17世紀のなかば、英国では、かのニュートンとほぼ同時代に活躍した、近代哲学のパイオニア、フランシス・ベーコン。
彼は帰納法タイプの合理論を近代的に確立したとされる。
観察と実践から、一般法則へ帰着する、という考え。
一方、やや遅れてフランスでは、「われ思うゆえに我あり」と真理探究をすすめた、思想の英雄こと、デカルト。
こちらは、数学的な論証に基づいて、演繹法タイプの合理論をうちたてる。
もちろん近代哲学は、そのご、カントやヒュームやダーウィンたちが、もっともっと超然と、かつ大胆に、そして時間そのものまで疑いながら立体的に発展(あるいは拡散)させていった。
現実をみる。
ある国は富み、ある国はいつまでも飢えている。
ある国は、いつも戦争に勝ち、ある国はいつも負ける。
権力集中と資産配分だけで数千年間も過ごしてきた、平地移動型かつ資本重視型の民族がいる。
分業と専門化によって独自の創造型文明を構築してきた、山や海のハードウェア型民族もいる。
ある企業はどんどん好き勝手に発展し、ある企業はいつまでも大企業や政党の顔色ばかりうかがっている。
帰納法の着想から入れば ─
すべての事実は偶然の最適化の結果、その数字も偶然のデータ、それを再投資に生かす知性もまた同じということじゃないのか。
でも、演繹法から類推していけば ─
何もかも必然の要素のガチンガチンのかたまり、その必然が数字にあらわれ、文言と化し、それらが必然的な経緯で必然的に連続し……となるのか。
かたや。
生物進化は、すべて偶然で、適者生存もあくまでその時その時の偶然、という見方があるそうな。
もし、地球の生命誕生まで時間を「巻き戻し」すれば、次は全然違う進化展開になるらしい。
こなた。
進化も適者生存もすべて、生命の共通の「もと」が、地球上という限定環境における限定的な相互作用として、必然展開してるに過ぎない、というそうな。
よって何回「巻き戻し」をしても、われわれの肉体も知性もいまと全く同じはず、とな。
これ、実はまさにダーウィン生誕200周年を経過した現在、あらためて哲学論争の着想ベースとなっているようで。
確か数年前の The Economist の巻頭記事になっていたような。
(そういえばちょっと前の早稲田政経の英語でも、この両者の対峙についての論文が出てきたような…。)
さて。
ただの人、としての所感。
われわれの寿命はあまりにも短いので、「数学的な演繹による真理」の正誤を完結した知力のみで確認することなど「できない」ような気がする。
なるほど、個々の法制度や政策や経済理論や数学についてならば、極めて短期的には普遍の真理を合理的にガチガチッと組み上げていけるのだろう。
(だから、そういう分野の人たちは僕のような普通の市場人とは根本的に着想が異なっている - ように思われて仕方がない。)
しかしそこからは、永遠の真理命題は導かれないんじゃないのかな。
頭脳(情報)のイマジナリーな領域だけを広げすぎたところが、人間の生きている間のハピネス感覚でもあり、だからこそ、生命としては不幸だともいえる。
そこんところが、「バカの壁」 のこっち、むこう、どっちか。
以上