2013/08/11

もしも僕が君だったなら(2)

先のコラムの続きです。
どうも「論理」と「現実」の食い違いのあるケースには我々がしばしば辟易させられている昨今ではあります。
完結した「論理」などといっても、いったいどこまで「現実」を構成し得るものか ─ 本当は論理と現実はどこまでも食い違うんじゃないのか、などと諦観というかニヒリズムというか。
でもふてくされたりヒステリックになってみても、面白くもなんともありません。 
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① さて、今回もよく知られたパズルから。
大きな池に或る微生物が棲息しており、かつ、この微生物は「1日で個体量が倍になる」、とする。
さて、この微生物が最初の1匹から増え始め、ちょうどこの池の半分を満たすまでに50日かかったとしよう。
では、この池の残り半分が全て同じ微生物で満たされるのに、あと何日かかるか?

はい、あと50日ですなどという答えは理知的なセンスが低すぎますね。
1日で個体量が倍になるのですから、すなわちあと1日で池がこの微生物でいっぱいになります。

…というのが数学的な正解らしいのですが、本当ですか?!
この微生物はいったい何を食って増殖しているのでしょうかね?
もし個体量が倍、倍、倍と増えていったら、この池で食うものが無くなってしまうから、池いっぱいを占める前にかなりの個体が餓死し、どこかで均衡状態になり、もうずっとそのままなのではないですか?
いや…一方ではこの微生物がどんどん死んでいき、それが化学反応をして他の個体あるいは池全体の養分となり、それで生化学的なフィードバックとやらが働き、だからやっぱりあと1日で池の全てがこの微生物で満たされることになると?

ミクロコズム系とか生物多様性などという「閉ざされた系」の限界説とかで、こんな具合のことを説明された記憶があるが、どうも僕なりに理解していなかった、と再認識している。

さあ、こういうのは「とんち」の利いた常識問題に過ぎないのでしょうか?
いや、やはり科学パズルの一種といえるのではないでしょうか?
まさに現実と論理の一貫性が冷笑されつつある昨今の「ご時世」において、その一貫性の脆さや危うさを鋭く突くようなパズル本がどうして流行らないのか、不思議ではあります。

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② 或る大学入試問題にて出題された「英文解釈」の引用文、その結論箇所にて。
「地球上の生物種の過半は熱帯雨林地方に棲息しているという。とはいえ、熱帯雨林地方にどんな種が棲息しているか、具体的にはまだ分かっていない」

ここまで読んで反射的に大笑いしてしまった。
熱帯雨林に棲んでいる生物種の全貌を実際に捕捉していないのに、どうして全生物の過半がそこに居るなどと断定出来るのか。
ひどい英文テキストだなあ、たとえ理科の出題ではないとはいえ、こんな引用文を入試で出題してもよいものか…。

だが、ゆっくり考えてみれば、生物の全遺伝情報の組み合わせから逆算して、「全生物種の数をXと定義」出来るのかもしれない。
一方で、「既に熱帯雨林以外で判然としている生物種の数をY」とすれば…
「X-Y」が熱帯雨林の生物種数であると演繹出来る、かもしれない。
(本当かな?) 

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③ 今度は社会科の問題で。
と、いうことはつまり現実と論理が一致しにくい分野として。

昨今話題の集団的自衛権だが、これは「権」とはいっても当然義務もある。
権利だけ有って義務が無い制度など、ありえない。
ちょっと考えると、それは集団自衛当該国との共同防衛義務だということになろうし、その共同防衛義務の締結国に対し日本なりの防衛論をどこまでも突っぱねることなど出来まい ─ というのが集団的自衛権と憲法改正の主だった論拠であるようで。

さて、テロとの戦い、悪の枢軸との戦い、と、現代の戦争は少なくともその論理的な題目においては、「ヨリ大きな戦争を回避するため、小さな戦争行為もやむなし、それこそがリスクマネジメントだ」となっている。
リスクマネジメントであるから、大きなリスクを想定して大きな防護策を共有せよ、と主要国が迫ってくるのも当たり前。
そういう政策論理の先行に対し、現実(テクニカル)には日本こそがリスクマネジメントにおいて最も優れており、大戦争、小戦争どころか現実に全ての戦争を回避する能力が有る ─ と信じてみたいもの。
最も崇高な道ではある、と思う。

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④ さはさりとて、現行の憲法9条には反対である。
憲法9条は、あくまで平時の外国と日本の間に一線を引いたルールでしかない、と考えるため。
我々は(特に年配層は)一般通念として、「戦争に行く」という論理に拘りがちだが、現実としては「戦争が上陸して来る」ことをも十分に踏まえておかなければならない。
いや、本来そうであってこその憲法9条だが、だからこそ憲法9条は不完全と考えてしまう。

仮に日本が侵略攻撃を受けたとして、「憲法9条絶対論を主張する日本人のうち一定以上が手のひらを返したように侵略側に回る」、ということも十分に考えられる。
そういう「元・日本人」の連中にとってもはや日本国憲法など無意味、平然と武力行使を仕掛けてくるだろう。
が、それに対して、どこまでも日本国民を貫き通す僕らは積極的な武力行使による撃退が出来ず、どんどん後手に回り、いきなり殺されたり、主権領域を削り取られてしまう、となる。
こういう「元・日本人」つまり国内の敵と戦う羽目になる現実もふまえ、「生存権および自衛権の一環として」武力行使の自由を認めて欲しいわけで、だから軽機関銃かライフルあたりは持たせてくれよ。

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⑤ いわゆる「お金持ち」とは、年収が日本円相当で300億円以上の人々を指す。
年収300億円未満の人は、世の主要企業の経営を随意に操作するほどの能力が無い。
つまり、あくまで誰かのために働かされる貧乏人に過ぎないんだよ。
…と書くと、ほとんどの人は不愉快になる。
なんの根拠が有って、そんなことを書くのか??年収5億円ではどうして金持ちにならないのか、言ってみろ!
俺たちだって束になりゃ、大資本家をはるか凌駕する資産力があるんだ!
などなど。
もちろん、現実的な根拠なんか無いよ。
でもね、現実に束になる才覚も知性も無いから、おのおのがた、貧乏な小金持ちで終わっちまうのよ。
と、まあ、カネの話なんか、まさに論理だけではしゃいだり憤ったりしている例。

現実的には、世の中を随意に動かし得るのは何らかの具体的な力量で世界の上位100傑に入る人たちだろう。
こう言えば、不愉快になる人たちはあまり居ない。
バカバカしいこと、この上ない。

以上