2013/08/04

もしも僕が君だったなら

① 「もしも、僕が君だったら、僕ならこうするだろうなあ」
この論法は、現実としてはおかしい。
「もしも、僕が君だったら、君ならこうするだろうなあ」
これなら、正しい。
「その条件下では今の君に成り代って僕が君であり、その君ならこうするというわけで…」

論理とは、あくまでこういうもの。
現実と一致する場合もあるが、そうでない場合もある。

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② 有名な数学パズル問題をひとつ。
ひと組のトランプ52枚、それを全て並べる場合の数は、宇宙の誕生から現在までに経過した「秒数の総和」より大きいか小さいか。

とりあえず正解(らしき)を記しておくと、トランプ総並べの52!は驚くなかれ68ケタの数となる。
一方、宇宙誕生から現在まできっかり137億年とする。
その経過秒数は13,700,000,000 x 365 x 24 x 60 x 60 で、せいぜい18ケタの数に若かない。
だから、トランプ52枚の総並べ数の方が圧倒的に大きい。
(宇宙創世記の秒数は今の秒数とは違うよ、などと面倒くさい理屈は聞く耳は持たない。)

言わずもがなであるが、理科系の分野では論理と現実は同じ(そうでなければ理科とは言わない。)
放射性元素の半減期計算は論理、その算出論拠である元素の原子核や電子の放出は現実である。
だからウラン238の半減期が45億年!という話にしても、いつかは鉛になるんだよという説にしても、誰にも実際に確かめようがないものの、現実だということになっている。

しかしながら社会科の範疇においては、強引な論理がどうも現実とうまくフィットしていないケースを往々にして目にするもの。
その場合、人間の直感はどうしても現実優先、だから強引な論理の方がきっとどこか間違っている…という僕なりの懐疑的フォーマットで、近頃は社会科について考え続けている。

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② その社会科について、ちょっとした小テーマをひとつ。

つい昨日、最寄りの雑貨店で小ぶりの書棚を購入した。
簡素な木製合板もの、自家組立式で、書類置きとして使うだけの用途ではあるが、一応は3段式ラックである。
この値段がなんと!780円(7,800円ではないですよ)。
そこいらで適当な昼食一回分の価格とほぼ同じ。

そもそも「価値(あるいは効用)」でみれば、僕と一回の昼食の「価値関係」は、学生時代からほとんど変わっていない。
僕と木製ラックの「価値関係」もほとんど変わっていない。
ただ、「カネ換算の価格」でみれば、デフレや生産性の話となり、「カネ自体の価格」対「それぞれの財貨の価格」がバランスを著しく変動させ、だから昼食一回と木製ラックのカネ換算がたまたま一緒になった、としか考えられない。
このように経済には、「人間対財貨の価値関係」と、「カネ換算による価格」の二つの見方がある。
前者こそが、一人ひとりの現実だと言え、後者は暫定的な論理でしかない。

90年代半ばの生産技術と部品スペックで今のWindows8以上のパソコンを製造しようとしたら、おそらく50万円以上かかるらしい(もっとかかるかもしれない。)
ところが、現在の生産技術と部品スペックでなら2万円程度で製造出来る…ということは高校生でも知っている。
これは、人間に対するパソコンの価値が下がったわけではなく、パソコンのカネ換算が下がったに過ぎない。
そこのところ分かっているから、メーカは依然として新型パソコンを20万円で売っている(という論理も高校生は分かっている)。

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③ 先進国や途上国をいろいろ回った経緯があるが、貧乏人ほか、虐げられている人々はいつも、速く速く時間が過ぎることを祈っているようで、こんな時間は速く終わってしまえ、と念じている。
一方で、余裕のある人々は、出来るだけ今が永く続きますようにと願うもののようである。

…と、思いきや!
じつは興味深いことに、貧しい人々でもしばしば「今その時」を楽しんでいる。
つまり、貧しいかどうかということと、虐げられているかどうかということは、GDPや国民所得といった数値論理においては同一と見做せるとしても、現実には全く違うようである。

たぶん、これから豊かになるだろうと実感し得るか、もう絶望しかないと諦めるか、そこのところ。
つまり、数値化されていない本当の需要こそが、生きていく現実なのね。

だからこそ、今は一日あたり生産額が10ドルで生活している人間でも、現実に少しづつ収入が増えていけば需要が徐々に現実化し、本当に豊かになる ─ と考えられる。
だが。
一日10ドルの人間なんか、虐げられ続けているバカに決まっているから、どうせ何も出来やしない、と「論理的に見捨て」てしまえば、テロやマフィアやギャングの現実世界に逃げていくのではないか。

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④ 論理が先か、現実が先か…と我々はすぐにまた知識人ぶって逃げ道を探そうとするし、その行ったり来たりが出来ると知ればなんぼでも方便を使う。
でも、もちろん現実が先であり、しかも現実が現実そのものであり、さらに現実が結果であって、論理はいつも後付けじゃないか。

おそろしく巨大な楽譜があるとしよう。
そこに1世紀に一つずつ音符ないしは休符が書き込まれる、とする。
こうしていっぱしの音楽が完成するのに、1万年かかるとする。
さて。
これを音楽であるとすら気づかずに、ただ何かの音符を書き込んで終わるのが我々一人ひとりの人間の現実としよう。
一方では、これを1万年後に何らかの音楽として嗜んだり論評したりする者も居ることだろう。
皆さんは、どちらになりたいのか。
いや、何をどうしようとも前者にしかなれない。

以上