少年時代、東京都西部の立川市に住んでいた。
自宅から自転車で15分ほど、小さな公民館の脇に(敷地内だったか)、さらに小さな図書館があり、やや薄暗い採光のもとギィギィと木の床が軋むそこには、かなり古ぼけた体裁の子供向けSF本が何冊も置かれていた。
手にとって開いてみれば、装丁も崩れかかっているような、それこそボロボロのシリーズ本だった、と記憶している。
それでも。
どれも海外作家の古典的SFばかり、そして子供でも読める易しい日本語訳、たちまち引き込まれるスマートな論理構成、さらに挿絵も楽しさ抜群。
おお、そうだ、思い出したぞ ─
たしか、この図書館は本の返却期限が一週間だった。
あれは小学校4年生(いや3年生だったか)の夏休み、僕がこれらのSF本を5冊くらい小脇に抱え、しかも子どもなりの気恥ずかしさから、読みたくもない小さな図鑑もあわせ、借り出しを申し出たことがあった。
すると、係のおばさんが眼鏡の奥でちょっと可笑しそうに微笑みながら、こんなふうに言ってくれた。
「あなたは返却期限を?印にしておくから、全部読み終わってから返しに来なさい。ページが抜け落ちてもあなたのせいじゃないから、そのままにしておきなさい。それから…その図鑑はこの次にしたら?」
この言葉に僕は子供ながらも赤面し、またたまらなく嬉しくもあり、もう家に戻ると食事も忘れてこれらSF本を読みふけったものであった。
そんな懐かしのSF本の表紙画を、たまたまネットで見つけた。
もう感慨ひとしお。
話の内容はうろ覚えながらも、これらについてちらりと案内しよう。
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まず、『27世紀の発明王』 は、じっさいは発明王というより冒険家の話、だったような気がする。
宇宙人がひんぱんに地球にやってくる超未来、この物語の主人公の青年は、フィアンセを悪質な宇宙人にさらわれてしまう。
空中戦のすえに、なんとかこの宇宙人を撃墜し、フィアンセを奪回するのだが、彼女は重傷を負っていて、なんとこの青年は飛行中の空中艇の中で彼女の蘇生手術を行う…。
なお、この物語の挿絵はちょっとコミカルでクールな独特の画で、かのイラスト大家・真鍋博氏によるものであったことを、のちに知った。
それから、『宇宙人デカ』、これは伸縮自在な寄生型の宇宙人が細菌のような大きさになって地球にやってくる、そんな旨の設定だったかな。
主人公の少年もじつは地球人ではなく、この宇宙人を追撃して地球にやってきたとされており、こちらもストーリーはあまり覚えていない、が、びっくりした一幕があった。
それは、この主人公の少年が友人の家を訪問したさい、その父親が手袋もせず工具箱の中をかなり乱雑にひっかきまわす場面に出っくわし、体内に宇宙人が寄生していることを見抜く ─ というくだり。
つまり、本体が怪我をしないよう、寄生宇宙人が免疫防御力を発揮している、といったトリックじゃなかったかな(?)
つぎに、ロボットものでこの2冊。
まず、『くるったロボット』 は、いわずとしれたSFの大御所アシモフによる論理的な傑作で、たしか4編が収録されていたと記憶。
人間の生命と命令に絶対にしたがいつつも、おのれの活動も守らねばならぬという"ロボット三原則"の話。
さらに、人間の知性を完全に超えたことになっている"人工知能"が、人間をアホにしないように適度に事故を発生させる、などなど。
一方、『逃げたロボット』 は、論理的のみならず哲学的なストーリーだ。
人間の従属物であったはずのロボットが、いつしか自我を有し、自身も人間であると勘違いし、所有者の少年のもとから逃走、たしか市民権を要求したり、また人間から追い詰められて自暴自棄になったり。
いったい「認識」とは何であるか、実体なのか論理なのか、どこから生じてどこへ帰するものなのか、そこに愛情も伴奏しうるものなのか ─ といったさまざまな哲学的主題が、少年の淡い感傷ともども読者を新次元思考へ導く…。
実は漫画の「鉄腕アトム」をはじめて読んだ時に、この物語と相通じるところ多く、軽く驚いたものである。
以上、思い出せる範囲にてざっと挙げてみた。
他にも、月世界の文明生物と遭遇する話、雪が有機体になって人間を包囲するが日本人の科学技術で打倒する話、死者が念動力で有機物を操作して巨大組織に挑む話、アンドロイドやロボットを伴って宇宙創世期にまで時間遡行する話……などなど。
これらいずれも子供向けの圧縮編集本であったとはいえ、(おそらくは)今でもSF小説や映画の基本モチーフではなかろうか。
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さて。
亡父などからは、もっと立派な日本人の伝記を読めと幾度となく説かれた記憶が有る。
将来、人と人が出会った時、立派な人間の生きざまを語れば信用されるし、そうでなければバカ呼ばわりされる、だから立派な人間について勉強しておけ、架空の作り話なんか読むのはよせ、という。
その忠告を守らなかったせいだろう、僕はたぶん日本の立派な人間にはなれそうもない。
しかし。
少年期からすでに2回り以上も年月が経過し、電機メーカで科学技術の一端を学び、さらに商社から会計や法律などを学ぶにおよんで ─ あらためて考えること。
「人間が出来ることと出来ないこと」 を区分するものは、引き出しの中の名刺の量ではない。
マテリアルとロジックと、それらを合わせたテクノロジーのみである。
現実世界であろうと、架空のSF世界であろうとだ。
そして、それゆえにこそ、亡父なりの人生訓も遠回りながら半分は正しかったともいえる。
以上