1つ目は、能力であり、これはハード/ソフトの科学技術力に依る製品サービスの強度や精度のこと。
だから、知識と可能性と機会の掛け算。
2つ目は、信用であり、これは貸借関係と通貨量と税と利息と所有(権)と担保と給料のこと。
だからこちらは、量と人口のバランス論となる。
いわゆる自称・経済通の話を聞いてみると、どうも、能力と信用が混同されがちのようである。
たとえば ─ 「資本投資が3倍になれば技術開発効率も3倍になり生産量も3倍になる」、などと言う経済通まであらわれる。
はて、本当だろうか?
あるいは共産主義によるフィクションなのだろうか?
おっと、待ちなさい、金融機関相互による信用創造が、企業の生産力を…と、自称・経済通はすぐにまぜっかえすし、だいいち学校の政治経済科でもそう説いている。
が、僕はそんなウヤムヤな虚構がどうも腹立ってしょうがないから、ここに経済活動を2大要素つまり能力と信用に大別してみたわけ。
そして、日々の人間関係づくりや人間観察に多忙な女子大生であっても分かるように、ミニミニエッセイとしてしたためたわけよ。
問題は、ここで極端に総括した2大要素つまり能力と信用につき、どちらがどちらの必要条件であり、あるいは十分条件であるか ─ というところ。
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② そもそも、自然というものは(人体も含め)、バラつくものである。
また人間の精神も自然ゆえ、やはりバラつくものである。
だから、自然物を元手とする人間の能力は、バラつくものであり、そこに製品サービスの精度や強度のバラつきもある。
ところが。
信用というものにとって、バラつきとはリスクでしかない。
だから、能力と信用は同期をとりにくい。
ふーん。
ある程度までは、というのなら、どの程度までなのかちょっと確認しようじゃないか。
古代エジプトの遺したピラミッドや、古代ローマ帝国の遺した石造の道路や水道は、たしかに素晴らしく、工業と数学がどこまで協業していたかは別としても、立派なものである。
しかし、このピラミッドなり水道を建造した技術的な能力と、その建造時点で王や皇帝が随意に操作していたであろう信用とは、どう関わっていたのであろうか?
なんだ、そんな古代世界のことなど、知ったことか ─ と、自称・経済通はせせら笑うだろう。
ほほぅ。
ならば、国家としていったいどれだけの信用を操作すれば、産業革命、電機産業、石油産業、新素材、抗生物質、原子力や宇宙開発などの能力が向上するのか?
こちらについては、近現代のことゆえ、能力と信用の必要十分条件をちゃんと分析データがあるだろう (提示出来ぬのなら経済学者は何にもしてないことになる。)
オーケイ。
つまり、人類史全般を一貫した、能力と信用の必要十分関係など、分からないってことだな。
そうだろう ─ だからこそ経済政策は国民の能力と信用をともに睨みつつのトライアルアンドエラーの連続なのだ。
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③ さて、それでは。
我々の経済活動の最優先事項は、能力の向上か、信用の維持か。
とりわけ、いわゆる景気変動を観察する場合、自称・経済通は信用のバランシングに終始し、能力については暗い顔をして黙殺しがちである。
なるほど、金融機関やマスメディアや教育サービス業ならば、これも本源的にやむなしか、しかし学校組織でさえもこうであるとしたら、なかなか困った問題ではないか。
国家あるいは世界にあまねくカネをばらまく、あるいはベーシックミニマムを保証する…じゃあGDP伸び率は、消費税は、失業率は、移民は、という政策論争。
そして、TPPによって日本国内で外貨(建て)の金融乱立がすすむ、という統制リスク論。
それもよし。
しかし、そもそも我々の経済活動の目的は、信用の前に能力の追求でなければならぬ。
あわせて、能力向上の可能性のみならず、現状能力の保全にかかる議論でもある。
皆にカネさえばらまけば、核関連技術も航空機も病院も絶対に事故を起こすことはない、と本気で信じることが出来るだろうか?
─ と、ここまで考えつつ、テクニカルな側面も、すなわち人工知能とビッグデータと学校教育の功罪についても再考してみたい。
みんな、頑張りなさい。
以上