『集合知とは何か』は本年2月に中公新書から発刊、西垣通・著。
著者の西垣氏は東大の計数工学科を卒業、日立製作所のソフトウェア研究開発、明大法学部の教授職を経て、東大大学院の情報学環工学博士まで歴任されたとの由。
コンピュータの学際的な普及解説の第一人者としても広く知られる。
およそ高水準の学術見識に基づいた大衆書というものは、以下大別した2つの要素を併せ持っているのではないか…と僕は近頃考えている。
(1) 或る観念/アブストラクトを、様々な意味論をもって(再)定義するもの
(2) 市場産業に実在する諸要素を、その属性や効用から分析するもの
この大分類からすれば、本書『集合知とは何か』は(1)の範疇にシフトした観念解説書、のようでいて、実は(2)の範疇における技術論ガイダンスとしての側面も多分に有るもの。
実際、本書を店頭で立ち読みしてみたところ、Intelligence Amplification やサイバネティクスといった用語を散見、ああこれは僕自身の会社員時代の技術知識を増強するに絶好の参考書かなあと購入した次第。
本書を概括的に評すれば、ネット集合知は「何か」というより、むしろ「どのように構築されるべきか」さらには「どうであってはならないのか」について慎重に論じられている。
その上で一貫している巨大な問題設定。
「我々人間は一人ひとりがITを便利な知識情報媒体として活用している、が、それではITは我々人間一人ひとりをどう活かし得るのだろうか?」
本書において引用・概説される生命、人間、社会組織、ITインフラといった多重な構造(系)、それらの主客相互の相対的な機能関係 ─ と、緻密で多元的な分析にはまこと感嘆の限り。
なるほど随所にみられるテクニカルな述語(「感受する」「創出する」「創発する」など)の読解にあたっては緻密な論理力を動員やむなしではあるものの、そこが本書を硬質でエッジの利いた論説たらしめている所以。
たかだか200ページの新書版に収めるにはあまりにも密度の濃い科学論(それ以上に哲学論か)といえようか。
とまれ、以下に僕なりに要約した読書メモを一応は纏めおく。
・或る特定解が存在する疑問にさいして。
不特定の回答者による部分的な解の集積は、この分野での専門エリートの見解よりも正解に近くなる。
そもそも、不特定の回答者は各人が自己の体験から互いに独立した見解を呈する、か、或いは自信無き場合には全く当てずっぽうな回答を返す。
一方、特定の専門エリートは精度の高い推測モデルを有しているので、それに則って皆が似たような回答を呈示する。
ここで、不特定の回答者の推察の集合は正解に近似しようが、無知の当てずっぽうにかけ離れようが、どちらの場合にも集団としての誤差は小さくなり、つまりは正解に近くなる。
だが、特定専門エリートの回答は皆が一様に間違っている可能性もあり ─ そうなると不特定の回答者の回答の集合が正解に近くなる。
…と、これが情報寄せ集めモデル(推測統計学を含む)の基本的な着想のひとつ。
・なお、正解そのものが準備されていない問題に応じた場合、つまり回答者集団の多数決の解が総意とされる場合は、どうなるだろうか。
政治学者アローの定理でも遍く知られるとおり、各人がそれぞれ合理的と信じる意思決定をもって回答したとしても、その集積としての多数決は個々人の判断結果と一致するとは限らない。
よって、ネット環境によって自生的に新規の民主的な正解が導かれるなどと一概に喜ぶわけにはいかないのである。
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・そもそも、「客観的な知」など在りうるのだろうか。
たとえば市場原理は特定の評価基準、第三者専門委員会、数値目標、結果の明示などによって、特定の情報の透明な共有化が可能な社会をもたらす。
が、実はこれは謂わば権威と流動性に保証された所与の知(天下りの知)とでもいうべきもの。
所与の知の例として法律の条文解釈や、外国語文法などが挙げられるが、これらは権威有る誰かが一意に行った解釈に依っている知に過ぎず、そこに大きな間違いが起こっていても誰にも分からない。
一方で、市場での流通にそぐわない知識や情報は存在しないものとされやすい。
・所与の知は、欧米流の論理的な導出、つまり公理、原理、憲法、実証的事実の集積による普遍性(という信念)に多くを依っている。
13世紀のスペインの騎士ライムンドゥス・ルルスは、イスラム教徒をキリスト教化するため修道士となり、普遍的記号論に基づいた「円盤機械」を発明。
のちのルネサンスにも宗教改革にも、さらにはデカルト、ニュートン、ライプニッツにも連なる普遍的な近代の知の端緒である。
・とりわけ20世紀は「所与の知」の論理的整合性を大前提に据えつつ実証実現に挑んできた世紀ともいえる。
フレーゲの『述語論理』、ラッセルとホワイトヘッドの『数学原理』、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、ルドルフやカルナップらの『論理実証主義』などを経て、厳正な「はずの」論理記号表現によって数学から科学哲学まで表記の精密化をはかった。
ヒルベルトは 「無矛盾の公理系から導かれる真なる数学命題は、必ず形式的操作で証明出来る」 とし、いわゆる記号転置型形式主義を説き、量子力学者かつ数学者のフォン・ノイマンはこのテーゼに準じつつ現代型コンピュータを開発。
また、チューリングもプログラム内蔵理論を実現した計算機として「万能チューリングマシン」を開発。
ところが ─ 数学者のクルト・ゲーデルは、「記号による形式主義手法では自己言及矛盾の命題を証明出来ない」と説き、ヒルベルトの説が否定されるに至り、更に万能チューリングマシンによってもヒルベルト説の限界が却って示されてしまった。
・上記経緯にも関わらず、思考機械としてのコンピュータは「所与の知」の正確なシミュレーションとソリューションをもたらす、と更に見做され続け、1980年代にメインフレーム・コンピュータの最盛期と人工知能(Artificial Intelligence)の隆盛に至る。
いわば知識工学の推進であり、そのひとつの実現が『エキスパートシステム』で、これは個別のユーザのソリューション要求に応じ、特定の専門プロの知識(命題)を論理的に最適化して都度リターンするというシステムである。
但し、さすがにそれら専門知識も最適化も万能ソリューションとは見做されておらず、本システムは知識工学の主流たりえていない。
・かたや、いわゆる『第5世代コンピュータ』は、フレーゲ以来の述語論理を直接ハードウェアベースで並列処理する(コンパイル処理ナシ)というコンセプトもので、人間の脳内思考処理の最も直接的なシミュレーションとされた。
現在に至るまで、第5世代コンピュータは日本のIT関連プロジェクトとして最も大規模な産学投資がなされ、実現に至った。
しかし1990年代以降のIT技術はネット分散処理に大きくシフトし、よって第5世代コンピュータも知識工学の主流を占めていない。
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・以上、第5世代コンピュータあたりまでが、人間の「所与の知」の省力マシンとしての人工知能(AI)追求であったとすれば、現在のネット分散処理の進展はむしろ逆に、 コンピュータの便宜によって人間自身の知力を高めんとするもの ─ つまりIA(Intelligence Amplification) を強化する状況にある。
・ネット分散処理のインフラ環境増強(とりわけウェブ2.0以降)およびデータ検索エンジンの急速な向上が進み、国民の知識の拡大が起こってきた昨今である。
かつ原発事故の経緯もあり、20世紀まで産学両面にて幅を聞かせてきた「所与の知、天下りの知」の信頼がいまや大きく揺らいでいる。
そもそも、論理と実証による統一的な客観世界が本当に存在するのか、との疑義が現在までいよいよ問われ続けている。
・すでに20世紀半ばの科学哲学者マイケル・ポラニーは、客観知が論理と実証のみからは成立しえないと指摘していた。
ポラニーによれば、通常我々が完結的に認識している各人のそれぞれの知は、本当はそれらの潜在的な構成要素たる個別情報から成り立つ由。
この前者と後者の関係付けをポラニーは『暗黙知』というタームをもって説明、こうして人間同士が(論理と実証による統一解ではない)その時その場の客観知を構築出来る、とした。
・一方、1960~70年代にトマス・クーンの『パラダイム理論』が発展。
これによれば、専門家集団の学説といえども統一された論理と実証ではなく、おのおの既設のパラダイム内に留まっているに過ぎず、ゆえに唯一の客観世界など記述してはいない。
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・あらためて注目すべきは、我々一人ひとりの閉じた主観=体感としての知、流行りのタームで言えばクオリアであり、そこから導出される一人ひとり個別の反応行動であり、それらを通じてなされる人間の再帰的な創出活動である。
・ ヨリ多重構造として捉えれば、生命そのものにも統一された客観世界など無く、各個体も独自に閉じたクオリアによる感覚(センシング)と反応によって生きている。
1970~80年代に生物学者のマトゥラーナとヴァレラによって『オートポイエーシス理論』が発展、これは、生命が細胞レベルからどこまでも自己創出的であって、おのれの生成も出力も自己自身のために再帰的に機能するとしたもの。
現在まで生命の本質をもっとも掴んでいる学説といえ、かつ、これを人間に適用すれば、各人の閉じたクオリアや経験記憶や思考もオートポイエティック=自己創出型といえる。
・そうであれば、人間が成立させる社会組織そのものもまた、それなりに閉じたクオリアと経験記憶と思考を通した自己創出によって再帰的に機能しているはずである。
(ここが本書の最大の難所の一つなのだが) 社会組織の独自に閉じた自己創出機能は、個々の人間のそれよりも上位にあり、にも関わらずこの両者は包含関係にはなく、相互干渉破壊の危険もなく、いわばお互いがプロトコルレイヤのように機能は相互独立しつつインタフェースは共有している (という論旨だと僕は解釈した)。
この社会組織と個人の機能関係を、本書では 『階層的な自律コミュニケーションシステム』 と明示している。
・さてそれでは、「クオリアと反応において閉じられているはずの生命体」は、「入出力反応が外部に開放されている機械」 とどういう関係を構築しうるだろうか。
1948年に数学者ノーバート・ウィーナーが『サイバネティクス理論』を提唱、これは人間はじめ生命体の閉じられた自己安定性を外部機械が統計確率的に保全するという議論であった。
とはいえ、生命体がそれぞれ独自の閉じられたクオリアにおいて感受や反応を行う以上、それらを外部の機械が一様に保全することは出来ない、との再認識から、1970年代以降にフェルスターが唱えたのが『二次サイバネティクス論』である。
これはいわば「サイバネティクスのためのサイバネティクス」、つまり、個々の生命体おのおの独自の感受や反応プロセスそれ自体を、外部機械によって全く個別に保全する、(そうすることで個々の生命体の自己安定性を機械によって保全することになる)、という新たな踏み込みであった。
本論を提唱したフェルスターは、オートポイエーシス(生命の自己創出)論を説いた生物学者のヴァレラなどとも親交があったという。
・以上に記した、人間各個人の閉じたクオリア及びオートポイエーシス(自己創出)論を総括した学術アンソロジーが、2009年にメディア学者のマーク・ハンセンや文学者のブルース・クラークによって編纂され、『ネオ・サイバネティクス』と冠されて発表された。
ここで新たにまとめられているのが、『システム環境ハイブリッド』というコンセプト。
ここではクオリアやオートポイエーシスの前提をふまえつつも、こと人間はテクノロジーによって認知世界を意図的に拡大させる性質を有しており、よって「無意識の知性」を習得しうるものである、と論じている。
これをもって、人間は単なる閉鎖的な個体ではなく、その無意識の知性習得の最前線にある媒体がIT(ネット)であると説明。
※ とはいえ、本旨に対しては著者の西垣氏は懐疑的見解をとられており
─ 人間にとってあくまで外部的存在に過ぎないITエージェント(エンティティ)は、論理演算に留まるものにして、それが(閉じられているはずの)個々人の倫理までも形成するとは云えず、またITエージェントの論理的作動と人間個々人の無意識の作動の差異について明快な説明も無い、と記し措かれている。
まして、ITの演算能力への無邪気な万能信仰は、20世紀型の論理と実証の試みと限界を再度想起させるものである、との念押しもなされている。
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・ところで、生命体を巡る科学理論としては、20世紀末からカオス理論やフラクタル図形など非線形数学をもって「自己組織化」を説明しようとする潮流も根強い。
いわば、ミクロな要素が非平衡な物理系で相互作用し、それでマクロな自己組織化のダイナミズムが発生するというもの、つまり生命体を反エントロピーの創発現象として解釈するというものである。
しかし、これらの物理現象は、相互に閉じられたクオリアにより感受と反応を繰り返す個々の生命体の在り様を完全に説明したことにはならない。
・いわゆる『ポスト・ヒューマン』論はもっと稚拙で、サイバネティクスを人間と機械の混交であると誤解し、人間はネットのエンティティ(いわばアバター)に堕して主体的な知性を失うなどという。
つまり、人間一人ひとりの閉じられたクオリアと自己創出性を全く無視した論調に留まっている。
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・以上が、本書の問題設定、いわば大前提。
第5章の中盤以降にて、いよいよ総論と展望論にうつる。
閉ざされた各人の「主観知」を社会組織という「客観知」、ひいては「集合知」へと導き出す手がかりを模索する ─ という旨、あらためて注記がなされている。
・たとえば流行の脳科学テクノロジーは概して物質的な脳機能分析、つまり外部で共有可能な「客観知」データの捕捉を目的としている以上、これだけでは個々人の非開放的な「主観知」を同様に外部に導き出すことは出来ない。
・この両者間をどこかで連結させるための、ひとつのヒントとして紹介されているのが、我々一人ひとりを絶対的に閉ざされた個人としてではなく、社会とのインタフェースを共有する「分人」のプロパティを有する者と捉える着想。
各個人の「分人」の部分が社会組織(ネット側)と継続的に問/答のコミュニケーションを図ることによってこそ、相互のインタフェースが構築増強されていく ─ ひいては「集合知」のボトムアップとなる、と考えてみてはどうか。
この発想は、「二人称的な『心身問題』」としてかなり数理的に検証され始めているという。
・この「二人称的な心身問題」の検証事項としては、個々人の「分人」の部分が社会組織(ネット側)の一体誰と連結インタフェースを図っているのかが端的なデータたりうる。
そこで好例として引用されるのが西川麻樹による『アサキモデルで』、これは個々のモナド(単一で閉じられた単子)が相互にコミュニケーションを行い、一定の相互信用度の閾値にも左右されつつ、中枢としてのモナド(いわば脳)を生み出すダイナミズムを説明している。
・このモデルに則りつつ ─ 仮に個々のモナドをクオリアによって閉じられた個々人の精神と読み替え、支配中枢としてのモナドを社会組織のリーダーシップと置き換えてみる。
すると、両者のネットを介したインタフェースや社会組織リーダーシップ生成のダイナミズムを少なくとも数理的には検証したことになる。
相互関係の閉ざされた個々のモナドが独自に閾値条件設定とインタフェース形成を続ける、そんなシステムこそが、常に安定した支配中枢モナドを生成する、という結果が顕在化している。
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・ネットによる「集合知」は、たとえばネオ・サイバネティクスの応用進化によりもたらされるモニタリングハード/ソフトの充足により、閉じられた個々人ユーザおのおのの経験と暗黙知と生命(つまり人生)を充足させる不定形の知性のこと。
そして、社会組織の問題解決に接しては、ネットの向こうの知識集積と、ネットのこっちの閉じられた個人、といった主従関係においてではなく、おのおの独自の出来る範囲にて互いに発揮しあう知性のこと。
そうである以上、ネット集合知はメインフレーム中枢処理系(第5世代コンピュータなど、いわゆるタイプI世代)による論理演算力の増強や、ネットインフラ分散処理(現在主流のいわゆるタイプII世代)によるアクセス効率化のみからはもたらされ得ない。
そこでこんご期待されつつ基礎技術の研究開発が進められているのが、タイプIII世代コンピュータ ─ つまり個々人ユーザの閉じられた知へのセンシング機能が充足してネット集合知を常時実現しうる、何らかの拡張型コンフィギュレーションである。
以上
さらに前回の続き。
論理はどこまで現実を説明しうるか、或いはし得ないかについて、現実をあまり分かっていない者として気軽に記しております。
※毎度のこと、本ブログでは問題設定が支離滅裂に見えましょうが、それはここでは特定の問題に対する特定のソリューションなど全く図っていないためです。
また、実社会の専業プロの方々を相手にテクニカルな議論を吹っかけている積もりもありませんよ、そうではなくて一般社会人や学生諸君向けに、思考のギアを敢えて外して楽しみましょうと、ギリギリでたらめ直前、それでも一応まともに見聞した内容の書き込みに留め措いている次第。
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① 嘘を吐いた人間にも、それが人間の観念や言葉である限りは、何らかの現実の裏付けがある。
そういう嘘つき人間たちの組み合わせ次第では、どんな嘘でさえもいつかは現実になりうるといえる。
どこか、おかしいですか?
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② 俗に、ブラック・ボックス、という。
たとえば、極めて解読困難な暗号関数キーをもって、データを暗復号化するモジュールを指す。
暗号関数キーの長さ、ないしは可変性などなどはその種類によっては解析に何億年(以上?)もかかるという。
しかし、そうであるのなら。
そのようなブラックボックスモジュールで「本当に」複雑な暗複号処理がなされているのか、或いはなされていないのか、誰にも検証出来ないではないか。
開発した業者自身、検証したのだろうか。
「本当はそこいらの陳腐な暗復号処理に留まっているに過ぎない」、ということはインプットデータとアウトプットデータから数学的に演繹は出来るかもしれない。
が、しかし、「解析数億年の暗復号キーによるデータ転換が必ずなされている」ということは、どうやって立証するのか。
敢えて例示を飛躍するが、たとえば超能力は存在しますかとの議論に近いと考える。
そのくらい、検証も立証も出来ますよ、当たり前じゃないですか ─ と専門家は言うだろうが、でもどうやってとは言わないし、言えない。
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③ 宇宙のなにもかもが、それぞれ独立し、相互に無作為に動いている。
ということは、逆に論じるならば、万物が作為所為において同期をとる瞬間もどこかに必ずありうる、と言えまいか。
本旨、表裏一体で正しいかどうかは、以前から時々ぼやっと考えて妙な気分になるところであるが、どうもこれは人間が考えるかぎり主語と動詞の定義によって変わるようである。
もし、主語が「この宇宙そのもの」であり、動詞が「とにかく動いている」とすると、これは常にたった一つの真理として正しい。
これを「論理遊戯」とするのなら、だ、人間の市場・経済も、法律も、こと財貨の価値の定義においては結局「遊び」でしかない。
自由競争経済においてもそうで、まして統制経済となると何をか言わんやである。
たとえば、主語を「全世界の原油」とし、動詞を「売れる」とすれば、この言質はいついかなる時でも何らかのかたちで正しいことになる。
ところが。
「昨日のサウジの日産1千万バレルの原油のうちで最も純度の高いポーション」が、「わずか5米ドルで採掘され、10米ドルでエージェントに売られた」と言語上定義すると。
これは極めて限定的なブラックマーケットにおける極めて一過的な取引ということになる。
昨日出来たんだから、今日ももう一篇まったく同一のディールを繰り返してみろ、と云われ、「さあ、そりゃあ実現可能性は非常に低いんじゃないかなあ」と現実に即して考えるのが理科的な着想。
一方で、「なんぼでも出来ますよ、先物契約で抑えちゃえばいいんだから、そうだ、政府から裏を回しましょう」と、論旨の表裏混同に便乗するのが社会科の着想。
理科センスの方が現実に即しており、表裏の論理遊戯に根負けしないようである。
知識や職業の問題ではなく、着想の問題。
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④ 世界的にミツバチのコロニー崩壊がおこり、ミツバチの個体数が減り続けているらしい。
アインシュタインはかつて、ミツバチが居なくなったら人間は数年で死に絶えるなどと予言?したそうで。
概況分析については数年前の慶應医学部の一般入試英語の読解でも取り上げられたとおり、受験界でさえも教科を超えて最も多く取り上げられる主題のひとつとなっている。
そんなだから高尚な話題なのだ、とまで言うつもりはなく、寧ろ普遍性の高い問題たりうると留め置きたい。
とにかく、ミツバチ減少についてはいろいろな解説がなされているようで。
いわく気温の変化が、いわく樹木の伐採が、いわく高速道路の建設が、いわく農薬が、遺伝子組み換え作物が、ウイルスが、電磁波が、太陽光線が ─ と諸説紛々、しかも複合要因として捉えるのが妥当なようである。
しかし、だ。
ミツバチの数がゼロになったら何が起こるのか(アインシュタインの予言通りとなるのか)、仔細の予測には至っていないようで。
なにより、減少し続けるミツバチに代わって、地球上で新たに「何か」他の生命/物質が増えたはず。
そして一方では同様に減っている「何か」があるはず。
だが、これらの増減について厳正に確認しようがあるのだろうか。
実際、ミツバチの死骸もあまり見つかっていないとのこと、それに人間のように自ら記録を残そうともしないミツバチのこと、その死を以ていったい何と入れ替わってしまったのか、現状分析はもとより因果確立となるとさぞや難しいことだろうなあ。
でも、どこの人間が困っているのか、どこの誰が得したのか、と人間の利害得失をつぶさに調べ上げることで、そこから何か…
…たぶんそんなこと無理だろうけど、だって人間の損得なんか常時変わっているんだからね。
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⑤ かなり強引なことを記す。
そもそも、生物の種は、生命組織の複合と収斂によってそれぞれの個体の巨大化が進むようになっているのか。
はたまた、生命組織の分岐と多様化によって、種のヴァリエーション拡大(生物多様性)が進むものなのか。
どっちかしか、ないでしょう?
ここで生物の存在要件を、「一斉絶滅からの回避」ととりあえずおいてみると、どういう理屈が成り立つだろうか?
仮に、生態系自体が変化し続けるのであれば、インプットがそれだけ多様となるわけだから、全生物の「一斉絶滅のリスク」はそれだけ小さくなると考える。
だから、それぞれの種の個体は世代とともに組織収斂と巨大化が進むはず。
そうなると、結果的に生態系そのものも単純化が進行し、どこかで均衡状態があらわれて、そのあたりでずっとそのままである。
あたかも財政のビルト=イン=スタビライザー機能が生命に備わっているがごとし。
だが一方で、仮に全ての生物の限界量が太陽などの外部エネルギー量インプットによって定まっているとする。
そうであれば、そのエネルギーインプットの減衰が起こったさいに、それぞれの生物種は「一斉絶滅を回避すべく」、世代を追って生命組織の分岐と種の多様化というアウトプットで応じ続けるだろう。
それで、生態系そのものにおいて、そういう具合にサバイバルのヴァリエーションが増大する。
なんだか、破綻寸前の金融機関がやたらめったらと金融商品を編み出しては売りまくるに似ている。
これで、とりあえずは、変化し続ける環境への適者生存~進化論も、一斉絶滅回避における随時調整の説明として成り立つ。
しかし、「生物の繁茂=巨大化」と「絶滅回避=多様性増大」が両立しなくなってしまう。
本当かな?
どこか、おかしいんだろうな。
以上
先のコラムの続きです。
どうも「論理」と「現実」の食い違いのあるケースには我々がしばしば辟易させられている昨今ではあります。
完結した「論理」などといっても、いったいどこまで「現実」を構成し得るものか ─ 本当は論理と現実はどこまでも食い違うんじゃないのか、などと諦観というかニヒリズムというか。
でもふてくされたりヒステリックになってみても、面白くもなんともありません。
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① さて、今回もよく知られたパズルから。
大きな池に或る微生物が棲息しており、かつ、この微生物は「1日で個体量が倍になる」、とする。
さて、この微生物が最初の1匹から増え始め、ちょうどこの池の半分を満たすまでに50日かかったとしよう。
では、この池の残り半分が全て同じ微生物で満たされるのに、あと何日かかるか?
はい、あと50日ですなどという答えは理知的なセンスが低すぎますね。
1日で個体量が倍になるのですから、すなわちあと1日で池がこの微生物でいっぱいになります。
…というのが数学的な正解らしいのですが、本当ですか?!
この微生物はいったい何を食って増殖しているのでしょうかね?
もし個体量が倍、倍、倍と増えていったら、この池で食うものが無くなってしまうから、池いっぱいを占める前にかなりの個体が餓死し、どこかで均衡状態になり、もうずっとそのままなのではないですか?
いや…一方ではこの微生物がどんどん死んでいき、それが化学反応をして他の個体あるいは池全体の養分となり、それで生化学的なフィードバックとやらが働き、だからやっぱりあと1日で池の全てがこの微生物で満たされることになると?
ミクロコズム系とか生物多様性などという「閉ざされた系」の限界説とかで、こんな具合のことを説明された記憶があるが、どうも僕なりに理解していなかった、と再認識している。
さあ、こういうのは「とんち」の利いた常識問題に過ぎないのでしょうか?
いや、やはり科学パズルの一種といえるのではないでしょうか?
まさに現実と論理の一貫性が冷笑されつつある昨今の「ご時世」において、その一貫性の脆さや危うさを鋭く突くようなパズル本がどうして流行らないのか、不思議ではあります。
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② 或る大学入試問題にて出題された「英文解釈」の引用文、その結論箇所にて。
「地球上の生物種の過半は熱帯雨林地方に棲息しているという。とはいえ、熱帯雨林地方にどんな種が棲息しているか、具体的にはまだ分かっていない」
ここまで読んで反射的に大笑いしてしまった。
熱帯雨林に棲んでいる生物種の全貌を実際に捕捉していないのに、どうして全生物の過半がそこに居るなどと断定出来るのか。
ひどい英文テキストだなあ、たとえ理科の出題ではないとはいえ、こんな引用文を入試で出題してもよいものか…。
だが、ゆっくり考えてみれば、生物の全遺伝情報の組み合わせから逆算して、「全生物種の数をXと定義」出来るのかもしれない。
一方で、「既に熱帯雨林以外で判然としている生物種の数をY」とすれば…
「X-Y」が熱帯雨林の生物種数であると演繹出来る、かもしれない。
(本当かな?)
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③ 今度は社会科の問題で。
と、いうことはつまり現実と論理が一致しにくい分野として。
昨今話題の集団的自衛権だが、これは「権」とはいっても当然義務もある。
権利だけ有って義務が無い制度など、ありえない。
ちょっと考えると、それは集団自衛当該国との共同防衛義務だということになろうし、その共同防衛義務の締結国に対し日本なりの防衛論をどこまでも突っぱねることなど出来まい ─ というのが集団的自衛権と憲法改正の主だった論拠であるようで。
さて、テロとの戦い、悪の枢軸との戦い、と、現代の戦争は少なくともその論理的な題目においては、「ヨリ大きな戦争を回避するため、小さな戦争行為もやむなし、それこそがリスクマネジメントだ」となっている。
リスクマネジメントであるから、大きなリスクを想定して大きな防護策を共有せよ、と主要国が迫ってくるのも当たり前。
そういう政策論理の先行に対し、現実(テクニカル)には日本こそがリスクマネジメントにおいて最も優れており、大戦争、小戦争どころか現実に全ての戦争を回避する能力が有る ─ と信じてみたいもの。
最も崇高な道ではある、と思う。
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④ さはさりとて、現行の憲法9条には反対である。
憲法9条は、あくまで平時の外国と日本の間に一線を引いたルールでしかない、と考えるため。
我々は(特に年配層は)一般通念として、「戦争に行く」という論理に拘りがちだが、現実としては「戦争が上陸して来る」ことをも十分に踏まえておかなければならない。
いや、本来そうであってこその憲法9条だが、だからこそ憲法9条は不完全と考えてしまう。
仮に日本が侵略攻撃を受けたとして、「憲法9条絶対論を主張する日本人のうち一定以上が手のひらを返したように侵略側に回る」、ということも十分に考えられる。
そういう「元・日本人」の連中にとってもはや日本国憲法など無意味、平然と武力行使を仕掛けてくるだろう。
が、それに対して、どこまでも日本国民を貫き通す僕らは積極的な武力行使による撃退が出来ず、どんどん後手に回り、いきなり殺されたり、主権領域を削り取られてしまう、となる。
こういう「元・日本人」つまり国内の敵と戦う羽目になる現実もふまえ、「生存権および自衛権の一環として」武力行使の自由を認めて欲しいわけで、だから軽機関銃かライフルあたりは持たせてくれよ。
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⑤ いわゆる「お金持ち」とは、年収が日本円相当で300億円以上の人々を指す。
年収300億円未満の人は、世の主要企業の経営を随意に操作するほどの能力が無い。
つまり、あくまで誰かのために働かされる貧乏人に過ぎないんだよ。
…と書くと、ほとんどの人は不愉快になる。
なんの根拠が有って、そんなことを書くのか??年収5億円ではどうして金持ちにならないのか、言ってみろ!
俺たちだって束になりゃ、大資本家をはるか凌駕する資産力があるんだ!
などなど。
もちろん、現実的な根拠なんか無いよ。
でもね、現実に束になる才覚も知性も無いから、おのおのがた、貧乏な小金持ちで終わっちまうのよ。
と、まあ、カネの話なんか、まさに論理だけではしゃいだり憤ったりしている例。
現実的には、世の中を随意に動かし得るのは何らかの具体的な力量で世界の上位100傑に入る人たちだろう。
こう言えば、不愉快になる人たちはあまり居ない。
バカバカしいこと、この上ない。
以上
① 「もしも、僕が君だったら、僕ならこうするだろうなあ」
この論法は、現実としてはおかしい。
「もしも、僕が君だったら、君ならこうするだろうなあ」
これなら、正しい。
「その条件下では今の君に成り代って僕が君であり、その君ならこうするというわけで…」
論理とは、あくまでこういうもの。
現実と一致する場合もあるが、そうでない場合もある。
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② 有名な数学パズル問題をひとつ。
ひと組のトランプ52枚、それを全て並べる場合の数は、宇宙の誕生から現在までに経過した「秒数の総和」より大きいか小さいか。
とりあえず正解(らしき)を記しておくと、トランプ総並べの52!は驚くなかれ68ケタの数となる。
一方、宇宙誕生から現在まできっかり137億年とする。
その経過秒数は13,700,000,000 x 365 x 24 x 60 x 60 で、せいぜい18ケタの数に若かない。
だから、トランプ52枚の総並べ数の方が圧倒的に大きい。
(宇宙創世記の秒数は今の秒数とは違うよ、などと面倒くさい理屈は聞く耳は持たない。)
言わずもがなであるが、理科系の分野では論理と現実は同じ(そうでなければ理科とは言わない。)
放射性元素の半減期計算は論理、その算出論拠である元素の原子核や電子の放出は現実である。
だからウラン238の半減期が45億年!という話にしても、いつかは鉛になるんだよという説にしても、誰にも実際に確かめようがないものの、現実だということになっている。
しかしながら社会科の範疇においては、強引な論理がどうも現実とうまくフィットしていないケースを往々にして目にするもの。
その場合、人間の直感はどうしても現実優先、だから強引な論理の方がきっとどこか間違っている…という僕なりの懐疑的フォーマットで、近頃は社会科について考え続けている。
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② その社会科について、ちょっとした小テーマをひとつ。
つい昨日、最寄りの雑貨店で小ぶりの書棚を購入した。
簡素な木製合板もの、自家組立式で、書類置きとして使うだけの用途ではあるが、一応は3段式ラックである。
この値段がなんと!780円(7,800円ではないですよ)。
そこいらで適当な昼食一回分の価格とほぼ同じ。
そもそも「価値(あるいは効用)」でみれば、僕と一回の昼食の「価値関係」は、学生時代からほとんど変わっていない。
僕と木製ラックの「価値関係」もほとんど変わっていない。
ただ、「カネ換算の価格」でみれば、デフレや生産性の話となり、「カネ自体の価格」対「それぞれの財貨の価格」がバランスを著しく変動させ、だから昼食一回と木製ラックのカネ換算がたまたま一緒になった、としか考えられない。
このように経済には、「人間対財貨の価値関係」と、「カネ換算による価格」の二つの見方がある。
前者こそが、一人ひとりの現実だと言え、後者は暫定的な論理でしかない。
90年代半ばの生産技術と部品スペックで今のWindows8以上のパソコンを製造しようとしたら、おそらく50万円以上かかるらしい(もっとかかるかもしれない。)
ところが、現在の生産技術と部品スペックでなら2万円程度で製造出来る…ということは高校生でも知っている。
これは、人間に対するパソコンの価値が下がったわけではなく、パソコンのカネ換算が下がったに過ぎない。
そこのところ分かっているから、メーカは依然として新型パソコンを20万円で売っている(という論理も高校生は分かっている)。
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③ 先進国や途上国をいろいろ回った経緯があるが、貧乏人ほか、虐げられている人々はいつも、速く速く時間が過ぎることを祈っているようで、こんな時間は速く終わってしまえ、と念じている。
一方で、余裕のある人々は、出来るだけ今が永く続きますようにと願うもののようである。
…と、思いきや!
じつは興味深いことに、貧しい人々でもしばしば「今その時」を楽しんでいる。
つまり、貧しいかどうかということと、虐げられているかどうかということは、GDPや国民所得といった数値論理においては同一と見做せるとしても、現実には全く違うようである。
たぶん、これから豊かになるだろうと実感し得るか、もう絶望しかないと諦めるか、そこのところ。
つまり、数値化されていない本当の需要こそが、生きていく現実なのね。
だからこそ、今は一日あたり生産額が10ドルで生活している人間でも、現実に少しづつ収入が増えていけば需要が徐々に現実化し、本当に豊かになる ─ と考えられる。
だが。
一日10ドルの人間なんか、虐げられ続けているバカに決まっているから、どうせ何も出来やしない、と「論理的に見捨て」てしまえば、テロやマフィアやギャングの現実世界に逃げていくのではないか。
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④ 論理が先か、現実が先か…と我々はすぐにまた知識人ぶって逃げ道を探そうとするし、その行ったり来たりが出来ると知ればなんぼでも方便を使う。
でも、もちろん現実が先であり、しかも現実が現実そのものであり、さらに現実が結果であって、論理はいつも後付けじゃないか。
おそろしく巨大な楽譜があるとしよう。
そこに1世紀に一つずつ音符ないしは休符が書き込まれる、とする。
こうしていっぱしの音楽が完成するのに、1万年かかるとする。
さて。
これを音楽であるとすら気づかずに、ただ何かの音符を書き込んで終わるのが我々一人ひとりの人間の現実としよう。
一方では、これを1万年後に何らかの音楽として嗜んだり論評したりする者も居ることだろう。
皆さんは、どちらになりたいのか。
いや、何をどうしようとも前者にしかなれない。
以上