでは。
後者の素養を求める場合、受験者の十人十色の着想が動員されうるため、比較的少人数を選抜する段においての記述解答方式が必須ではないか。 

(以上は、じつは現代文だけではなく、英語でも同じである。
が、センター試験の英語では、大学進学希望者に本気で知力を動員させるようなものは出題されていない。) 

昨日の現代文で出題された【第1問】だが、やはり「論理の峻別力」を踏みこんで問いかけるもの。
つまり、マークシート選択型にフィットしたもの。
だが、こんかいは例年以上に複雑な構造の読解文だった。
それでも僕なりに、ものすごく簡単にまとめると ─ 

・生物の個体、あるいはその集合体は、どちらも、まわりの環境諸要素の集積と同質同量といえる
・だから、生物は自身の内部環境と外部環境の境界を設定できない
・あらゆる生物のうち、人間だけは自身と集合体の差異までも認識し、別個に行動出来る
・だから人間だけが、生物=環境の前に「自我境界」を設けてしまいがちである 

この程度の大雑把な論理峻別が出来た受験生ならば、苦もなく正答出来たんじゃないかしら。
論理峻別さえ出来れば、正解選択そのものは物凄く簡単。
正確に言葉を追っていけば外すことは無い。 


同じ現代文の【第2問】は、なんだか読む気が起こらないので、無視。


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つぎに、もっとも思い入れのある世界史の出題について。 

【第1問】の出題における引用文(前漢初期の墓云々)と各問に直接の関係がない。
なんでこんな引用文を読ませるのか分からない。 

【第2問】の問3
『日ソ共同宣言が出された後、日本は国際連​合に加盟した』という選択肢があった。
これが正解となり、確かに時系列上は間違いではないんだけどさぁ​。
どうもこの設問は気に入らない。
だって、日ソ共同宣言そのものが日本の国連加盟要件となったわけ​じゃないんだよね。
敗戦国である日本が、戦勝国の連合である国連に加盟できたのは、​あくまで(この共同宣言の直後の)国連総会で全会一致で認めて頂​いたから。
このように、原因・結果は正確な段をふんで学生たちに理解させるべ​き。
だからこの設問は「いい加減なものだと言いたい。

だが、同じ【第2問】の問7。
これは惚れ惚れするような素晴らしい出題で、中越戦争がソ連(およびヴェトナム)と中国との衝突であったことを想起させつつ時系列を問うもの。
こういうのをどんどん出題すれば、複数の中途半端な先生によるバラバラな指導では太刀打ちできなくなる。
だから、一貫した論拠を有する人たちによる歴史教育が進む。
で、必然的に現代史が増える。
現代史をもっと教えろ、もっと出題しろ、という巷間の声は、つまり論拠一貫した歴史教育をしろと言っているのに同じ。
 

【第3問】の問3。
(漢の武帝が)「物価対策などのために均輸・平準法を施行した」、という選択肢を選ばせるもの。
間違いではないが、物価対策のためのみならず、市場拡大と税収拡大のためでもあったのだから、誤解のないように解説して欲しい。 


【第4問】の出題文A。
『……朝鮮固有のハングル文字と朝鮮語は朝鮮では公用文に採用され、この言文一致体の施策が朝鮮の近代化の媒体だった。だがこのような動きは、日本統治期には危険視された』

これは本当ですか!?
むしろ、日本との併合期に朝鮮総督府によってハングル語教育が普及したのでは?
真相については意見が割れているようだけど、少なくとも一方的に日本を悪者扱いの出題文はよろしくないでしょう? 

同じ【第4問】の問9。
アフリカ統一機構とアフリカ連合について。
センター試験にしてはずば抜けた難問だと思う。
だってサハラ以南のアフリカについての歴史的事実そのものが、ほとんど教えられていないでしょう。
AUというのは、その「ほとんど知らないアフリカ」の一つの終結点なんだから、これは難しいよね。
これがサラッと分かった子は地理や政経でもかなり良い点を取れたはず。


以上

2012/01/14

成人式2012

成人式について、ふっと思うところを書くと ─

たとえば今から70年前の日本は、対米英の戦争、軍部独裁政治、スパイ工作、企業抑圧、情報歪曲、買収、配給、伝染病、身売りなどが当たり前の時代。

これらについては、明らかに現代とは異なった状況にあった。
(もちろん何もかもが間違いだったというわけではない)

さて。
仮に今の20歳の青年を、その70年前にタイムスリップさせたら、どうなるか。
もちろんその子は、 「あっ」 と言う間にその70年前に適合した青年になっているはず。
 
理由はすさまじく簡単で、たかだか20年くらいでは独立した人生観など無いから。
特攻隊に志願しろと言われりゃ、志願する青年だってたくさん居ると思う。
集団自決しろと言われりゃそうするだろう。
米軍に捕まったらどうせ拷問されて軍事機密を喋らされる、そうなる前に死んでこい、と言われればそうするだろう。

ここで、同じことを、50歳についても考えてみる。
もし今の50歳をつかまえて、やはり同じ70年前にタイムスリップさせる。
すると50歳の多くは、何もかもが違い過ぎる世界において、発狂するに違いない。

20歳の青年では、(一部の早熟な職業人を除いて) ほとんどが 「消費者」 でしかない。
消費者なんだから自分でアイデアを捻出し、試行錯誤に励むことがない。
信賞必罰に晒されることもない。
だからみんな同じ、学力知識など関係無し。

ところが、50歳のオッサン&オバハンの多くは、いかなる職種に就いていようと、あるいは家事労働に勤しもうと、なんらかの「供給者」 。
だから、とてつもなく個性が確立してしまっている。
世代ごとの変化も物凄く大きく、異業種との適合能力はどんどん無くなっている。

鉄は熱いうちに……という。
そのとおりで、なんらかの「供給者」 となってしまったら、もう異業種への簡単な転向など出来ない。
だが、まだ「供給者」 となっていない若い世代は、鍛え方次第ではどんな「供給者」 にでもなれる。
いや、自分で勝手に新たな 「供給者」 となって行く場合も多い。


日本の20歳の青年たちに言いたい。
疲れ果てたこの世界が、君たちを見ているぞ、世界が君たちを待っているぞ。
いつまでも誰かの「消費者」 に留まることなく、あたらしい市場をつくっていって欲しい。
どうせ先に消えていくオッサン&オバハンの言うことなど、すでに過去なんだから、そんなもんいちいち迎合しなくてもいいから。
君たちはもっと貪欲にあたらしい世界をつくれ。



2012/01/13

巻き戻し、早送り

17世紀のなかば、英国では、かのニュートンとほぼ同時代に活躍した、近代哲学のパイオニア、フランシス・ベーコン。
彼は帰納法タイプの合理論を近代的に確立したとされる。
観察と実践から、一般法則へ帰着する、という考え。

一方、やや遅れてフランスでは、「われ思うゆえに我あり」と真理探究をすすめた、思想の英雄こと、デカルト。
こちらは、数学的な論証に基づいて、演繹法タイプの合理論をうちたてる。

もちろん近代哲学は、そのご、カントやヒュームやダーウィンたちが、もっともっと超然と、かつ大胆に、そして時間そのものまで疑いながら立体的に発展(あるいは拡散)させていった。

現実をみる。
ある国は富み、ある国はいつまでも飢えている。
ある国は、いつも戦争に勝ち、ある国はいつも負ける。
権力集中と資産配分だけで数千年間も過ごしてきた、平地移動型かつ資本重視型の民族がいる。
分業と専門化によって独自の創造型文明を構築してきた、山や海のハードウェア型民族もいる。

ある企業はどんどん好き勝手に発展し、ある企業はいつまでも大企業や政党の顔色ばかりうかがっている。

帰納法の着想から入れば ─
すべての事実は偶然の最適化の結果、その数字も偶然のデータ、それを再投資に生かす知性もまた同じということじゃないのか。

でも、演繹法から類推していけば ─
何もかも必然の要素のガチンガチンのかたまり、その必然が数字にあらわれ、文言と化し、それらが必然的な経緯で必然的に連続し……となるのか。

かたや。
生物進化は、すべて偶然で、適者生存もあくまでその時その時の偶然、という見方があるそうな。
もし、地球の生命誕生まで時間を「巻き戻し」すれば、次は全然違う進化展開になるらしい。

こなた。
進化も適者生存もすべて、生命の共通の「もと」が、地球上という限定環境における限定的な相互作用として、必然展開してるに過ぎない、というそうな。
よって何回「巻き戻し」をしても、われわれの肉体も知性もいまと全く同じはず、とな。

これ、実はまさにダーウィン生誕200周年を経過した現在、あらためて哲学論争の着想ベースとなっているようで。
確か数年前の The Economist の巻頭記事になっていたような。
(そういえばちょっと前の早稲田政経の英語でも、この両者の対峙についての論文が出てきたような…。)


さて。
ただの人、としての所感。

われわれの寿命はあまりにも短いので、「数学的な演繹による真理」の正誤を完結した知力のみで確認することなど「できない」ような気がする。
なるほど、個々の法制度や政策や経済理論や数学についてならば、極めて短期的には普遍の真理を合理的にガチガチッと組み上げていけるのだろう。
(だから、そういう分野の人たちは僕のような普通の市場人とは根本的に着想が異なっている - ように思われて仕方がない。)

しかしそこからは、永遠の真理命題は導かれないんじゃないのかな。
頭脳(情報)のイマジナリーな領域だけを広げすぎたところが、人間の生きている間のハピネス感覚でもあり、だからこそ、生命としては不幸だともいえる。
そこんところが、「バカの壁」 のこっち、むこう、どっちか。

以上

【読書メモ】 日本は「侵略国家」ではない

※ 本書著者の田母神氏が2014年の東京都知事選から東京都知事選に至る選挙活動中の経緯にて、氏の事務所関係者が政治資金の不正横領を行っていたことが判り、2015年以降の氏の政治活動の動向が注目されている。
ただ、言い方は悪いが「たかが数千万円」のことであり、国政の抜本的な在りように挑み続けてきた巨大スケールの同氏としては、あまりにも寂しい事態顛末ではある。
なお以下の読書メモは、本件には委細かかわりなく記す。
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『 日本は「侵略国家」ではない!』  (海竜社刊) 
著者は、前・航空幕僚長の、かの田母神俊雄さんと、知的生活をすすめる最強政治哲学者こと、渡部昇一さん。
このお二方が、互いに手記やコメントを書き綴りながら展開する、まさに義憤と知性の火花散るコラボレーション。
3年前の年初に書店に並ぶや否や、大論争を巻き起こしましたね。
もちろんこの論争は、まだ終わっていません。 
以下、全てが事実と観察による一般考察であることを信用して、ちょっとだけ抜粋します。



・政府は、とくに非自民党系は、いわゆる「村山談話」を唯一無二の政府方針とし、それ以外を「全否定」している。
思想・信条の自由にたいする明らかな攻撃である。
憲法違反じゃないか。
これで民主国家といえるのか?

・東京裁判とは、不法な司法行為であり、これは世界の常識である。
そもそも、マッカーサー条例という「事後法(遡及処罰)」 にて人間を裁いた。
しかし事後法による処罰は、行為当事者の利益となる場合を別として、原則禁止である。

具体的にいえば、第二次大戦以前には、「国家機関として実行した行為については、実行者は免責される」とされていた。
しかし、戦争が実際に終わったのちの東京裁判で、あとから出てきたマッカーサー条例によって日本の指導者の刑事責任がとわれ、従前の免責ルールは無視された。
(もちろんこれによって行為者の利益が増進されたわけがない。)

・そもそも東京裁判で裁いたのは、日本を侵略戦争に誘導した「個人」=いわゆる戦犯にすぎず、日本そのものを裁いたわけではない
─ と、キーナン首席検察官も宣言している。
で、なんで我々が謝罪しなきゃいかんのだ?

・ドイツの戦争犯罪をおかしたのは、あくまでナチ党員とされ、ドイツ軍は国際法では裁かれなかった。

・国際法において、戦争とは外交手段の一環であると解釈される。
ゆえに、戦争において当事者の一方だけが裁かれるということは、論理的におかしい。
神聖ローマ帝国を舞台とした宗派闘争、およびハプスブルグ諸国とフランスの便乗介入が、30年戦争をまねいた。
それを片づけたのがウェストファリア条約。
これが国際紛争解決の基礎となり、そのごヨーロッパの国際戦争においては、当事者一方だけを裁いた事例はない。

・マッカーサーは、1951年のアメリカ上院の軍事外交にかんする委員会にて、「日本は自国の安全保障のために戦争をした」 と証言している。

・サンフランシスコ講和条約にさいして、日本には、英米との単独講和を強硬に反対する勢力があった。
たとえば、東大総長の南原繁はスターリンの指示をうけ、「日本が独立回復の条約を結ぶためにはソヴィエトや同盟国も一緒じゃないといやだ」、と主張している。
社会党も、英米との単独講和に反対した。
ソヴィエトに攻撃されたらどうするんだ、と。

なお、次の東大総長の矢内原忠雄は、戦前に、「神よ、日本を滅ぼしたまえ」などと

・A級戦犯とされた重光葵が死去したとき、国連は黙祷をささげた。
重光は日本の国連復帰に大変に尽力をした、外務省のエース。

・その同じ外務省の小和田央が、1985年の衆院の外務委員会において、「日本が悪かった」 という侵略史観をぶちあげた。
彼は、「東京裁判有効説」 をとる横田喜三郎に東大で教わっている。
これが現代まで続く「村山談話」の元ネタらしい。

・太平洋戦争にさいし、アメリカ側が最後通告として突き付けてきた「ハル・ノート」 。
これは、コミンテルンの手先であったホワイトが起草し、さらに蒋介石が無理難題を織り込んだもの。
日本を対米戦争に引きずり込むための、陰謀。
なお、ホワイトはのちにFBI にスパイ容疑で挙げられ、自殺している。

・張作霖の爆殺事件は、ソヴィエトの手先が起こしたもの。
現在のロシアで、よく報道されている。
また、事件直後に調査にやってきた英リットン卿は、神秘的な事件で真相は分からないと言った。
リットンを派遣した国際連盟は、当時、きわめて反日的だったが、それでもリットンは日本の犯行だとは言わなかった。

・盧溝橋事件は、直後に日中間で停戦合意が結ばれている。
それどころか、当時の中国共産党スパイの証言によれば、「あれは日本を大陸の戦争に引きずり込むための工作だった。」
なぜ、日本の侵略的軍事行動だったなどといえるのか。

・そもそも、文民統制(シビリアン・コントロール)」とは一般に誤解されやすい理念である。
文民統制とは、国際的な紛争にまきこまれたさいに、軍ではなく政治が最終決定するというルール。

だからこそ、戦争のリアリストである軍部より、むしろ政治の側の発狂状態によって、戦争が取り返しのつかない事態におちいることがある。
その例が、日中戦争。
軍部の実戦的分析と戦争反対論を無視し、政権の体裁のために暴走したあげくのことだった。
また、ヒトラーという「文民」の発狂的暴走に振り回されたドイツ軍部の戦争も、おなじ。
さらに、中国共産党という「文民」が人民解放軍をふりまわし、天安門事件がおこった。

・現在の自衛隊は、実に精強かつ、すぐれた分析力と実践力をもっているが、自衛隊はあくまで、防衛省の内部局という「文官」の下に位置づけられている(2009年時点)。
さらにその上に、政治局という「文官」の組織がある。
自衛隊がかりに北朝鮮拉致被害者の救出作戦を考えたとしても、「文官」によって一方的に否定されてしまう。

・ 石破茂は、防衛大臣だったころ、「靖国神社は参拝しません」「大東亜戦争は日本の侵略戦争」 「従軍慰安婦はあった」 「南京大虐殺は事実だ」 と語っている。
でも、なんのお咎めもない。
一方、「日本は侵略戦争をしていない」と論文に書いた田母神(元)幕僚長は退職させられた。


以上

【読書メモ】 環境・食料・エネルギー

昨年の東日本大震災で、とっさに引っ張り出した本があります。
一昨年に購入した、PHP親書の 『本質を見抜く力 ─ 環境・食料・エネルギー』 という本で、養老孟司/竹村公太郎 両氏が著者としてまとめられたもの。
あらためて読み返してみました。
簡単に読みこなせる文明の解説本としては、『日本文明77の謎』 とともに最高の1冊に挙げておきたいですね。
徹底的に自然科学に立脚しての事実分析・解説。
あらゆる学術分野の思考の根本たるべきテキストだと思います。 



                                                        ☆     
 

・自然そのものは、閉ざされた全体そのものであり、常に安定を求める。
ある地域で「何か」が増えれば、自然全体として安定性が大きく崩れるが、全体はあくまで中立に復元しようとするため、別の地域ではその「何か」が減っていく。


・ある地域住民の得は、別の住民の損。
たとえば、地球温暖化が 「本当に」 進めばロシアやカナダなどは有利になるが、もちろん温暖化に脅かされる国家民族だって多い。
自然環境が全体として閉ざされた系であり、ゼロ=サムである以上、そこに依存した人間の利益も全体としては 「収穫逓減」 となる。
個々の民族間、住民間では利害得失が異なるから、合意の基準など設定のしようがなく、自然全体を鑑みた 「臨界点」 を求めるしかない。 


・発電所や自動車の設計・製造において、炭酸ガス削減にもっとも貢献しているのは日本。
ところが、アメリカと同じ土俵で削減努力目標を設定させされている。 


・現在の日本の食糧自給率は40%程度だと、よく問題視される。
しかしこれは実は、「日本人に不必要なほどカロリーの高い輸入食材」までを全部ひっくるめて
いわば 「日本に存在する全食材カロリーの合計」 における日本人自身のカロリー自給率である。
こんな計算をすれば、日本の自給率はどうしても小さくなる。 


・日本の本当の食糧自給率は、日本人のほとんどが普通に必要な食材の 「購入価格」 と 「輸入食材の価格」 の比率から算出されるべきである。
そうすると日本の自給率は70%以上にもなる。
このような数字のすり替えは、1995年以降に農水行政官僚が国民の危機感を煽るため (そうやって役所で仕事と報酬をたくさんもらうため) になされたもの。


・日本人の栄養摂取の最大の問題はタンパク源と脂質、これらは元来は漁業への依存度が高かった。
ところが、近年は環境の悪化のためか、生態系が縮小し、大型種の魚が相対的に減っている。
生態系を人為的に復元するのは、もちろん生半可なことではないし、常識で考えても人間だけでどうこう出来るものでもない。
 

                              ☆             ☆ 

・生物科は、ただ単に生物の研究をしているだけではない。
生物種の分布状況を分析することにより、以下のことを再確認できる。 


たとえば、ヒマラヤでは高度4000メートルの地帯にも虫がいる。
ヒマラヤ山脈は7千万年も前に、もともとアフリカ大陸から離れたインド(島)がユーラシア大陸にドスンとぶつかって隆起したのがおこり。
このようにあまりにも古いので、生物が高地型に進化し、独自の系となってしまったわけ。
同じような生物種分布の尺度で日本の高地を鑑みると、それら高地があまりにも形成が新しいため、そこに適応した生物種がまだ存在していない。 


そもそも、日本の本州はもともとはバラバラで、現在の東北、関東、中部、近畿、中国地方がそれぞれ別個の島だったと想定される。
それがくっついて今の本州ができたのであり、琵琶湖はその合成の名残である。
同様の生物種の分析によれば、伊豆半島などはぐっと新しくて、本州にくっついてからまだ80万年しか経っていないし、プレートも違う ─ ということが再確認できる。


・南北に伸びる地形・山脈ほど、気候変動による生態系へのダメージは小さいが、それは棲んでいる生物種が南へ北へと移動することで最適な気温を選ぶ余地があるため。
東西に延びた地形・山脈では、生態系に気温選択の逃げ道がない。 

なお、古代以来、日本の都は徐々に涼しい土地に遷ってきた。 

・人類のとおい祖先は、乾燥地帯のサバンナに出現したと想定されている。
だから体質的には、水分を節約するように進化すべきはずだったのに、現実の人類は汗をかいて体温調節をしている。
ゆえに、人類の祖先はどこかの段階で水に入っていったとも想定される。
これで人類は毛皮が無くなった。
また、首から下を水に浸かって生活していたためにこそ直立歩行も可能となったと思われる。
もしずっと地上だけなら、重力の負荷が強すぎて直立など出来なかっただろう。


・日本の江戸も大坂も、もともと大湿地帯であり、たとえば大坂平野を「かわち」と呼ぶのは、もともと河口の干潟であった名残であるとされる。
ずっとあとになってからだが、大坂の梅田はもともと 「埋田」 と称していた。
江戸の町が建設された当初、虎ノ門にダムがあり、そこで飲料水を確保していた。
溜池という地名のゆえん。
だが江戸が人口増大するとともに虎ノ門ダムだけでは追いつかなくなり、玉川上水を掘削して導水するにいたる。 


・江戸時代のはじめ、利根川は関東平野に流れ込んでいた。
利根川の大氾濫に頭を悩ませていた徳川幕府は、その河口を銚子方面へとねじ曲げる大工事を完遂させた。
この利根川の東遷という大工事により、関東平野が適度に乾燥するようになり、結果として日本一の穀倉地帯となった。
同時にこの利根川の大工事は、伊達藩の関東侵入をくいとめる効果ももたらした。 


・なお稲作は、水資源との共存の観点からして、あきらかに小麦栽培よりも望ましい。
小麦栽培はかならず森林を破壊し、土地を収奪してしまうが、水田は自然環境との永続的な共栄を可能としている。
だが水田の出来る湿地帯は、人類史にとって確かに農業の恩恵をもたらした反面、マラリアへの罹患のリスクをも有する危険地帯でもあった。
だから出現の古い種族ほど、マラリアの脅威から逃れるため高地に都市をつくっている。
 

                     ☆         ☆        ☆


・水はきわめて動かしにくい物質であり、水を流そうとすればかなりの移動エネルギーと技術が必要。


・人間の祖先はみな移動型・遊牧型であったが、その真因は土漠ではなかなか水を継続的に確保出来なかったため。
したがい、水の確保に成功すれば人々はそこに定住した。
定住農耕民族と、遅れてやってきた遊牧民との領土紛争は、用水路確保が真因であった。


・水道建築を実現していたローマのすごさは、周辺民族を圧倒したことだろう。
だからパックス=ロマーナ (ローマの平和の200年) が実現したと考えられる。


・パレスチナ問題の本質は、水資源の奪い合い。
イスラエルが第3次中東戦争でゴラン高原を制圧した理由は、そこがヨルダン川の水源であるため。
当のヨルダンにはヨルダン川は無いのである。
パレスチナとイスラエルの暫定国境線をみると、使用可能な井戸のほとんどがイスラエル領である。
この作為のために国境線は細かくグニャグニャと曲がっている。


・アメリカとメキシコの紛争は水を巡ってのもので、コロラド川の河口の水はすべてメキシコ源流のものである。

・アメリカの農業規模は世界最大級、だがアメリカ農業は極度に「化石地下水」に依存している。
つまり、最後の氷河期以降に氷が溶けて地質構造に溜まっている地下水で、だからどんどん減る一方である。
かつ、これを汲み上げるためにかなりの石油エネルギーを費やしている。


・水を継続的に長距離輸送しようとしたら、パイプラインしかない。
リビアのカダフィは砂漠に巨大な 「水のパイプライン」 を敷いており、その判断と功績は極めて大きい。


・現在の先進国の安価で良質な綿は、アラル海やインドの地下水を大量に投入した綿畑でつくられている。
たとえば日本が輸入するこれらの製品を、現地で投入済の水量に換算すると、日本は年間で800億トンの水を輸入しているに等しい計算。
日本人全体が年間に家庭で使う水量の6倍にあたる。
そして、アラル海の水位はどんどん下がっている。


・水を不自然なほど強引に取り除いてしまったのが現在の都市化である。
だから都市の多くはどんどん乾燥状態におちいり、ヒートアイランド現象も起こしている。
きわめて簡単な理屈だが、このままでは都市は持続可能な成長ができない。
古来の 「打ち水」 が見直されているわけである。


・原因はともかくとして、地球温暖化が 「本当に」 このまま進めば海水が膨張して水位があがるといわれる。
また、北極海の氷が「本当に」 溶けていくとすると、海洋の 「温度格差」 が無くなる。
だから深層海流がとまってしまう。


            ☆       ☆       ☆       ☆



・人類史をひもとくと、ほとんどの地域では基本的に地力収奪、木材伐採が継続されてきた。
とりわけ木材は、薪として重要な火力=エネルギー源。
人類の祖先は森林をどんどん伐採していき、無くなってしまうと他の土地へと移住を繰り返した。


・黄河の上流はかつては大森林だったと考えられる。
だが、つぎつぎと興る帝国が木材=火力エネルギー源確保のためにほとんどを伐採していまった。
そのもっとも大胆な用途が、万里の長城の建造用の煉瓦焼きではないか。


・日本でも、木材こそが最も根幹的な火力エネルギー源であった。
木材の難点は、巨大過ぎるため遠距離運送が簡単ではないこと、しかし日本は多くの急流河川に恵まれて来た。
桓武天皇が奈良から京都に遷都した理由は、京都が森林と大河川(淀川)に接していたため。
また、江戸時代、天竜川流域はいわゆる「天領」だったが、それは木材供給の大拠点だったため。
とはいえ、江戸幕府は鉱物資源もかなり独占をはかってきたが。


・なお電力会社によれば、大発電拠点から全国到るところまで送電している現状ではエネルギーロスが大き過ぎる。
各地が地元の河川でのローカルな水力発電にもっと積極投資すればよいとのこと。
そもそも日本は70%が山岳地帯で、雨水を集積する自然のシステムとなっており、水力そのものには恵まれているのである。


・ところで、地球温暖化が 「本当に」 このまま進行すれば、いずれ日本のほとんどの地域で雪が無くなり、自然による水の堆積が大きく減少する。

・1700年ごろ、日本国内の木材伐採はピークを迎え、それから100年と経たないうちに木材供給は頭打ちになった。
で、日本人の人口も3千万人くらいで頭打ちになった。
そんな時にペリーが来航、だが欧米列強は日本にろくな資源がないと知ると植民地化をあきらめた。
一方、たちまちのうちに日本は化石燃料(石炭や石油)と蒸気機関のシステムに飛びついた。
その結果として日本のエネルギー容量はぐんと増え、日本の人口は現在までになんと4倍にも膨れ上がった。 


そして今またエネルギー問題に直面している。
女性が子供を産まなくなったことと、何か関係があるのだろうか?
なお、若年層が急激に増加した文明では、かならず「余剰」の若者が大量に発生し、それが集まって軍隊組織となる。
軍隊組織となるから、戦争をひきおこす。


         ☆      ☆      ☆      ☆      ☆



・石炭は現在でも極めて重要な火力エネルギー源である。
アメリカの発電の一次エネルギーは大半がいまでも石炭であり、その石炭は自国であと200年はゆうに採掘が可能といわれる。
1901年、テキサスで大量の油田が発見される。
1903年、T型フォード構想始まり、またライト兄弟がエンジン実装の飛行機で初の有人飛行。
アメリカは20世紀はじめには巨大な鉄道網建設の萌芽があったが、石油会社が鉄道を次々と買い取っては潰していった。
自動車会社は大発展をしていった。
(なお現在のオバマ政権は、あらためてアメリカ全土を結ぶ大鉄道網の構築をすすめている。)


・世界で最初の「巨大油田」の発掘は1935年。
1940年、アメリカは世界でも「ケタはずれの」最大の産油国で、ほぼ2億キロリットルだった。
少し前に日本は満州国を立ち上げていたが、あの有名な「大慶油田」をまともに探そうとしなかった。
日本の軍部が石油の必要性をたいして認識していなかったため。
とはいえ、日本などはエネルギー資源に乏しいことは十分に自覚しており、だからこそ省エネ追求の大量輸送システム=つまり鉄道網を発展させた。


・太平洋戦争が始まった時点で、日本の石油需要は0.04億キロリットルであったが、それを満たすための石油の90%はアメリカから輸入。
日本自身の産出量は0.003億キロリットルしかなかった。
このころ、フランクリン=ローズヴェルト大統領がサウディアラビアと積極的に接触している。
もっともこの時点では、中近東全体の産油量はアメリカの1/10程度に過ぎなかったのだが。


・ナチスドイツによる有名なバルバロッサ作戦は、ドイツ第3帝国が巨大になり過ぎて域内の石油需要に応えられなくなったためになされた。
ソ連の油田をなんとしても奪わんとして、スターリングラードの戦い、そして敗北に至る。


・アメリカ版の自由競争経済は、原油供給の「永続」、つまり原油価格が上がらないことを前提として機能してきた。
第二次大戦後の世界的な不況は7回発生しているが、うち6回は原油価格の高騰後である。
1970年以降は、本当の大規模油田は見つかっていない。
そして同じころからアメリカは石油の輸入国となり、オイルショックが起こった。


・一般に、石油産出量のピークは、インフラの整備状況が最高となるときであり、油田の発見から大体50年後である。
そして大油田発見のピークは1960年ごろ、だから産出量はまさに今が最高潮といえる。
関係者がそこに気づいているからこそ、石油価格が値上がり基調に入ったのではないか。


だが、アメリカ自身が採掘可能な石油の埋蔵量は、あと10年程度で無くなってしまうとの見方もある。
本当に無くなってしまうなら、次は砂混じりの石油、いわゆるシェールオイルを国内で本格採掘するだろう。
その精製コストは確かに石油よりも高いが、それでもほっとけば石油の方が高くなると関係者は考えている。


・なお、イランやイラクやUAEはあと90~100年くらいは石油を掘れるという。
サウディとリビアはあと60年くらいとされる。
カザフスタンはあと80年くらい、ヴェネズエラはあと70年くらい、ナイジェリアはあと40年くらい採掘可能か。
ロシアはあと20年、中国はあと10年?


・とはいえ、過去10年では、カザフスタンやブラジルで100億バレル級の大油田がみつかっており、ヨリ最近はフォークランド諸島でも大油田がさわがれ、英国がまたアルゼンチンともめ始めている。
なお、世界最大の産油国であるサウディアラビアの一日の産油量は、だいたい1000万バレルである。


こういう基本データを集めていけば、石油があとどれだけ採掘可能か、一方で需要はどのくらい増えていくか程度のことは、比較的簡単に算出できるはず。


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ざっと、以上のごとく、大変に触発される本なのです。
さらに他にも、江戸幕府が全国の情報の集中化と一元化を進めてきたこと、日本のこんごの農業政策についての掘り下げた討論などなど、読みどころは満載。
職業も世代も越えて読んでいただきたいもの。