古くから残存している問題は、人間の根本的で重大な属性がもたらしてきたものだから、今後もずっと課題たりうる (一方で暫定的な小さな問題はすぐに片付くから、たちまち終わった話となる。)
……というものらしいのですが。
さて、D.S.ランデス著 『強国論』 です。
原題は、”The Wealth and Poverty of Nations – Why Some Are So Rich and Some So Poor”
世界の近現代史において、なぜ強者(富者)と弱者(貧者)が存在し続けてきたのか、その経緯と必然を明示せんとした大作。
著者のランデス氏は西洋経済史における最高峰の見識者とのこと。
日訳版が、三笠書房から2000年頃に発行されています
─ せいぜい500ページ程度の編集ではあるものの、それでもこのたった1冊が、浅薄な参考書を束ねても到底おいつかない事実検証の数々、そして説得力。
この日訳(総指揮?)は竹中平蔵氏によるもの。
物事の成否は、意思決定にかかる能力と手順とタイミング次第でいくらでも変えることが出来る ─ そのようなことをきっとこの日訳において伝えられたかったのでしょう。
大人のみならず、大学生にも是非とも薦めたい最強の1冊。
なるほど、この 『強国論』は、特に近現代の西欧世界(と日本)という 「強者(富者)が強者となった所以」 を総決算させうるに留まるかもしれません。
世界の近現代史における様々な論理要件を問いかけているようでいて、実は豊かなる者たちの経済的な成功要因の事後分析にかなり絞り込んでいる文脈構成。
退屈といえば、この上なく退屈な。
しかしながら、いや、むしろそれゆえにこそ 『強国論』 は、多様化と不確実化が続く未来の世界像をも予習させうる、経済の巨大な公約数たりうると思うのです。
(日訳をされた竹中氏はもう少し控え目に、本著を「壮大なる知的挑戦状」と評されています。)
もう購入してから10年以上経つのに、いまだにこれほど読み返している本はありません。
予備校で勤務中にも読んでたりして。
ともあれ、多大なエピソードを交えて濃密に練り上げられた本でして。
仔細に亘りメモってみれば、とんでもない分量になってしまいます。
ゆえに、ここでは特に全編のうち前半2/3までに絞った上で、「強者が強者となった所以」 に注目し、興味深い箇所を僕なりに端折った表現で列記しておきます。
かつ、以下については記述量があまりに少なすぎるため、経緯や見解を理解しがたく、すべて省きました。
・イギリスの18世紀の南海会社のバブル崩壊から大合資会社設立まで、および、19世紀の物価高の時代にいたる企業組織の有限責任化のプロセス。
・19世紀フランスの開発銀行(クレディ・モビリエなど)と、フランスの国庫とナポレオン3世の関わり合い
・19世紀ドイツの開発銀行(デー・バンケンなど)の大兼営戦略と、クルップ家などの巨大な産軍複合体との関わり合い
・ある社会が豊かさを追求する上で、理論上の最適な性質とは:
(1) 生産手段を操作・管理・製造する方法や、最先端の科学技術を開発・改良・会得する方法を知っている
(2) こうした知識や秘訣を、正式な教育課程においてであれ、徒弟制度を通してであれ、若い世代に伝えていくことができる
(3) 能力や相対的な長所によって職業が決まり、昇格や降格は仕事の成果に基づく
(4) 個人や企業に機会を与え、独創力や競争、対抗意識を煽る
(5) 人々が労働や努力の成果を享受し、利用することを許す
・さらに付随要件としては ─
(6) 両性の平等(人材が倍になるから)
(7) 人種・性別・宗教による差別の撤廃
(8) 不合理な呪術や迷信よりも、手段としての科学的合理性や重視される
・これらを活かした上での大目標を促す政治的・社会的規範の一例としては:
(1) 私有財産権の保証、これは倹約や投資を奨励するのに都合がよい
(2) 個人の自由に関する権利の保証、圧政や不正から個人を守る
(3) 明示されたものかどうかに関わらず、契約の権利を重視する
(4) 安定した政治体制、必ずしも民主政体である必要はないが公にされた法治であること、定期的な選挙が約束され、多数派が勝っても敗者の権利を侵害しない
(5) 苦情に対して迅速に救済措置をとる政治体制
(6) 依怙贔屓や高い地位がそのまま超過利潤をもたらすことなく、各メンバーに市場外での利益追求を促すこともないような、公正な政治体制
(7) 穏健で有能で無欲な政治体制、結果として政府は税金を抑制し、社会の剰余資産への要求を縮小し、特権を排除していくことが期待される
・さらなる基本要素として、地理的・社会的な「流動性」が約束されていること
─ ゆえに、たとえ成果に一時的な不平等が生じても所得再分配は公正になされ、かつ再チャレンジがいくらでも可能なこと。
こういった理想に到達した社会のパラダイムが、歴史の方向性を際立たせる。
・所有権の概念は聖書の時代まで遡り、キリスト教が普遍化した。
中世の西ヨーロッパでは、古代ローマの遺産と、ゲルマン民族の法や習慣と、ユダヤ=キリスト教の伝統が相乗した状況にあり、これらが所有権の法制定を導いた。
・さらにキリスト教の特性として、神(聖職者)と皇帝の権威を分立させ、その聖俗間の権力緊張関係がむしろ平民の私有財産の保証を認める結果となった。
権威や権力が分立していたため、ヨーロッパは対外的な脅威にあたっても全滅することはなかった。
・もっとも、聖書はしばらくの間は聖職者が独占してきた。
だが、12世紀のワルド派からさらに後代のウィクリフやルターやカルヴァンを経て、聖書の正統な理解を追求する過程で、所有権(自然権)の正統性もが追求されてきた。
・ヨーロッパ中世の都市に生まれたコミューン(生活共同体)が、市民による自治的な経済運営を活性化させた。
ここでの事業収入はおのおの支配者(領主)からは独立した生産活動によるもの、だがそれが結果的には国全体の統治者の権力基盤強化に貢献した。
そこで、国の統治者と地方の領主は競って有力な市民を奪い合うようになり、却って市民に対し権利や自由や特権を与えていくことになる。
・西暦1000年~1500年の間に、ヨーロッパでは生産・流通・消費の全行程が劇的に進歩した。
地代の貨幣化については言うまでもない。
農法の発明と動物の家畜化に重点がおかれ、エネルギー供給量がかなり増大したため、人間の作業効率も大きく向上した。
とくに家畜の利用は労働効率を高め、余裕の生まれた耕作者たちは共同出資して更に家畜の購入を進めていった。
一方では、ゲルマン人が伝統的に使ってきた犂が、粘土質の土壌をどんどん耕作地に変えた。
(ローマ人がかつて使っていた犂は砂利質の土壌にしか合わなかった。)
・ヨーロッパで人口が増大しはじめると、さらなる耕地拡大のために低地の沼沢の排水を進め、その過程で風車が用いられ、そうやってオランダという新たな耕地も出来た。
・中世都市のギルドは、もともと地方村落の出身者たちが組み上げていったもの。
ゆえに、権力が過度に特定メンバーに集中・増大しないように市場を有限化(ゼロサムゲーム化)し、事業の場所も時間も制限しあい、価格競争も無かった。
この閉塞状況は、皮肉にも都市部ではなくむしろ周辺の郊外で打ち破られていった。
新たな技術者による、新たな品質の新たな製品が、自由闊達な郊外にどんどんもたらされていった結果、都市と郊外の間で、外注化や分業化が展開されることになった。
・農業は労働者に有閑状態をもたらすので、その有閑農民たちが農村部における余剰労働力となり、家内工業が進む。
そこで、商人たちが織物を農村部の家内工業に外注した。
ここに至って、都市のギルドの織物事業の権益がついに脅かされ、イタリア自治都市や北海沿岸では都市部の住民が農村の家内工業を潰してしまった。
このため、イタリアはギルドが残り続け、労働コストの競争は起こらなかった。
・ただし、地方自治が早くから進んでいたイギリスでは、もともと王権がギルドの独占権を認めていなかったため、ギルドの圧力を受けぬまま、低賃金の家内工業の織工へ仕事の委託がどんどん進む一方だった。
こうしてイギリスは、16世紀までにはヨーロッパ最大の毛織物産業の国に生まれ変わる。
・以上の過程において、ヨーロッパの統治者や各領主は有力企業の誘致を競い、また商人たちは投資と支払いを容易にすべく新たな企業形態や契約方式、さらに商業証券や業務提携協定を考案し続けた。
(こういう話が、自由競争経済においてとりわけエキサイティングなところ!)
・アフリカ奥地から地中海沿岸に運ばれてくる金(gold)は、ヨーロッパの商人たちの間で主要な決済手段となり、やがて貿易網の拡大とともに、14世紀の半ばには地中海東部で金本位制が始まっていた。
・サトウキビはインドから、アラビア、地中海、マグレブ地方へと流通され、十字軍をきっかけにヨーロッパ人がギリシアやシチリアやポルトガルに持ち込んだ。
砂糖は薬剤でもあり防腐剤でもあり、中毒性があり、料理の味を誤魔化す効果もあったため、ヨーロッパ人の関心意欲を高めた。
・レコンキスタが完了する遥か以前の14世紀までに、ポルトガルはアゾレス諸島、マディラ諸島、カナリア諸島を発見しており、ここでサトウキビの大プランテーション栽培が始まった。
そこでは奴隷労働が必要であったが、やがて、アラブ人のやり方に倣いつつ、ポルトガルと宗教的な確執も無いアフリカ人を充当するようになった。
こうしてポルトガルはサトウキビで大きな収益を得た。
・コロンブスは新大陸を「発見」して、同じことを考えた ─ ただし奴隷労働には現地のインディオを充てるとして。
もっとも、コロンブスを送り出したスペインは新大陸では収奪のみに徹し、開拓事業には乗り出さなかった。
サトウキビを新大陸に持ち込んだのは、ポルトガル人はもとより、オランダ人。
・やがてイギリス人も新大陸でのサトウキビのプランテーションに着手、イギリスが1655年にジャマイカを獲得したのもそのため、さらに、フランスのハイチ獲得も、同じ。
新大陸の原住民が激減していたため、奴隷労働ではアフリカの黒人が充てられた。
ここに、カリブ諸島と北アメリカとヨーロッパを結ぶ、世界経済史でいう 「大西洋システム」 が発展し、これがイギリスはじめヨーロッパ主要国に利潤と分業と社会構造変革をもたらした ─ ということは疑う余地が無い。
・ポルトガルが送り出したバスコ=ダ=ガマは、インドでのイスラーム商人との通商拡大には失敗した。
しかし、イスラームやインド相手であっても船や銃においてヨーロッパ人の方が優位であること、また、香辛料が莫大な利益をもたらすということをヨーロッパに知らしめた。
・ポルトガルの発展は、ユダヤ人などの知識人に依るところが大きかった。
しかし15世紀末、ローマ教会とスペインの圧力によって、ポルトガルはユダヤ人を迫害し、以降はポルトガルの知的・科学的レベルは下降線をたどっていくことになった。
・神聖ローマ皇帝のカール5世は同時に出身元スペインの王を兼ね、さらにオランダも抑えていた。
そのあとを継いでスペイン王となったフェリペ2世も、オランダに重税を課しつつ、反カトリックの名目で弾圧する。
オランダは1581年に独立を宣言したが、更にそのご30年近くスペインからの独立闘争を続けた。
その過程でオランダ人は戦闘技術を磨きあげた。
・前後して、スペインは1580年にポルトガルを併合したさいにオランダ商船を締め出した。
オランダ人はポルトガルに伝えられた航海技術を活かして、自力で航海することになった。
その結果としてオランダ人は航海術を磨きあげた。
・オランダは東インド会社が大胆にかつ乱暴に、モルッカ諸島、マラッカ、ジャワ、セイロンを収奪し、他ヨーロッパ勢力との戦闘までも展開した。
こうしてオランダ東インド会社はアジアにおいて過度な独占事業を進めたが、その過程で増大する経費もまた東インド会社が独自に強引に捻出したため、次第に収益は悪化。
母国がイギリスと戦争を始めると、オランダ東インド会社はさらに凋落。
ついにオランダ本国に接収される。
・強力な事業推進を一貫してきたオランダ東インド会社と比べると、イギリスは航海ごとの出資者を募る方式をとっていたため投資の規模が小さく、総合力で非力であった。
このためイギリスはオランダ東インド会社との競合を諦めて、インドに向かった。
そのインドの綿織物が、ヨーロッパにおける衣服を革命的に変え、巨大な需要をもたらし、イギリスは大きな収益をあげた。
・一方で、胡椒の価格は産地拡大とともに下落、清の遷界令や日本の鎖国でによって銀の流通もとまり、世界経済は17世紀にいったん「破綻」してしまう。
しかし、イギリスには関係なかった。
・イギリスの東インド会社は、莫大な労働力と剰余金がうごめくインドに長期的に根差し、政治的な介入をどんどん進め、1757年のプラッシーの戦いの結果として莫大な賠償金を獲得。
こうしてインドの経済的な支配に成功した。
・マックス=ヴェーバーが著わした 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は多くの批評や非難に晒され続けてきた。
プロテスタンティズム(特にカルヴァン主義)は事業者が商売で成功するための倫理価値を本源的に定めている、というのがこの著作の主旨。
これに対し、唯物論者は「宗教が経済的合理性の動機付けとなることなどない」と否定し、また歴史学者からも 「宗教改革は勤労に独自の宗教的な権威付けをしたにすぎなかった」 などと、やはり否定する声があがってきた。
・現実には、貿易や銀行業や製造業で近代以降の牽引力となったのは、”合理的で規則正しく勤勉な”プロテスタントの商人と製造業者である。
プロテスタントの属性として注目すべきは ─
少年たちのみならず少女たちの読み書きの必要性をも説いたこと(だから母親たちが読み書きが出来るようになった)、また、時計を普及させ時間観念の重要性をひろく知らしめたこと、さらに、知識や経験の継続と確保をもたらして固定資本を形成させたこと。
・あらためて、ヨーロッパが産業革命に成功した理由は、以下の3つ。
(1) 知識の探求が自律的に行われるようになり、その際限が撤廃されていたこと
(2) 学術上の様々な約束事がヨーロッパを通じて科学的に統一され、また現実が「数量化」されていったこと
(3) 発明という概念によって、研究とその普及が一般化され、また人的交流が自由で学会サロンや雑誌発刊などが盛り上がっていったこと
・産業革命の最初のインパクトは、紡績と織機の機械化、それから蒸気機関の採用による自動化。
もともとヨーロッパの繊維産業といえば、14世紀以降のイタリアの絹織物が花形産業であり、絹織物の生産には水力による機械化も進められていた。
そこでしばらくの間、他国はこの絹織物の生産技術を盗み続けた。
しかしながら絹は高価で、顧客筋も限られていたため、大量生産と自動化をもたらすことはなかった。
・一方で、毛織物と綿織物は一般需要が極めて大きかったため、紡績機械の改良による大量生産が図られた。
ただ、毛糸は紡績機に向かず、かつ毛織物の労働者の権益が強すぎたため、毛織物産業も大産業に成長することはなかった。
以上から、綿織物こそが綿糸紡績の大いなる改良を生みだしつつ、産業革命の起爆剤となっていったのである。
・真空や気圧の実践的な研究は、16世紀から既に取り組まれており、ワットも独自に試行錯誤を続け、18世紀後半にはきわめて実践的な蒸気機関をつくりあげていた。
それは、カルノーらによる熱力学の法則が確立する半世紀以上も前のことだった。
企業家・発明家の精神性の凄さ。
・もちろん、産業革命時に大きく進歩した産業分野は、紡績と繊維だけではない。
冶金においては、金属板の製造が打ち延ばしからローラーによる圧延にかわり、針金の製造が可能となり、穿孔にドリルが使われるようになった。
精度測定技術が飛躍的に向上し、固定目盛が使われるようになった。
反復駆動を行う機械を多様な部品と組み合わせることで、時計や銃器や錠前などの大量生産を可能とした。
・イングランドでは、中世から近代初期にかけて、農業と流通も既に商業化/市場化がかなり進行しており、作物栽培の研究論文も行き交い、さらに18世紀までには土地の囲い込みによる農業の資本主義化と農民放逐(労働者の流動化)も進んでいた。
くわえて、王権が各地方にまで徹底されることはなく、土地の鉱物資源はその土地の所有者のものであった。
・そんなイングランドで産業革命が本格化していった積極的な理由として、製造事業者と労働者の間の絶妙の緊張関係があげられる。
伝統的に地方分立行政であったイングランドでは、同時に地理的な分断もあり、製造事業者は各地方の家内工業の労働者に一括した下請発注が出来なかった。
逆に、各地方の家内工業労働者は、独自の資材調達と製品化のネットワークを巧みに活用しつつ、製造事業者との賃金交渉でもうまく立ち回って、私腹を肥やし続けていた。
それでも、家内工業は管理コストのほとんどが労働者負担だったため、製造事業者からは放置され続けた。
・やがてイングランドでは、これらの地方の労働者を強引に一か所の大きな工場に集めて働かせるメリットが生まれる。
それが、大工場での熱を利用した生産技術の導入(洗浄やガラス製造や鉄製造など)、および動力機械の導入であった。
この結果、熱源を集中しつつ、低コスト、大量生産、そして高利益をもたらす大工場の時代がはじまり、一方で家内工業はどんどん廃れていった。
・以上の過程で注目すべきは、イングランドでの大工場化は製造事業者と労働者の拮抗の結果であったこと。
これに対して、大陸ヨーロッパでは政府主導でどんどん補助金を出資して大工場の運営を図っていった。
・イギリスが綿織物で大きな収益をあげ始めていたころ、フランスは革命によって政府がブルボン王家の資産を没収し、各領地を押さえて全国民経済のコントロールをはかり、ゆえに自由な競争が停滞した。
さらに化石燃料が希少=高価で輸送ルートが貧弱だったことも、フランスの停滞の要因となっていた。
ただし、それまで国内の諸候や自治体が人の移動時に勝手に課していた通行料は、フランス革命で払拭されることになった。
・ドイツ諸国はフランスに対抗するため、プロイセンが1809年に農奴を解放するなど労働者の自由化を進めていったが、一方では伝統的な世襲制も根強かったため、産業化推進のための土地の有効活用や労働者の流動化において後れをとった。
・またドイツは中世以来、とてつもない数の地方領主たちや自治体が人やモノの移動に通行料や関税を複雑に課し、それぞれ税収を都合よく確保していた。
ナポレオン戦争後にライン川沿岸の輸送は無料となり、さらに1834年の関税同盟でやっとドイツのほとんどの諸邦が相互の税障壁を払拭し、経済的な統一へむかう。
・ロシアは中世以来、領主が運用する土地が広大過ぎるため労働力が慢性的に不足、ゆえに農民を農奴として土地に縛りつけることが恒常化していた。
一方では、労働者たちの自由な流動性と就職を可能とする都市もほとんど無かった。
・ロシアで機械化・工業化がおこっても、広大な土地ゆえ製品の輸送コストが高く、それでも生産性を確保するためには一層多くの労働者による大量生産しかなかった。
そこでアレクサンドル2世によって農奴が解放されるに至ったが、産業も市場も貧弱なままであったため、新たな労働者たちは皆が豊かになったわけではない。
・1951年にガーシェンクロンが著わした論文『歴史的観点からみた経済的遅延性』は、資本も技術力も乏しい遅れた国々がどうすれば先進国の知識やノウハウを獲得できるか、を分析している。
まず前提として、経済発展はどの国・地域でも単線的に進み、だからたとえ遅れた国でも知識と実践次第では必ず先進国を追いつくことが出来る、とする。
かつ、そのキャッチアップの過程で遅れた国は先進国の失敗も学びつつこれを回避するから、先進国以上のスピードで経済成長する、としている。
遅れた国は、たとえ労働コストが安くてもどうせ生産技術そのものが低いのだから、思いきって先進国の先端技術にどんどん投資・導入を図ったほうがマシだと。
・ガーシェンクロンが特に強調しているのは 「資本の流動化」 であり、私有財産と資金がどの程度銀行に余裕を与えているか、あるいは逆にどれだけ貧弱で政府に依存しているか、によって先進経済国と途上国を分類した。
・1830年を過ぎると、ヨーロッパでは鉄道、運河、道路、橋などの大インフラ投資が必須となり、そのため景気後退や信用不安に簡単には屈しない金融システムが求められる。
物件ごとの信用貸しから、ロスチャイルドなど巨大資本によるインフラ投資へ、あるいは開発銀行の設立による国内資本の収斂など。
・イギリスは、国ではなく大資本家によってスエズ運河開削などの巨大投資がなされた。
なお、アメリカの大陸横断鉄道も大資本家が出資したもので、国が資本投下したものではない。
・19世紀中盤以降、イギリスの産業分野での独走が終わるが、それにはフランスやドイツが拡大させていった学校教育の成果があげられる。
これら大陸の学校教育はイギリス経験主義とは異なり、理論教育を進め、科学理論そのものが重大な新技術を生みだす時代局面を導くことになる。
つまり、有機化学と電気である。
資源、財力、権力はすべて価値を奪われ、知性が物質の上に君臨するようになった。
・俗にいう経済の 「ステープル=セオリー」 は、製造の拡大が消費拡大と余剰資本をうみ、その余剰資本が更なる製造投資はもとより、将来性の高い産業分野への先行投資も可能にするというもの。
つまり、投資がどれだけ有為になされるかが経済発展の可能性を決定する問題となるが、この観点からアメリカを捉えると、経済の大回転をもたらしたには条件が整っている。
・アメリカは独立前後の頃までは穀物生産の余剰が少なく、小作農労働力も極めて希少で、けして贅沢な再投資はなされず、そうさせる王も領主もいなかった。
土地がただ同然に安かったため、製品価格の多くは製造労働者に還元され、賃金はイギリス本国よりも高かったが、その高い利潤は輸入購買のみに費やされることはなく、自身が国際的に比較優位に立ち得る製造業への投資に向かった。
イギリス本国の単なる下請けに留まらず、様々な産業規制にも関わらず独自に製造業を着実に発展させていった。
こうして、アメリカでは民主主義と起業意欲が育まれた。
・さらに、製造事業者の社会階層の差異が小さく、かつ労働者が圧倒的に希少であるため、工業の共有化(つまり規格化)と分業化を徹底し ─ いわゆるアメリカ型生産方式 ─ アメリカ製造業の急速な機械化や技術革新を可能にした。
同じく広大な土地で労働者が希少であったロシアと決定的に異なる点は、アメリカには強大な権力を独占した皇帝も領主さまも存在しなかったこと。
とくに武器製造においては、アメリカは独立前から需要増大に応じた製造分業化が進んでいた。
・アメリカは元来から、港湾に適した海岸線、大物流に優位な大河川に恵まれている。
しかも、19世紀には、綿の生育に最適な気候、鉄の冶金にうってつけの鉱石埋蔵量、また木材や石炭や水力を活かし、ありあまる資源はどんどん活用されるようになった。
・こうして、製造業の生産性(投資効率)においてアメリカは19世紀に入るとイギリスを追いぬいていた。
かつ、製造業において北部諸州が南部諸州を遥かに凌駕しており、これが南北戦争の勝敗を決定づけた。
さらに、埋蔵量の豊富な石油や銅が、19世紀後半以降は戦略的に重大な資源となった。
・アメリカでは、生産性重視のための工業技術の転用が、さらなる新たな工業を生みつつ、古くて非効率な産業技術は容赦なく切り捨てられ、それを抑制する伝統文化社会も無かった。
農業の機械化もどんどん進行し、これが製造業とともに大胆な西部開拓を可能とした。
こうして人口が増え、移民も増え、第一次大戦が終わるころには大量消費社会へと向かっていく。
・江戸時代の日本がヨーロッパより有利であった点。
250年以上戦争も革命もなかった、低コストの水上輸送が充実していた、単一の言語と文化を共有していた、商業規制の撤廃が続いた、共通した商人倫理があった。
・江戸時代の日本は、近代初頭のヨーロッパに極めて似た状況にあった。
政治権力の分立、大名によるインフラ投資、耕作地の大拡大や農作物の品種改良、藩同士の産業競争、養蚕や砂糖や甘藷ほか特産物の育成。
しかも、市場の分立が恒常的であるヨーロッパと比べ、行動範囲の比較的狭い日本では特定の権力が独占権益を保持しにくく、藩同士の市場競争が機能していた。
・また江戸時代の日本では、商人が権力者の庇護を受けつつ、倫理意識を高めていった。
商人の倫理は、富そのものではなく労働への献身を鍵としたものであり、それはヨーロッパのプロテスタンティズムと通じるものだった。
そして労働観と勤労習慣の普及を日本中にもたらした。
・江戸時代の参勤交代は都市部と田舎を連結させ、産品の販売を増やし、資金流動と為替取引を活性化させ、それがまた産品の製造を導く効果があった。
また日本人は正直であるため、都市と田舎を結ぶ信用販売も進歩した。
江戸は18世紀には人口と商業規模も拡大し、世界最大の都市となった。
・江戸時代以降の日本に綿や麻が普及すると、たちまち庶民の巨大な需要を喚起した。
これらは同業者による都市での生産から始まったが、やがて地方の独立工場や家内制工場と拮抗し、そのうち賃金の安い農村部での集団生産に至る。
この経緯もヨーロッパにそっくり。
・欧米列強に開国し、日本の既存の製造業は欧米の機械に敗れたが、綿の工場網と熟練工はうまく機能し、機械化による綿紡績(つまり産業革命)を成功させていく。
やがて、20世紀に入る頃には日本の綿紡績は世界有数のものとなった。
・日本で最初にアーク灯がついたのは1878年。
やがて旧公家や実業家や商人が企業家連合を結成、東京電灯が設立された。
最初は工場や造船所などの電力供給機関であったが、すぐに一般家庭への給電も始め、電力会社の数は33にまで増えた。1920年になると、日本の製造業の動力源の過半が電力となっていたが、この頃のアメリカやイギリスでさえも動力源の電力化は30パーセント前後に過ぎなかった。
====================================================================
ざっとここまでで、本編の2/3くらいからとくに興味を惹かれた箇所を抜粋メモしました。
残りの部分においては、ヨーロッパが総じて弱体化した理由、途上国の途上国たる所以、市場と国家の相克など、かなり普遍的な多くの議論が紹介されています。
それはそれで大変に読み応えのあるものなのですが、ここではもう思いきって著者ランデス氏が最後に総括されている文明論を総括して記すに留めます。
・西洋中心主義は間違っているとしつつ、いわゆる文化相対主義=世界主義に則った楽観論や悲観論を展開する人々がいる。
国際競争を通じ、世界は遅かれ早かれみなが均質の豊かさを享受するはずだ、という人々がいる。
だが実際には ─
文化は民族によっても地域によっても異なり、ゆえに経済上の国際競争のみで皆が均一に豊かになることは有り得ない。
同じ貿易をしても、知識と技能次第で生産的な効果をもたらす場合もあれば、そうでない場合もある。
人材の(雇用の)輸出入は、製品の輸出入と異なり、その成果は文化的な影響を多分に受ける。
経済における相対的な有利性は永続しない。
市場の発するシグナルにどう対処するかは、文化によって異なる。
作るよりも奪う方が簡単だ、という誘惑に打ち勝つためには道徳心の鍛錬が必要。
以上