或る邸宅の庭で、富裕層たちがディナーパーティを催しているとする。
そこへ貧民が数百人あらわれて、「すみません、私たちはお腹がすいて死にそうなんです。みなさんの料理を分けてください」
ここで、いわゆる"文科系の経済学"の模範的な返答はどうなるか。
「おまえら、料理が食いたいのならカネを出せ。カネの無い人間に料理を食わせると、カネの流動性が下がり、世の中の生産性もさがり、不景気になる。もっとほっといたら、みんながバカになり、インフレになっちゃう」
なんと非情な経済システムか、これじゃあテロや戦争が起こってもやむなし…。
いや、これは人間とマネーだけを超然させた経済観(アプローチ)がおかしいのであって、経済活動をマテリアルから捉えれば別の見方がありうるだろう……と考えて、以下に書く。
=============
人間の経済活動は、マテリアルの「存在量」と、それらの移動・合成(分解)・酸化(還元)の「改編速度」と、この2段構えのみで捉えるべきではないか。
ここで、マテリアルとは、原子、電子、電磁波、放射線などなど (だから水や炭化水素や動植物も人間自身もふくむ。
マテリアルの「存在量」はいつも一定、だから我慢するか、交換するか、かっぱらうか、どれかしかない。
それでも、マテリアルの「移動・合成・酸化の改編速度」については、人間が触媒など用いてコントール可能な領分であり、数学/ソフトウェアによる抽象・定式化やダイナミックな高速化が可能である。
経済活動で生み出される農工業産品の「品質」なるものは、マテリアルがバラつき最小限で均質である状態をさすが、これも生産工程における「改編速度」に依るものじゃないか。
僕が電機メーカに入って最初に学んだことの一つも、マテリアルの「改編速度向上」に則った事業哲学であった。
もっとも、マテリアル「改編速度」追求は、5年前の原発事故でいったん頓挫してしまった ─ 我々はマテリアル「存在量」のかっぱらい競争に返ってゆくかもしれない?
いや、あれはマテリアル技術よりカネを優先したからだろう、いまだって素材やAIなどの開発にてマテリアルの「改編速度」はどんどん向上している。
あわせて人間自身の「改編速度」も変わっていく(いかねばならぬ。)
…と、まあ、こんな具合にマテリアルの「存在量」と「改編速度」に絞って論を進めてみると、経済通の人たちからはササッと反論がなされるだろう。
たとえば ─ 経済活動とは機会効用と価値付けと自由選択行為である、それが自由競争経済というものだ、おまえの書いていることは唯物的な統制経済論みたいだぞ、などというもの。
しかしね。
どんな機会にどんな価値を与え、どんな自由意思でどう選択希望するにせよ、それすべて人間都合に過ぎず、マテリアルの「存在量」は変わらない。
また、マテリアルの「改編速度」は、あくまで能力によるものであり、これも人間の自由意思のみによるものではない。
マテリアルの「存在量」と「改編速度」に則って考える以上は、保守も革新も右も左もねぇんだ。
むしろ、人間だけがマテリアルの外に超然していると考える方がおかしい。
================================================
人間がどれだけ通貨流通量を増やしても、マテリアルの「存在量」が増えるわけではない。
また、人間が通貨流通量を100倍に増やし、資本価値が100倍になったとしても、マテリアル「改編速度」を100倍に増加させることは出来そうにない。
とはいえ、もちろん通貨量・投資額とマテリアル「改編速度」には、「ある程度の関係」はあるだろう。
その、ある程度の関係づけこそが、投資・投機というもの、そして、いわゆるインフレ、経済成長、停滞、デフレ…という経済局面の変化の実相なのでは?
たとえば、マテリアルの「改編速度」の鈍化が経済の非効率をもたらしてインフレになり、マテリアル「改編速度」の向上が余剰人員をうみだしてデフレになる、といったり。
なんにせよ、経済というものをカネによる投機として捉えるかぎり、何が確実で何が不確実化はわからない ─ (もしかしたらすべてが)確率と結果論でしかないといえまいか。
通貨と通貨の相対的価値(為替)は。
これもマテリアルの存在量ではなく、あくまでマテリアルの「改編速度の差」を表象しているということになりますわな
…とハッキリ言っちゃえば痛快きわまるのだが。
そうすると逆にだよ、金本位制は、金というマテリアルの「存在量」を数学的に表象していたわけ ─ つまり、経済活動を量のみとして透過的に見ていたことになる?
さぁ、難しくなってきたぞ。
ぼーーっとしてきた。
以上