2013/06/10

【読書メモ】 経済思想の巨人たち ② ─ 自由と正義のフォーマット

の続き

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【シュンペーター(1883~1950)】 ─ 創造的破壊としての資本主義

ウィーンで学び、わずか25歳で『理論経済学の本質と主要内容』を刊行、更に有名な『経済発展の理論』や『資本主義・社会主義・民主主義』を著すなど、資本主義の研究者として卓絶、斬新かつ天邪鬼な論法で鳴る。
第一次大戦後に大蔵大臣に就任、さらに銀行頭取も勤めるが、これらの再建実務においてはいずれも失敗。
なお、同年生誕のケインズに同調しなかったにも関わらず、渡米後にハーバード大学で自ら育てた弟子たちの多くはケインズ支持者となった。

・シュンペーターの「創造的破壊」論によれば ─ 資本主義経済において伝統的な前提、つまりあらゆる生産力が高まりコストが下がり、ついに利潤差の無い完全競争状態の実現に至るという論理は全く間違っていると。
実際には、新規イノヴェーション及び、低コストと高品質化を実現する生産技術が、常に特定の企業の利潤拡大と市場支配力をもたらすのが当然、つまり資本主義とは必然的に独占的な優位を目指す競争であるという。
むろん、この独占も常に一時的な優位に過ぎず、新たなイノヴェーションをもって挑戦してくる参入者に淘汰されそこに新たな独占者が立つもやむなしである。

・「経済発展の理論」においては、資本主義が滅びることになっている、が、それはマルクスやケインズが指摘するように資本主義システムが欠陥を内在させているからではなく、資本主義をきっかけに「経済的な進歩が自動化する」と新たなイノヴェーション企業も精神も無用となり、だからその擁護階級も消えていく一方で、技術者や知識人は敵対的になるためであると。
その過程において、不確実性も浪費も失業も租税も無くなる国家直営経済、すなわち社会主義(あるいは更に共産主義)のシステムへの移行が必然展開であると説いた。

・シュンペーターにとって民主主義はあくまで意思決定の制度的装置であり、だから民主主義は経済体制を決定する必然的(強制的)な目的ではなく、市場経済そのものでもないとした。

・ シュンペーターへの批判として、アメリカなどに顕著な独占型の資本主義経済が、現在に至るまで企業家精神の衰退に陥ることなく創造的破壊のみ連続しているという旨が挙げられる。
また、シュンペーターは社会主義体制が(資本主義に対抗しうるほどに)市場経済を効率化し得るかどうか実際には見届けていないではないか、そして、現実の社会主義体制の国々は民主主義の否定にすら至ったではないか、との批判もある。
実際、イギリスや北欧に見られた国有化や福祉国家路線においては、国家が資本主義の活力の操作をすることこそあれ、資本主義の破綻と社会主義体制への必然にはつながっていない。

シュンペーターに対するこのような批判が永遠に正論かどうかはわからない。
ともあれ、資本主義がやがて行き詰まり必然的に社会主義体制経済に移行するというシュンペーターの説は、「少なくとも今のところ」現実化はしていない。

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【ケインズ(1883~1946)】 ─ 資本主義の医師

・イギリスの裕福な名家で生まれ、秀才として育ち、経済学を活用しつつ投資家、企業家として高いセンスを発揮。
一方、図抜けた知性を買われ第一次大戦の戦後処理に大蔵省首席代表として参加、ドイツに課された賠償金が更なる欧州波乱を導くと予見、更に30年代の大恐慌時代において有名な『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著し、経済学のパラダイムシフトをもたらしたとされる。
いわゆるブレトンウッズ体制(ドル基軸通貨体制下のIMFと世銀による国際経済)の構想者の一人だが、これら設立直後に死去。

・裕福に過ごし続けたケインズには、資本主義に便乗する強欲メンタリティへの嫌悪も有ったが、といってアカデミズムを弄ぶ経済学ごっこに染まることもなく、着想の多くを実務家としての経験に依っていた。
一方では、現実と理想の自然解決を期待するミクロ分析もよしとせず、寧ろ経済全体の諸要素の変動要因と因果関係をモデル化し、そこから最適解の経済政策を導き出すダイナミックな新型のマクロ分析経済を興した。

・ケインズ流のマクロ経済分析では、経済学者が汎用する「均衡」概念はあくまで完全雇用を前提にしている点、非自発的な失業は生産機会が希少かつ需要も増えないために発生してしまう点、労働賃金が労働者の意欲よりも下方硬直的であるため労働者が余ってしまう点、一方でかかる民間市場の需要を政府が強制的に操作は出来ない点 ─ といった諸問題が端的に導かれている。

・よって、総需要増大のために政府が支出を増やせばよい、との解答が提示されており、この政府支出が民間の投資と生産と消費を連環的に逓増させ(つまり有効需要が機能し)、市場規模を拡大しながらGNPや国民所得を増やすはずである、というのが(誰でも聞いたことのある)乗数効果である。

・同時にケインズは、古典派経済学以来の「貨幣数量説」(貨幣は一般財の交換媒体に過ぎないためその量の超過はインフレをもたらすだけ、云々)を克服、あくまで市場即応タイプの実務家として、「投機的動機による貨幣需要」の重要性を理解。
貨幣も一般の財貨と同様に市場において需要(利子率)が変動すると捉えつつ、それらの市場が同時に均衡に向かいながら国民所得も利子率も定まる、というモデルを提示した(経済学の基本で学ぶIS曲線とLM曲線である。)
だからこそ、「国民所得も投機需要も物価も全て併せて上昇させるためには」貨幣流通量の増大のみでは不完全であり、政府支出を増やすべしと説いた。

・なお、政府支出の源泉として挙げられたのは国家予算に加えて国債であり、国債発行によって財政がたとえ赤字に陥ってもそれはGNPの拡大とともに増える税収で「いずれは」賄える、という。
(※ これは現代に至るまで世界各国の政策論争における実に大きな論点、争点である。
国債発行による財政赤字は永遠に続いてしまう、という論陣もあれば、実際に大恐慌に際しての財政赤字でさえもその後のGNP拡大で克服したと反論する論陣もあり、互いに保守、革新、小さな政府、大きな政府、右派、左派などとレッテルを張って罵り合っている。)

・1970年代に先進国を襲ったスタグフレーション(インフレと失業増大のダブルパンチ)の局面において、その理由は先進国で概ね需要ではなく産業供給力・技術力が鈍化したためであるとされた。
需要の強化増大を解決策に据えてきたケインズ型の財政政策はここに否定され、以降も積極的には見直されることなく今日に至る。

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【フリードマン(1912~2006)】 ─ 自由主義の説教師

・第二次大戦後のアメリカを代表する経済学者の一人で、マネタリズムと自由主義経済の代表的な推奨者で、ケインズ経済政策に反論しつつ、「選択の自由」「政府からの自由」「自由な資本主義」を徹底擁護する立場をとった。

・ ケインズの唱えた国債による財政支出政策は、国民所得を確かに一時的には増やし、また国債購入した国民は自らの資産が増えたと諒解するであろう、が、「実際には貨幣の供給量は一定」であるため貨幣の需要(利子)が上昇し続けることはなく、需給はすぐに均衡し、ゆえに国民所得はまたもとの水準に戻る ─ とフリードマンは論駁した。

・かつ、政府の支出が仮に増えたとしても国民が即応して消費を増大させることはなく、むしろ不安定な将来に備えて多くは貯蓄に廻る、ゆえにケインズ流の乗数効果は期待出来ないとも指摘(恒常所得仮説)。
むしろ物価上昇だけが常態として政府にも国民にも認知されるため、インフレを亢進させる一方であると。
尤も、70年代のスタグフレーションとケインズ政策の失敗を直接予測した論ではない。

(※ のちに「合理的期待仮説」を主張する経済学者たちも、これらフリードマンの指摘に則っており、国民は政府の行動を見て将来の増税などを予測、先回りで自らの消費方針を決めてしまうなどと説く。)

・フリードマンらの推す「マネタリズム」は、ケインズが超越したはずの古典派経済学の「貨幣数量説」を更に精緻に練り上げたコンセプトで、基本的に貨幣供給量は財貨の供給量に応じ、インフレを抑制することに主眼を置く。
一方で、ケインズなどが重視した貨幣の投機需要そのものは、資産インフレとバブル投機を引き起こし得る反面、市場全般の需要触発や国民所得の増大をもたらすとは限らない、とする。
そこでフリードマンの提案としては、貨幣当局が「貨幣の需要量を問わず、貨幣供給量の増加率を一定のパーセントに固定せよ」と。

・その一方で、実際の中央銀行が金利の安定を重視し、貨幣の需要量に応じて貨幣供給量を決定し続けてきたことをフリードマンは厳しく批判している。
なお、80年代に入ってもフリードマンはマネタリストの立場からインフレを警告し続けたが、先進国が供給力重視(サプライサイド)の自由競争を推進したため、フリードマンのインフレ懸念は的中しなかった。
加えて、マネーゲームの国際的な拡大も相まって、貨幣の需要量と供給量の関係はいよいよ不安定となっている現状であるため、フリードマン流のインフレ抑制策は旗色が悪い。

・フリードマンはあらゆる経済主体の自己責任原則に徹底的に論拠し続け、たとえ政府が低所得者層を救済するに際しても社会保障コストそのものを増大させる施策には反対を貫いた。
代わりにフリードマンは有名な「負の所得税」を提唱、これは国民の一定所得水準をまず定め、それに満たない貧困層に対して所得余裕層が自動的に給付するというシステムである。
尤も、この「負の所得税」システムの導入が事実上難しい理由は、一定所得水準の策定方法もさることながら、貧困層救済の社会保障に便乗して予算枠を広げてきた官庁や公務員を否定する税制たりうるためである。

・フリードマンの規制撤廃論は教育にも医療にも及び、いずれも国家による規制がすなわち干渉となる由を危惧する。
高等教育の学生支援には奨学金のみならず授業料クーポン制バウチャー導入を提案(そもそも政府による教育補助金は国によっては憲法違反ではないか?)
医師の国家試験も無用と説き、医療とて自由競争市場におかれれば医師の技量向上も事業効率化も進むとし、一方で政府による医療保険制度などは破綻する、と説いた。

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【ハイエク(1899~1992)】 ─ 20世紀のアダム=スミス

・ハイエクは社会主義への反対はもとより、ケインズ主義にもマネタリストにも疑義を唱えた、極めて斬新(あるいはラディカル)な自由主義経済論者で、「自生的秩序」を説いた。
ケインズと意見交換も行いつつも、著書『隷属への道』において市場経済への政府の介入を「忍び寄る社会主義」と非難。

・ハイエクは、ケインズのモデルが根拠のはっきりしない集計数字に依っている上に、それを操作し得るという前提に立っている由を指摘し、ゆえにケインズの論は「知的誤謬」に過ぎないと指摘。
各個人が随意に自由に動かしている市場の秩序を政府が制御するという発想は、科学万能主義に依っている社会主義同様におかしい、とした。

・フリードマンらのマネタリストがマネーサプライ(貨幣供給量)の伸び率の一定化による物価変動の抑制を説くと、ハイエクはこれもまた国家による経済管理であるとして反対。
ではハイエクの主張はといえば、それは貨幣の国営化を「廃止して」、複数の経済主体に複数貨幣の自由な発行・流通を認め、一般の財貨とともにそれぞれの自由な貨幣も常時競争させるという大胆なもの。
もちろんここでは価値の低い(財貨の購買力が弱い)貨幣は交換市場でどんどん価値が下落し淘汰されるので、グレシャムがかつて述べた「悪貨が良貨を駆逐…」の事態が進行することはない。

・ハイエクは民主主義もナショナリズムも自由を抑圧しうる制度であるとし、ゆえに不要であると考えた。
国家の存立意義は、といえば、それは市場経済における「交換の正義」の維持のみである、とし、社会的正義の名目で政府が介入し市場を歪めることは許されないとした。
とはいえ、市場が機能しない住宅、農業、環境の諸問題においては政府介入も認め、民主主義を成立させる以上は最低限の教育政策も必要と認めている(が、ただし国家運営の学校は不要といった)。

・ハイエクが説いた「自生的秩序」は、ケネーやアダム=スミスの主張の論拠でもあった自然法(=自然権)であり、かつそのうちでも「神や合理という虚構性」を排除した原型、つまり「人間本来の交換の正義」のみが自生的に形成したはずの秩序をいう。

(※ とはいえ、我々人間の歴史と現状においては、暫定的とは分かっていても市場経済は何らかのルールとコントロールに基いて運営されざるを得ず、そういう試行錯誤の連続でさえも「自生的秩序」の一環である…
とするならば、或る時点において定められている或るルールを無用だの悪徳だのと排除することは簡単ではない。)

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【ブキャナン(1919~2013)】 ─ ケインズ主義への破産宣告

・ブキャナンは『公共選択理論』という新分析分野を確立、従来の経済学で超然的な前提とされがちであった国家財政でさえも私人一人ひとりの欲得選択の集積に過ぎないと指摘し、そのダイナミズムを経済学分析の対象に据えるに至った。
ケ インズ政策を徹底的に批判したが、その論拠は、政府支出増大による乗数効果の虚構性(マネタリストが指摘のとおり)のみならず ─ 国家がたとえ民主主義 で運営されようとも財政赤字は文明世界の必然的な傾向であり、一時的な対処療法でそれが自律的に均衡するはずが無い、との前提にある。
ゆえに、収支均衡財政を意図的に目指さなければならないとした。

・ブキャナンの捉える民主主義(代議制)とは、有権者も政治家もともに減税支持に走り、かつ、ともに地元権益の優先に走るシステムである。
だから政府へのチャレンジはどうしても支出拡大要求となり、この要件を満たすためには政府が赤字国債を発行し続けなければならないとする。
かつこれは租税のような強制徴収ではないため、誰も反対し得ない施策であるとする。

(※ さらに日本などでは政府側さえもナワバリ争いで支出増大を図る傾向がある、が、しかし各人の私益追求が人間の本性であり経済の本質でもあるのなら、これは民主主義システム以前の倫理の問題ともいえよう。)

・ケインズ流の赤字国債による景気刺激策とは別に、もともと国債増発による財政赤字を正当化する伝統的な論法として「税を新たに徴収してそのカネで国債を償還しても、カネの移転が起こるだけで、国民全体の富は変わらない」というものがある。
さらに歴 史的な常策として通貨大増刷(あるいは江戸時代の大名のような債務返還拒否)などの強攻策もある ─ が、これらに対してブキャナン流に切り込めば「国民 全体」という経済主体の前提がそもそも虚構であり、そんなマクロな帳尻合わせをしたところで国民一人ひとりの私益集積である経済の打開策とはいえない。

・財政赤字が民主主義の(あるいは人間社会の?)宿命である以上、ブキャナンの提案は、国家による「収支均衡財政」の原則を憲法に記すことである。
むろん、これだけ設定したところで、不況期における国債大増発を正当化し、かつ好況時には税収が増え過ぎるがゆえにこそ、どうしても政府支出を増大させることになる。
そこで、(既に先進国で実践が課されているように)財政赤字残高を対GDP比で一定範囲内(2%など)に抑えることを義務付け、これを逸脱してまで赤字国債を増発するに際しては国民投票にかける、といった法的枠組みが模索され続けている。

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【コース(1910~ )】 ─ 市場と企業と法の経済学

・ロナルド=ハリー=コース、イギリスで第二次大戦前から経済学を教え、戦後はアメリカで活躍。
「なぜ企業が組織されるのか」という、どの経済学者も取り上げなかった領域に挑み、さらに公害などの外部不経済と法の相克も指摘。
コースが切り開いたこれら新たな経済思想フォーマットは、産業テクノロジーと民主主義の間で高まる一方の緊張を小気味良いほどに予言した「現代的」なものである。

・コースの『企業本質論』によれば ─ 必要なものを全て市場から新たに調達し何かを生産しようとする場合、個別の情報収集から契約履行に至るコストが高くなり過ぎると、その市場がむしろ企業組織と成ることで互いのコスト削減を実現する。
こうして社内の「垂直統合」「終身雇用」、さらに分業固定化の「企業グループ」関係を成立させることで、それら内部では新たな市場取引が排除されていくとする。

・とはいえ、そうやって組織化された企業が或る一定規模を超えると、今度は社内の管理コストが高くつきすぎるため、別の小さな企業との分業形態にうつる、とコースは分析する。

・コースはまた、『社会的費用の問題』 において、煤煙や騒音などの公害、環境破壊といった「外部不経済」の解決のための社会的コストと法の在り方についても指摘。
「コースの定理」では、まず法的な枠組みや企業側の防護策や補償金がどうであれ、当事者間の自由な交渉における取引費用が差し引きゼロであれば、その最終解は経済全般では損得が無いはずである、と。
だが普通は、当事者間の取引費用はゼロには収まらないため、法的枠組みが当事者間のバランスを図り、最終解の在り様を決定するとする。

(※ そこでたとえば、一般消費者保護のために企業の製造物責任(PL)が法として課されるに至る。
さらに公害問題においては、当該企業の過失はおろか無過失までも訴求する法的枠組みの妥当性、一方で政府によるコストと責任のバランスなど、最終解へのフェアネスの追求はいよいよ問われるところである。)

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【アロー(1921~】 ─ 市場と民主主義の限界

・ケネス=アローは記号論理論の表記法を駆使しつつ著した『社会的選択と個人の評価』の他、『不可能性定理』の研究でも知られ、市場や投票などの分権的なシステムに内在する矛盾を指摘しており、それら新規的な着想と分析手法によって、経済学を更なる現代的な学術分野へと拡大する端緒となった。

・アローの『不可能性定理』によれば、個人の嗜好の集約から社会の嗜好を必ず導く民主的な(多数決の)システムは「在りえない」。
いわゆる「投票のパラドックス」で、多数決の集積の結果としての「全員の最終意思決定」は、個々の構成員の意向の集積と異なった結果をもたらし「うる」、というもの。

・アローは、倫理が一定水準に達していない無法の社会においては「交換の正義」が成立し得ないため、そういう社会では市場経済はどうしても投資効果よりコストの方が増大するため発展しえないと指摘。
(※ とはいえ、倫理的な崇高さが必ずしも財貨の品質を保証するわけではなく、市場経済の発展を導くとは一概には言えないこと、あわせて明らかではある。)

・アローの諸々の指摘は、数学ファンを小躍りさせる思考ゲームにあらず ─ 人間の意思決定の不確実性や倫理まで問い求めつつ、現実に設定されている法的枠組みや政策決定ルールの有効性を判別せんと、研究者の創造的な意欲を掻き立てる魅力十分。
経済学の学際的なアプローチを切り開いた元祖の一人といえる。

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【ベッカー(1930~)】 ─ 経済学で人間行動を分析する

・ゲイリー=ベッカーは、師にあたるフリードマンによれば「経済分析の領域をここまで広げた経済学者は他にいない」とされ、ミクロ経済学の分析方法の汎用化に努めつつ人間の行動学を模索。
とはいえ、ベッカーの学際的なアプローチは人智の限界を設定し異分野に干渉する為ではなく、むしろ一見不合理にすら見える人間の行動を利益と不利益の判断から説明せんとするもので、どこまでも経済学である。
米ビジネスウィーク誌への寄稿でも知られている。

・ベッカーの説く「差別の経済学」によれば、ある市場取引関係において、その当事者が人種・宗教・性による敵対的差別を心中に備えている場合、その(差別係数を加えた)取引コストはそうでない取引関係のものより高くなる、と指摘。
これはいわば敵対国に対する輸入関税と同様で、敵対者との取引は双方にとってコスト高となり、利益をもたらさない 
─ ということが当事者に分かっているから、心中の敵対的差別を払拭しない限り雇用差別は克服されないとなる。

・ベッカー流の説明によれば、犯罪は自分の利益のために他人に不利益を生じさせ、しかも自分自身は刑罰という不利益を逃れようとする、という意味で合理的な行動であるとする。
だからその抑止策としては、刑罰を厳しくすることで犯罪のコストを高めてしまえばよい、というのが経済学による判断である。

・ベッカーが人間を経済的な損得から捉えてきたのは、それらがまず人間の行動を左右するインセンティヴであるからに過ぎず、もちろん損得勘定が人間の崇高な本性を全て説明する訳ではないこと、言うまでもない。

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<あらためて、所感とまとめ>
本著は上に列挙のとおり、経済学および経済政策の歴史、範疇、パラドックス、拡大解釈と転用、革命的着想、異分野との融合などなどについて概括されたものです。
著 者の竹内氏の適宜批判的な注釈も相まって、なかなか思考鍛錬としても楽しめる「巨人たち」の思想列伝となっており、そこを読み解く楽しさもあってここに挙 げ、かつ、竹内氏の意向を僕なりに汲んだつもりで「人間の許容されるべき自由と保持されるべき正義」の観点から略記メモした次第。
もちろん、ベッカー以降にも、ヨリ精緻にかつ演繹的にそして学際的に経済学を発展させてきた学者は多いものの、とりあえずはここまでで経済学と経済政策の基本フォーマットくらいは確認し得たのではないかと考えています。

但し、どうしても考えておかなければならぬことは、経済学は特に国民一人ひとりの自由な「需要」の捕捉力がまだ弱く(それがどこまで可能かは別として)、ゆえに「最も望ましい産業(供給)分野」の在り様を説く学説も政策論も未だ出てきていないという現状です。
一方では自称「経済通」がどこかの金融機関に洗脳されて債券証券の売買に走り回っており、つまり経済学は自然科学にみられるような「資源(input)」と「効用(output)」のリンケージ確立には到底至っていないように見受けられます。

尤も、もともと歴史上の政策判断が経済学を引っ張りかつ後押ししてきたことも否めない事実のようで、だから配分重視、闘争もやむなし、個人の需要はよくわからんという従来の特性から抜け切れていないのかもしれません。
それでも、経済学は今後まだまだこれから国民一人ひとりの需要に応える科学技術テクノロジーやマーケティング経営学と連携しつつ、自律的・自発的な学問として発展していく余地がいくらでも残されていると考えます

以上