それが、今回ざっと要約した 『水が世界を支配する』 です。
英文原題は "WATER - The Epic Struggle for Wealth, Power, and Civilisation" で、文明史における水の意味、意義、そして効用とリスクを大胆に総括せんとしたもの。
著者は英米主要メディアの最高のジャーナリストの一人、スティーヴン・ソロモン氏。
日訳担当は矢野真千子氏で、この日訳版が昨年夏に集英社から出版されました。
青いカバーの強力話題作で、400ページを超えるドドンとした厚みもスリル抜群、一時は書店の新書コーナーが青々と映えてなかなかの壮観でしたね。
一読して……いやいや、これはこれは。
水というものが(石油と異なり)代替不能な唯一絶対の資源、かつ財である以上、これ以上に包括的な文明論はおよそ在り得ないような。
あらゆる生産活動面や衛生面など経済活動の諸局面を鑑みても、水こそは供給行為の源泉そのものといえ、かつ水の需要が国家間の紛争、農業や化学産業などの既得権益化をもたらしている次第で。
と、なると、化石燃料、資源、化学、工業、貿易、言語、数学、軍事、法律、IT、カネ…といった諸要素がいかに上っ面の変動要素に過ぎぬものか ─ 水の巨大なプレゼンスの前にこれらすべてはあまりにも小さい、小さい。
もう少し具体的に換言すれば ─ もし地理学がもっとも包括的な学術分野のひとつとするならば、本書こそはその最強のテキストのひとつといってもいい。
ゆえに、地理学の導入には格好のドキュメンタリーファイルとも言えそうです。
むろんそこから、あまりにも巨大であまりにも断片的にすぎぬ生態系の学問分野を触発していくことも可能。
ともあれ。
以下にちょっと長いのですが要約メモを列挙します。
こういう本ではいつもそうですが、本当に重要なコンテンツはだいたい後半に集中しているので、今回の要約も後半部、つまり 「第3部」 「第4部」 のみに絞りました。
(前半には古代~中世の世界史の変遷と水について、ドラマティックに描かれています。)
まず、本書でふんだんかつカラフルに引用される 「水に関わるテーマ」 を範疇で分類すれば;
・生態系全般
・降雨
・河川
・地下水(地下帯水)
・灌漑農業
・ダム貯水
・水力発電
・工業用水
・物流(水運)
・生活用水、衛生
・国際紛争の歴史
以上に、ざっと分けられます。
ただし人類文明とのインタフェースを主眼にすえているため、概して海水ではなく淡水におかれていること、かつ、なぜか日本についてはほとんど触れられていないところも併せて留意。
なお、本書でしばしば引用される 「水1ガロン」 がアメリカ式の表記であるとすれば、これは約3.8ℓに相当。
そのうち、人類が使用可能な状態のものは、最大でも1/3にすぎず、残りの2/3は地下水系から海水になってしまう。
・この使用可能な淡水をもし全人類に均等に配分すれば、ちゃんと全員に行き渡るはずだが、しかしアマゾンやコンゴのジャングル、シベリアの淡水をも確保した上での話である。
おしなべて、現在の使用可能な淡水は全人類のニーズ、つまり年間1人あたり2000立方メートル相当を満たしていない。
こんごの人口増で、ますます足りなくなる。
・オーストラリアは世界で最も乾燥した大陸で、流出水全体でみても全世界の5%しか無い。
だが人口は全世界の0.5%以下である。
アジア大陸は全世界の使用可能な水の1/3を有するが、世界人口の3/5がこの大陸に住む。
降水の3/4は季節性かつ概して乾燥気候ゆえ、取水や貯水の効率が概して悪い。
なお、とくに乾燥の激しい中東地域に限ると、人口の増加率が著しく高い。
ヨーロッパ大陸は使用可能な水は全世界の7%にすぎぬ一方で人口は12%であるが、降水に恵まれ蒸発も少なく、河川にも恵まれているので取水効率がよい。
北米大陸は使用可能な水が全世界の18%で、人口は8%しかいない。
南米大陸は使用可能な水が全世界の28%もあり、人口は6%と、一見とても水には恵まれているが、それはジャングルからもちゃんと取水が出来た上での話である。
・人間は、仮に食事がゼロでも数週間は生存可能、しかし1日に2-3ℓの清潔な水が絶対に必要。
いくら知力が高くても技量や腕力に優れていてもカネがあっても、水が無かったら死ぬ。
・現在、人類全体の約1/5は1日に1ガロンの安全な飲料水を入手できない。
人類全体の約2/5は、最低限の衛生状態を保つための1日5ガロンの水を入手できない。
入浴や料理まで含めた生活には、1日に最低13ガロンの水が要る。
全世界の20億人が、水害に対処する公共インフラに不足している。
一方、アメリカなどの先進国の一般家庭では1日に150ガロンの淡水を使うこともある。
・淡水の使用量は、過去2世紀の間に人口増加の倍の速度で増加した。
・世界の主な河川の261本が国境をまたぐものであり、その流域に世界の人口の40%が住む。
・20世紀が終わるまでに、全世界の大河川のじつに60%がダムなどの人工物に遮られるようになった。
これらによって、灌漑農地の拡大や水力発電の獲得を推進出来たということは素晴らしい事実である。
しかし反面、シルトの部分的な堆積、下流水域の土地の塩類化、河川水量そのものの減衰、自然環境の不安定化、排水公害などが深刻化した地域もある(とくに発展途上国)。
もちろん河川の上流国と下流国の間で、国際紛争の原因にもなっている。
・地球の地下深く、取水が可能な地表水の100倍もの淡水が、有史以前氷河期から恐ろしくゆっくりと溜まっている。
このいわば化石水が溜まっている深みが、「帯水層」 である。
地表の水は降雨と蒸発の循環で、その一部は地表のすぐ下の地下に一時的に滞留するが、「帯水層」 の水はまったく異なり、ひとたび取水すれば 「なくなる」。
・1992年のリオデジャネイロの 「地球サミット」 がきっかけとなり、世界の利用可能な淡水源は今後の経済成長を支えきれないという認識が高まってきた。
2001~2005年の、国連の 「ミレニアム生態系評価委員会」 によれば、今世紀に入って世界の灌漑農地は水不足のために有史以来初めて 「減少」 に転じているという。
同報告によれば、世界の淡水の使用量の1/4は 「持続的な供給」 の限界を超えている。
また、全世界の20億人は、全世界で使用可能な水のたった8%しか自由に使うことが出来ない。
・2003年、国連は 「世界水発展報告書」 の発行を開始。
同年に京都で開かれた 「第3回世界水フォーラム」 では、世界の水インフラ投資に必要な年間1800億ドルの拠出を先進国政府や協力民間企業に求めている。
・2005年、国連は 「生活水国際10年計画 - 命のための水」 の開始。
・世界の水の3/4が農地灌漑のために、しかも概して農業事業者と政権による既得権益の硬直化もあって極めて安価で使われている。
・1ポンドの小麦の収穫までに、0.5トンないしは150ガロンの水が必要である。
1ポンドの米の場合には、250~600ガロンの水がいる。
ハンバーガー1個分の肉およびコップ1杯の牛乳をつくるため、家畜に与える飼料が要るが、その飼料のために800ガロンまたは3トン以上の水がいる。
Tシャツを一枚つくるため、700ガロンの水が必要である。
・世界5大飲料品メーカであるネスレ、ダノン、ユニリーバ、アンハイザー・ブッシュ、コカコーラが商品生産のために1日に使う水量は、地球上の全員が1日に生活で使う水の量に相当する。
・2025年には、世界の乾燥地帯、人口過密地帯、貧困地帯に要る36億人が、食物の自給が出来なくなる。
・現在にいたるまで、水というものは基本的に市場原則から除外された財であり、その価格は取水と排水のコストのみから成る、とされがちである。
もっとも、水はけして無限の財でないことは古来より人間の知るところであり、アダム=スミスやフランクリンの時代でも、効用と供給限界を鑑みた上での水の価格は 「安すぎるのでは」 と論じられてきた。
しかし、現在でも水は市場取引、自由競争の財として見做されることはほとんどなく、むしろ各国政府の独占供給、独占配分、独占価格決定のもとにある。
・水による 「生産性 (productivity) 」 は先進国と途上国の在り方を端的に表す経済指標といえる。
すなわち、水1立方メートルあたりの生産物を、その売価額面に換算して評価するというもの。
この額面が高いほど、水の経済効率が良いことになる。
アメリカの例では、1900~1970年まではおよそ6.5ドルだったが、そのご急速に額面が高くなり、2000年になると15ドルになった。
・最大の理由は、環境保護運動が高まったために発電・産業・都市の「廃水」 による公害規制が厳格化し、その廃水の浄化は汚染者負担の原則が定着化していったため。
いかに廃水を減らすかを追求する過程で、いかに水を効率的に使うかを産業界・経済界で追求していった所以。
・先進国では、おしなべてこの努力が継続されてきた ─ こんご生態系への理解と研究が進めば進むほど、改善はますます進むだろう。
とくに、本来的に水が不足しがちであったニューヨーク州の環境保全的で包括的な取り組みは注目に値する。
・対極にあるのが中国やインドで、そもそも廃水による汚染そのもののコストが巨大になり過ぎている。
たとえば、いわゆるグリーンGDPを算出すると、生態系復旧コストは経済成長による成果を食いつぶすほどになっている。
・なお、しばらく前の四川大地震はダムへの貯水の重量が地盤に悪影響を与えたため ─ という見方が真面目に論じられている。
環境との共存が勘案すべきリスクは、様々である。
・環境と文明の共存について、大別して2つの路線がよく引用される。
とくに水の利用についてまとめると ─
1つは、「ハードパス路線」 と呼ばれるもので、20世紀前半のアメリカや後半の途上国のように、巨大なダムを建設しテクノロジーと中央統括インフラを強引に導入。
こうして、経済効率を最優先にすえて、環境をまさに量的に改造していくというもの。
もう1つは、「ソフトパス路線」 というべきもので、既存の水供給を元手にその利用技術の効率化を進めつつ、経済活動における水の需要と供給能力を総じて弾力的にするというもの。
これはあわせて、文明のもっとも巨大な決定要因である生態系そのものへのダメージを極力抑制するという活動にもつながる。
・最近になって、水を需給の自由な調整をへて市場化、産業化させるという動きも活発にはなっている。
水を産業化した例としては、水道事業の民営化があり、多国籍企業が仕切り、年間で4000億ドル相当の世界的産業として推進している。
ちっちゃなスケールとしてはペットボトル水もあり、年間で1000億ドル相当の売り上げがあって、コカコーラやペプシコは公共水道水をハイテク素材で濾過しつつ1700倍の金銭価値を付加して売っている。
・水資源に本来的に乏しい国々は、必要な農産物や工業製品を水資源の豊かな国に生産委託し、そのコストを含めた生産物を輸入する、というオプションもとっている。
この輸出入取引の形態をとくに 「ヴァーチャル・ウォーター」 と称している。
こんご、ますます増えることが予想されている。
・水の配送インフラが未整備のため、水道管などの水漏れも依然として大きな問題である。
これらをまともに補修をするためには、この先数年だけでも全世界で3兆ドルはかかるであろうと概算見積もりがなされている。
・海水の 「淡水化」 は、第2次大戦中に南太平洋のアメリカ海軍兵に淡水を補給するという必要から、本格的な技術導入が始まっている。
蒸気圧の誘導を応用した熱脱塩技術などの試行錯誤を経て、さらに海水に高圧をかけて塩を濾過するという 「逆浸透法」 へと。
・この逆浸透法は多量の付加エネルギーを必要とするもので、浸透膜そのものの技術革新もとわれてきたが、21世紀に入るとずいぶん進歩し、低コスト化が進んだ。
実現可能性が高まる一方とされる、未来派技術の粋であり、この産業の市場規模は2005年には40億ドルだったものが2015年までには7倍にまで拡大する、という見方すらある。
実際、オーストラリアのパースでは供給水の1/5がすでに脱塩処理によるものという。
・ただし ─ 現時点での見極めによれば、脱塩処理による淡水の量は、世界で必要とされる淡水をほとんど満たさない希少なものに過ぎないともされ、すぐに水不足を解決する手立てとはなりそうもない。
・(これは僕の所感)
市場化、と聞いてすぐにカネを中心に思考を展開する経済無知がいるが、困ったものである。
経済は本来はエネルギー交換や物々交換や知識間の交換が理想で、それが現実的には出来ないから仕方なくカネという媒体があるのである。
通常、自由競争ではカネが一番用途も効用も多岐にわたるため、どうしても資本主義の形態をとりがちだったのは当たり前。
一方で、現実をふまえれば水こそが最も普遍性、交換性、優先性の高い財であることは間違いなく、となればその用途、効用をとっても物々交換経済の主要媒体として最有力候補たりえないだろうか?
そうなると、 「水本主義経済」 の時代がこれから到来しうるのだろうか?
これが最先端の未来派思考であるのか、或いは、退行的な思考放棄ととられ得るのか、それは今後の我々の常識と見識と想像力のすべてにかかってくる。
ただ、「水本主義経済」 においては、所有の独占や権利の随意な移転、そして納税を通じての権益配分などはこれまでのカネと同様には出来なくなるだろうから、反対する人間の方が圧倒的に多いだろうなぁ。
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<以下、近現代史にかかわるエピソードを列記>
・公衆衛生の観念はもともと古代ローマの時代にすでに存在していたが、ローマ帝国の瓦解とともに廃れていった。
コンスタンティノープルでは細々と受け継がれており、オスマン=トルコに征服されて以降に水道網や水力事業が復活した。
また、ベネツィアにも公衆衛生の観念はかろうじて残っていたが、地形的には常に淡水が不足しており、イタリア本土から給水船で水を運んでいた。
・産業革命の時代を向かえ、スコットランドのグラスゴーやエディンバラでは、蒸気機関および鋳鉄の利用による川の水の汲み上げ技術、ダムや水道が発展した。
・ロンドンでは、17世紀初頭のエリザベス女王治世下に、人口増にともない民間の長距離水輸送業も発展、ロンドンを支えたのはテムズ川の水で、水車ポンプも活用していた。
18世紀、ニューコメン蒸気機関のポンプも活用されはじめた。
だが、ロンドンでは19世紀になると人口増に応じた清潔な水を確保しきれなくなる。
一方、下水の量は際限なく増えていった。
・1817年にインドのコルカタでコレラが発生。
船舶の乗船者が世界中に撒き散らすことになり、またメッカに集まったイスラーム教徒たちはコレラを母国に持ち帰った。
アイルランド移民によってコレラは新大陸にも広まっていった。
・1831年、コレラがロンドンで大流行。
テムズ川は本来、潮汐に応じて水位が大きく変わり、よって下水=汚水は海に流れ出でる前にロンドン市内を何度も巡ることになる。
さらにずっと昔に埋めておいた汚水溜めも、攫ったりするものだから、どうしても疫病が流行る。
・1833年、テムズ川からサケが獲れなくなる (再びサケが戻ってきたのはなんと1974年だった)。
・テムズ川で、上下水道を厳密に区分すればよい、との知恵が出てきて、それは法令にもなるが、このころにはコレラが「細菌」であるという認識がまだ確立していなかった。
だから下水道そのものは杜撰で、途中で上水と交じり合い、1848年にはまたコレラが大流行することとなった。
・1861年、クラッパーが効率的な水洗トイレを開発、販売へ。
するとロンドンでは水の使用量が倍増し、よって汚水がますますテムズ川に還流されることになった。
ようやく、コレラの感染経路は水に違いない、との見識が麻酔医のジョン=スノウによって打ち立てられ、従来の自由放任経済論者の反対を押し切って議会と政府がコレラ問題に介入。
水硬性のセメントが下水管に採用され、下水はロンドン中心部から徹底的に離れたところでテムズ川に放流、それを荷船で海に投棄、という行政主導のネットワークシステムが出来上がった。
こうして、やっとロンドン市内からコレラ患者が消えた。
・ちなみにコレラ菌そのものが発見されるのはドイツのコッホによって、1883年になってからのことであった。
病原細菌説の登場により、同じく水媒体の超チフスの感染も抑止されるようになった。
話は前後するが、普仏戦争でプロイセンが大勝した最大の理由は、プロイセン側が伝染病対策を怠らなかったためで、一方のフランス軍は伝染病により甚大な病死者を出した。
なお、パナマ運河開設の工事初期には、蚊が媒介する黄熱病が甚大な死者を出したが、1914年の開通時には死者はほとんどいなくなっていた。
・水の殺菌処理は、20世紀にはいると大きく進歩、化学薬品、熱処理、紫外線、オゾン処理など。
1915年、ロックフェラー財団は全世界感染症撲滅活動を開始する。
1920年代になると、欧米の先進国では人口増にも関わらず清潔な淡水が不足することはなくなった。
・なお現在の汚水処理は、固形物を濾過、微生物で有機物質分解、化学焼く遺品による殺菌という3段階を経ている。
ロンドンのヘドロは海へは投棄せず、高熱で灰化し、廃熱は発電に転用している。
最終的な放出水は、テムズ川の水よりもきれいである。
★ ★ ★
・アメリカ植民地は東部が雨水農業の可能な大地と水源にもともと恵まれており、独立以前から大西洋沿岸の海洋物流はさかんであった。
英国植民地ということもあり、海洋型の文明であった。
内陸にも流れの激しい河川も多く、水力を活用しての銑鉄や鋳鉄の製造は英本国をしのぐものだった。
また、ニューイングランドの背の高い木は造船を盛んにし、なんと独立戦争における英国艦隊の1/3はアメリカ植民地による造船だった。
・アメリカは1783年の独立当初、西辺境はミシシッピ川、北は英領カナダ、南はスペイン領フロリダまで確保。
このスペイン領フロリダ部にミシシッピ河口のニューオーリンズがあった。
だがアメリカは最初からすでにアパラチア山脈以西~ミシシッピ流域の水運力や産業可能性に大注目。
ミシシッピ川の肥沃な流域は、ナイル川やガンジス川の2倍の広さがあり、その広さはアメリカ本土のじつに1/5を占めている。
・アメリカが英国と巧みに妥協しながら英領インド諸島との交易を始めると、スペインは英米の連携を恐れてミシシッピ下流域とニューオーリンズの航行権をアメリカに提供。
これでアメリカはカリブ海へのアクセスも可能となったが、そうなると今度はフランスが英米の連携を恐れて、カリブ海を巡ってアメリカと対立。
・1802年、ナポレオンは、砂糖とコーヒーの植民地であるハイチの奴隷反乱を抑えるために何万ものフランス軍をハイチ周辺に駐留させる。
これに慌てたアメリカは、英国との連携をちらつかせつつ、ニューオーリンズとフロリダをめぐってフランスと交渉するが、ハイチ駐留のフランス軍が黄熱病で倒れてしまい、このためナポレオンはハイチをあきらめ、新大陸にも消極的になり、ヨーロッパにおける英国との直接対決に方針転換。
・やがてナポレオンの公使タレーランとの交渉の結果、1803年にアメリカはニューオーリンズを併せたルイジアナをフランスから買収、広大なミシシッピ川流域を一気に得た。
(なお、ハイチはこののち独立してしまう。)
・1807年、ナポレオン戦争にアメリカが巻き込まれることを憂慮したジェファーソン大統領は対外貿易を停止、かつ、その狙いはアメリカ農業を保護することであった。
しかし、英国製の織物の輸入がとまると、むしろアメリカ国内の織物産業を加速化させることになってしまった。
すでにこのとき、ホイットニー開発の水力の綿繰り機によって、綿はアメリカ南部の主要生産物。
さらにホイットニーは、規格化部品そのものの工作機をも開発しており、アメリカの大量生産の端緒がおこっていた。
★ ★ ★
・1815年、フルトンが設計開発の蒸気船はミシシッピ川を始めて上流~下流間の 「往復」 を実現。
(それまで、木造船はすべて上流から下流までの一方渡航が普通であり、下流についた船は解体されていた。)
・このころ、既に大西洋の 「玄関」 となっていたニューヨーク州からアパラチア山脈をつきぬけて峡谷をいき、なんとナイヤガラの滝のエリー湖まで水路をつなげるという、巨大な構想が持ち上がっていた。
企画率先はニューヨーク州で、最初は既存のモホーク川をエリー湖までつなげていこうとしたが、船舶航行には不適格とされた。
代わりに、この川に並行して全長363マイルの大運河をエリー湖まで開削することになった。
これが世に知られる 「エリー運河計画」 である。
ニューヨーク州の夢はふくらみ、ゆくゆくはエリー運河をミシシッピ川へつなげよう、と。
・1817年、ついにエリー運河の開削工事が始まり、フランスへのルイジアナ買収債務支払い不安に始まるアメリカ国内恐慌にも関わらず、運河の開削は進められた。
むしろ運河建設によって、出資イニシアチブをとったニューヨーク州は好景気となり、他州が不景気だったため概して低金利で資本獲得もできた。
・1825年、ついに巨大なエリー運河が完成、初年度から7000隻もの船がこの運河を航行し、ニューヨークは大西洋と内陸部をつないで大発展していくことになる。
5大湖方面の鉄鉱石が東部諸州にもたらされ、鉄鋼業の大発展をもたらした。
また中西部諸州の農産物は東部沿岸を経てヨーロッパへと輸出されていくようになった。
・エリー運河がきっかけで、東部諸州から西部への大規模な人口移動も可能になった。
アメリカでは、巨大運河づくりがブームになった。
1840年になると、アメリカ人のじつに1/5がアパラチア山脈西部に移住していた。
・ちなみにこのころ、ニューヨーク州自身は水利に恵まれておらず大火災もあり、コレラ禍にも苛まれていたが、やがて下水道の整備が始まり、人家ではバスルーム設置も当たり前となっていく。
・なお、19世紀の半ば、ミシシッピ川の渡航船による貨物輸送量は巨大なものとなっており、「大英帝国」域内の貨物輸送量とほぼ同量となっていた。
・1848年、カリフォルニアのゴールドラッシュが始まった。
そこで、東部諸州を今度は一気に西海岸の諸州につなげる気運が高まってくる。
と、なると海上輸送ルートが模索されることになるが、ここで着目されたのがパナマで、パナマまで海路をいき、なんとかその地峡を超え、太平洋側に出てからまた海路をとって西海岸へ向かう、という構想が出来た。
パナマはコロンビアの集権下にあったが、アメリカはコロンビアに譲歩しつつもとりあえず地峡をつらぬく 「パナマ鉄道」 を開通させた。
・だがしばらくのちの1903年、アメリカはコロンビアからこのパナマ地峡そのものを買い取り、今度は大胆にそこを全部開削して運河を通すことに。
そして、1914年にパナマ運河が開通する。
もはやゴールドラッシュの西海岸へのアクセス、どころではなかった。
たった10年で船舶通行量は年間5000隻となり、スエズ運河と並ぶほどの勢いだった。
海路、パナマ運河を経て太平洋に躍り出るようになると、アメリカは軍事的な選択肢が大きく増えたことになる。
この時点でのアメリカの最大の仮想敵国は、もちろん全世界に展開している大英帝国であった。
★ ★ ★
・英国のアークライト系列の織物工場の熟練工サミュエル=スレーターは、その工場全体の設計をずべて暗記、農民のふりをしてアメリカに渡航し、ポータケットにおいてなんとそれを再現し、水力駆動の綿織物工業を発展させた。
・フランシス=カボット=ローウェルは、英国に滞在中にマンチェスターやバーミンガムの綿織物工場設備をやはり 「暗記」 し、アメリカに戻ると原綿から布地までの機械式織機をつくりあげる。
河川そのものも滝やダムで加工し、水力そのものも増強しての運用を始めた。
やがてローウェルという町となり、アメリカ最大の綿織物製造地となった。
・ローウェルの工場では、動力源の水車の出力にさらなる工夫を重ねるうち、蒸気機関を凌駕する出力を達成、やがてこの過程で1848年には水力タービンが開発される。
開発した技師、フランシスの名をとって、フランシス・タービンと称され、このフランシス・タービンはずっとのちにナイヤガラの滝の電力化にとって1万馬力を出せるようになった。
水力発電の画期的なイノヴェーションであり、アメリカは水力発電の大国となっていく。
・西部諸州の農地の灌漑、開墾の効率=農業生産性を向上させるため、1902年にセオドア=ローズヴェルト大統領は 「開墾法」 を成立させた。
これはホームステッド法以来の伝統的な自営農地開拓の精神に反し、政府主導の農地灌漑・水利化を目指すという、革新的なもの。
政府が率先ゆえ、協力する農業経営者への補助金貸付もはじまった。
・西部諸州の灌漑農業はもとより、さらに発電、洪水管理、船舶航行の促進と、すべてを解決する手立てとして、大河川における巨大ダムの建設構想がおこった。
1922年、巨大な水量を誇るコロラド川を有する各州がその水量を分かち合う取り決めがなされ、1929年に大統領に着任したフーバーはコロラド川に 「ボールダー峡谷ダム」 の建設を開始させた。
ところが同時期にアメリカは大恐慌におちいり、1933年にフーバーに代わってフランクリン=ローズヴェルトが大統領に着任すると、このボールダー峡谷ダムをはじめ巨大なダム建設工事をいわゆるニューディールの柱にすえた。
各所の巨大なダム工事に、全米の失業者の25%が従事した。
・1936年、巨大なボールダー峡谷ダムが完成、ダムのコンクリート量はアメリカ大陸横断のハイウェイのそれに匹敵する量。
そこに、人口貯水のためのミード湖がつくられた。
ちなみに、このダムは企画元の大統領の名をとって、フーバー・ダムと改称された。
巨大な水力発電の時代が始まり、あわせて、その水力発電の売り上げが大農家の農地灌漑の補助金を支えていき、農業族議員が既得権益を調整していく時代へ。
・コロラド川のさらに10倍もの水量を有するコロンビア川には、1941年にグランドクーリー・ダムが完成。
これはフーバー・ダムの3倍のスケールのもので、全米の水力発電量の半分を生み出した。
なお、このグランドクーリー・ダムの完成わずか5日前に、日本軍による真珠湾攻撃があったが、このダムの発電は航空機とアルミニウムの大量生産を可能とし、ひいては第二次大戦におけるアメリカの圧倒的な軍事的優位性の源泉となった。
ワシントン州コロンビアのハンフォード軍事施設にまで給電され、そこでプルトニウム239が開発されることになる。
・アメリカの巨大ダム建設は1970年代以降に下火となるが、それは巨大なダムが主要な河川に作られすぎてしまい、更なるダム建設の経済効果が無くなったため。
時代は前後するが、コロラド川の水はダムの止水と灌漑過程での蒸発のため、いちばん下流のメキシコに届かなくなり、メキシコの土地は塩類化が進んでいった。
これは生態系をも狂わす問題として、60年代から70年代に意識を高めていった。
・コロラド川流域の諸州では、2007年に 「非常事態協約」 が成立した。
背景を雑記すると ─ 南カリフォルニアで極度に灌漑農業を優先してきた状況に、テキサスの投機筋と水不足のサンディエゴの意向もからみ、コロラド川の水利権を活用せんとしてきた一方で、アリゾナやネヴァダ州などが取水しすぎてコロラド川の水量そのものが減ってしまったため。
ここで事態を重くみた内務省が、南カリフォルニアをはじめ関係諸州にコロラド川の水量割り当て制限を課して、関係諸州がともに妥協しあう非常事態協約となった。
灌漑農業と補助金における既得権益が、利益享受者と不満組の間で大騒ぎをもたらし、やっと合理的な妥協に至ったという好例。
・この非常事態協約によって、関係諸州ではコロラド川の水の効率的な活用に積極的に取り組むようになり、水の使用料と他産業の諸コストを金銭取引するなど、柔軟なビジネス機運も拡大しつつある。
★ ★ ★
・アメリカの大西部、グレートプレーンズの地下深く、オガララ帯水層というおそろしく広大な水源がある。
コロラド川の水量に換算してなんと235年分に相当する水量がある、いや、あった。
この地下帯水のうち2/3はネブラスカ州の下。
・第二次大戦が終わると、ディーゼル駆動の遠心ポンプの活用がすすみ、可動式スプリンクラーの導入も手伝って、オガララ帯層の水はぐんぐんと汲み上げられてグレートプレーンズを大灌漑農地に変えていった。
1980年代までに、これによる灌漑農地面積は1400万エーカーになった。
一方、オガララ帯層の水は、少なくともテキサスとカンザスでは貯蔵量の30%を使い果たしており、2020~2030年のうちに枯渇が予測されている。
・樹木の年輪による長期的な気候変動予測によれば、アメリカ南西部はこれまでがむしろ湿潤期で、今後はどんどん乾季(高温化)にむかうという。
★ ★ ★
・アラビア半島諸国ほか、リビア、イスラエル、パレスティナなどはいわば砂漠そのものに近く、独立後に食糧自給のための必要水が得られなくなった。
取水可能な水に恵まれていると見做されたヨルダンやエジプトでも、1970年代には水危機に陥った。
しかし、同時期にオイルマネーで儲けたため、そのカネを食料輸入に充てて当座の危機をしのいだ。
・1956年、エジプトのナセルは、ナイル川に巨大なダムを建造するヴィジョンを掲げて大統領となった。
スエズ運河国有化など反欧米路線をゆき、第二次中東戦争もひきおこした。
そして、ソ連の技術を取り入れてダム建設へ。
ところがソ連の技術力が低過ぎてダム建設が進まぬと判ると、今度は西側の建設機器を購入した。
・ただし、ナイル川の水はすべてエジプト国外、つまり上流国から流れ込んでくるもの ─ すなわち、エチオピア、スーダン、ルワンダ、ブルンジなど、現在まで続く貧困国、紛争国である。
とりわけ、エチオピアはこのアスワン・ハイ・ダムの建設時から、エジプトへの敵対心が根強く、エジプトとスーダンだけがナイル川の水量を事実上独占するという 「ナイル水利協定」 にも憤懣。
そこにイスラエルが忍び寄るという構図もあった。
・1967年6月のいわゆる6日間戦争 (第三次中東戦争) は、ヨルダンの水の奪い合いがきっかけ。
サウジの資金的な後押しで、ヨルダン川上流に位置するシリアがイスラエルに無断でダムを建設し始めたことから。
この戦争にあっという間に大勝したイスラエルは、逆にそれまで確保できなかったヨルダン川水系のほとんどを支配下におく。
域内のパレスチナ人は農地灌漑の自由が大きく損なわれ、農地が減っていった。
なお、このときイスラエルが確保したヨルダン川西岸地区には、巨大な帯水層が確認された。
・イスラエルはヨルダンとの間では水路の安定確保を互いに約束していたが、その理由はヨルダンこそがPLOゲリラの拠点であったため。
水を担保に、PLOがイスラエルを急襲しないように、との取り計らいだった。
・しばらく後に、イスラエルはゴラン高原も併合し、有力な淡水湖であるガラリア湖を手中に納めた。
・1969年、リビアのカダフィは革命で実権を握ると、「大人工河川プロジェクト」 に着手した。
オイルマネーを元手に、なんとサハラ砂漠の地下の帯水層の水を取水し、それを地下水同網を経て地中海沿岸の主要居住区まで引っ張ってくるというもの。
この地下帯水層こそが、いわゆる 「ヌビア・サンドストーン帯水層」 であり、その淡水埋蔵量は500億エーカーにも及ぶとされ、現在まで知られる世界最大のものである。
但し、やっかいなことにこの巨大なヌビア・サンドストーン帯水層はリビアだけが占有しているわけではない。
エジプトもチャドもスーダンも共有しているのである。
・1971年、エジプトではナセル死後わずか4ヶ月して、ナイル川に壮大なアスワン・ハイ・ダムが完成。
これがナイル川流域を安定した灌漑農地へと変えていった。
このダムの貯水湖(通称、ナセル貯水湖)は、ナイル川の年間水量のじつに倍以上を貯水、またダムによる水力発電はエジプト国内の電力の半分をも担った。
・だが、エジプトは他国の貧困を犠牲にして自身のみが生存している、との見方もひろまり、エジプト国内では敵国イスラエルがいつかアスワン・ハイ・ダムを攻撃するのではとの疑心暗鬼が高まっていった。
これこそ、1979年にサダトがイスラエルと平和条約を結んだ重大な背景事情のひとつ。
エジプトはこれにより寧ろ国際的な評価が高まり、イスラエルについで国連支援の受益国となった。
・同じころから、ナイル川は20世紀最悪の渇水期にはいり、農地灌漑水量と発電が危機的状況に陥った。
しかし1988年、ナイル川の上流国エチオピアとスーダンに大規模な降水があり、ナイルの水はふたたび豊かになるどころか、今度は一転して最高の豊水期に入った。
・また、同じころにイスラエルでも旱魃が起こった。
イスラエルは農業用水への補助金を引き下げることで、従来優先されてきた灌漑農地への水利用を削減させ始めたが、これは世界的に見ても画期的な大英断である。
・1990年、トルコに大規模な 「アタチュルク・ダム」 が完成。
世界各国で、歴史上の偉人や有名人の名をダムに冠しているのは、面白いというか切迫感すら伝わってくるもの。
このダムの貯水湖は、備えられたユーフラテス川の年間水量の5倍もの容量がある。
・このアタチュルクダムなどをもとにトルコが遂行させたのが、「南東アナトリア開発計画」 である。
そもそも、ユーフラテス川の水のじつに98%は、トルコの南東アナトリア山岳地帯に端を発している。
(ちなみにティグリス川の水の半分もトルコが水源である。)
だがこの計画は、ユーフラテス川下流域のシリアやイラクの取水を大きく損ねるものであった。
そこでシリアは、南部アナトリアの反体制勢力であるクルド人と通じ始め、さらにシリアをイラクのサダム=フセインも支援した。
フセインは、アタチュルク・ダムを爆破してやるなどと発言。
これでイラクが水不足であることが却って知られるところとなり、湾岸戦争が始まると多国籍軍はイラクへの給水を封鎖。
・1991年、リビアのカダフィが待ちに待ったヌビア帯水層からの最初の大地下水道網が開通。
アメリカ石油資本の大々的な協力によるものであった。
但し ─ これを包括する 「大人工河川プロジェクト」 が仮に完成しても、リビアの食料生産需要の半分も確保できない、というのが現在までの冷めた見方でもある。
かつ、このままプロジェクトを進めていけば、ナイル川流域国(エジプトやスーダンやチャド)の地下水面が低下していくことも指摘されている。
・1993~94年のパレスチナ暫定自治協定で、イスラエルはヨルダン川西岸地区に居住するパレスチナ人に地下帯水層の開発の自由を認める。
だがパレスチナ人居住区の帯水層はほとんど取水が出来ず、有用な帯水層は依然としてイスラエルが独占していた。
こうして、和平プロセスは瓦解していった。
・1999年、世銀が支援する 「ナイル流域イニシアティヴ」 は、今度こそナイル流域諸国が共同で河川を開発するモデルケースか、と思われた。
しかし実際は、エジプトが人口増加のための居住地拡散をはかり、砂漠への引水と緑化をはかるものであった。
そして現在まで、ナイル上流地域の諸国は依然として水不足のため飢餓と内戦が続いている。
たとえばスーダンは未来のアフリカの穀倉地帯たりうると期待され、ナイル川流域全般でみれば3/5を占めるほどだが、耕作可能とされる土地の1%しか灌漑が進んでいない。
・現在、当のエジプトでも使用可能な淡水がだんだん不足し、穀物輸入が増え続けている。
どこでもあることだが、ふんだんに使われてきたナイル川の水は政府補助金つきで農家に優先的に配分され、その既得権益が硬直化してきた。
ゆえに農業政策が弾力的に改善されない。
・ナイル川の水質自体も変わってきた。
巨大ダムのために、シルトが下流域に流れていかなくなり、土壌の塩類化が進んでいる。
これでは農業生産性も落ちるが、人口集中の肥沃なデルタ地帯が逆に地中海の海水に侵食されつつある。
・一方で、エチオピアやスーダンはエジプト離れを進め、ナイル川上流に大小のダムを好き放題に建設。
それどころか、エチオピアの青ナイル部の周辺に巨大な地下帯水層が発見されるにいたり、いまやエジプトの方がエチオピアにすり寄っている。
・2001年、レバノン南部のシーア派がシリアと組んで、ゴラン高原から引水するパイプラインを建設しようとしたが、イスラエルはこれを戦争挑発だと激しく非難した。
現在に至るまで、ゴラン高原とヨルダン川の水の分配についてはイスラエルとパレスチナとシリアが互いに譲らす、緊張状態が続いたまま。
・そもそもレバノンもシリアも、イスラエルに比べれば水はけして不足状態にはないわけで、政治的な国際紛争がゴラン高原とヨルダン川の水の奪い合いと複雑に絡み合った格好。
そこにユーフラテス川上流のトルコと、トルコ内のクルド人と、イラクまでもが絡み合って、ヨリ混迷した情勢になっている。
・ソ連は1917年の共産主義革命で発足してから60年間で水の使用量を8倍に増やした。
その源泉は、ボルガ川、ドニエプル川、ドン川、ドニエストル川といった大河川。
収容所の労働者を無償で働かせての、取水や引水であった。
・アラル海の消失は、「水のチェルノブイリ」 と呼ばれる。
1950年代以降、ソ連政権下で中央アジアの乾燥地帯を巨大な綿花地帯に変えるため、強引な取水継続を続けた結果、アラル海の水が干上がった。
21世紀の現在、アラル海の一帯はむしろ乾燥化が進む一方で、綿花栽培も出来なくなっている。
以上