2017/02/07

【読書メモ】 基礎から学ぶ刑事法

【基礎から学ぶ刑事法 井田 良・著 有斐閣アルマ
本書は、著者の井田氏も巻頭にて留記されるとおり、学部の1年生など初学者向けに刑事法全般に亘って基本観念から説き起こすコンテンツづくり。
もちろん、法(規範)とはそもそも多元的にして複合的なもの、ましてや刑事法関連ともなれば、我々一般人が日常生活や産業活動のみから経験的に内部化しうる観念ではない。
そんな縁遠い刑事法を基礎から学ぶのであるから、読者としてはどこまでも慎重に捉えてゆかねばならぬ
─ 或る基本観念と別の基本観念が互いに独立の根元であるか、はたまた包含関係にあるか、それらの why/because はどこまで定式化しうるか、などなど、けして俯瞰は容易ではない。
そこを勘案されてのことか、これまた著者が為念記されるように、本書では文面は(平易ながらも)しばしば反復的、また基本タームについてのクロスリファレンスも実にふんだんである。

さて、僕なりにちょっと考えるに。
民事(や商事)の関連法は、自然人としての我々の内部に本来的な良心と調和的な知性が在る、との前提にて編み出されてきた法規範であろう。
その反面、刑事法(とくに刑法)はむしろ、我々が根本的に愚かで破滅的な欠陥者であるとの前提にて、却って我々の外部に不可避的に超然か、うむ、だからこそ、我々としては後追いながらその正当性を常に質さねばならぬようで。
このような刑事法(刑法)のいわば逆説的な超然性は、つくづく軍事力と似ており、軍事力の保持や行使が常に多くの是非解釈論の対象におかれると同様に、刑事法も客観的な考察対象として解釈論が交わされなければなるまい。

じっさい、本書構成にても冒頭部は学術的な解釈論から始まっている ─ 刑事法「学」を狭義に捉えれば、その内訳である刑法学と刑事訴訟法学についての「法解釈」の分野である由。
(尤も、ヨリ広義に、犯罪学と刑事政策学も対象に含めるのならば、刑事法「学」は科学的な研究対象ともみなせるという。)

そこで此度の【読書メモ】にては、刑事法についての基本的な解釈論(とくに刑法)が記された p.98までの案内箇所を掻い摘み、僕なりに以下に概要を略記しおくことにした。


【規範としての刑法】
刑法は、実社会の市民を名宛人として、犯罪行為を抑止させるためる目的を有し、よって「行為規範」である。
また刑法は、裁判所に対して、犯罪を法的に要件化し、人間行為の刑事責任を評価し、然るべき国家刑罰権を発動するように定めており、よって「裁判規範」でもある。
まず「行為規範」が明確でなければ、「裁判規範」として刑罰を科すことは出来ず、だからこそ刑法はその解釈論が常に問われる。

刑罰は犯罪者の刑事責任に則り科されるべきもの、かつ、社会において同一の犯罪を抑止するためのもの。
よって、犯罪が為された場合の被害と刑罰の重さは、バランス関係には存せず被害者の実損害や加害者からの民事賠償とは「無関係」に、刑罰が科されなければならない。

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【法益と刑法】
法益とは、個人や社会にとって本源的に価値のあるもの ─ 生命、身体、自由、財産、安全など、法によって保護されるべき利益のこと。
裁判規範として、刑法は刑罰の発動によってこれら法益を実践的に保護する。

現行憲法下では、法益が実際に侵害されぬかぎり、あらゆる行動も価値観も許容されるべきであり、よって、あらゆる法益が刑法のみで維持されるべきではない。
一方では、刑法による刑罰は、最も厳格に犯人自身の法益を剥奪する。
したがって ─ 刑法は、その適用において、常に慎重さ、つまり謙抑性が保たれるよう検証されなければならない。
ヨリ本質的には、まず、他の法規範/手段で法益が守られない場合のみ、それらを補充すべく刑法が機能するに留まるべきである。
さらに、刑法が保護すべき法益は実社会にて無制限に網羅的であってはならず、あくまで当該の法益のみに断片的に適用されるに留まるべきである。

或る行為にて法益の損失被害者が存在しなければ、また、成人間の同意前提での行為であれば、刑法は刑罰を充てることは出来ない。
但し、性風俗や麻薬類や賭博行為、偽札製造や公務員への贈賄などについては、その被害者が顕在化せずとも、社会の健全な精神文化環境(という法益)を保護するために相応の処罰規定がおかれていることは当然といえる。
誘惑に弱い個人を保護するという意義において、刑法はパターナリズムの体現である。

合法的な事業にて、故意の契約不履行による財産的被害の発生に対しても、刑法による刑罰は原則的には適用されず、あくまで民事的手段で事態が回復されるべきである。
なお、不動産に対する不法占拠行為にても、不動産自体は移動しないため、民事的手段で正常状態が回復されれば十分 ─ とされていたが、この解釈のみでは当該不動産を回復出来ない事態が戦後に生じたため、不動産侵奪罪の処罰規定が新設された。

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【応報刑論】
刑法による刑罰という法的制裁は、いかなる正当性によって認められうるか?
その正当性解釈は、近現代にて大別すれば、「応報刑」論と「目的刑」論がある。

応報刑論によれば、科されるべき刑罰の分量は、犯罪による社会的な法益への実害の大小のみならず、その行為者の犯罪に至る判断経緯と責任によってこそ定められなければならぬ、とする。
これは、カントやヘーゲル以来の古典的な、万民に通ずる「はず」の絶対正義観念に因る、社会全般への「一般予防」を目的とした刑罰論である。

応報刑論の問題点。
まず、犯罪者が行為に至るまでの判断責任を問うのであれば、彼のうちにその犯罪行為を為すか否かの自由選択意思が有る、との前提が必須となるが、これは未だ科学的に証明出来ていない。
次に、犯罪者に刑罰を科すことによって実現されるはずの絶対的な正義自体が、抽象観念に過ぎない。
さらに、刑罰そのものが(犯罪者自身の法益を奪うために)過度に有害な措置であるとしても、この刑罰が犯罪者の判断責任に相応であるとする以上、抑止するための制度が無い。
逆に、累犯者や常習者による犯罪に対しては、それぞれの当該犯罪にてそれぞれの判断責任に応じた刑罰を科すに過ぎず、彼らの再犯防止には必ずしもつながりえない。

尤も、カントやフォイエルバッハはまた、一般予防目的を前提とした刑罰が個人主義を抑えてしまう由も懸念していた。
フォイエルバッハは、刑罰はその立法化の段階にて市民を心理的に抑制しうると主張、これで一般予防目的も果たせるとし、ここから現在にいたる「罪刑法定主義」がおこることになった。

とはいえ、罪刑法定主義の原則をもってしても、応報刑論とは必ずしも一致しえない。
たとえば精神障害による犯罪行為の場合、その犯人の判断責任と犯罪について、罪刑法定主義を以て罰することは不可能(無意味)である。
また犯罪行為者に仮に過度の落ち度が無くとも、或る犯罪が結果的加重犯としてヨリ重い刑罰を科されうる。
そこで、犯罪行為者の責任に相応の刑罰を、と説く「責任主義」もまた現在まで刑法の基本原則である。

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【目的刑論】
応報刑論に対して、リストなどによる新派刑法学が主張してきたのが、目的刑論である。
これは、犯罪者の再犯防止つまり犯罪者への特別予防を目的としてこそ、刑罰が正当化されるという。
ここでの大前提は、犯罪は犯罪者の自由な意思選択以前に、さまざまな社会的要因から為されてしまうもの、そしてそれらは科学的に分析が出来、犯罪者への事前抑止も働くはずである、という捉え方である。

ただし、この目的刑論にも問題点は呈されている。
まず、犯人への特別予防としての刑罰を科していくと、彼への処罰範囲を過度に拡大しうることになる。
あわせて、犯罪認定も(だから刑法の謙抑性も)ルーズになってしまう。
さらに、受刑者が改悛するまでの不定期刑、との刑罰措置も頻発しうることになり、受刑者の地位が不安定になりうる。

そこで現在は、刑罰の目的として、応報刑論を基本におきつつも、犯人の判断責任の範囲内にて特別予防を図るという、いわゆる相対的応報刑論が採用されている。
これも抽象性は免れないが、それでも現在の我々が刑罰について踏まえるべき基本観念は ─
犯罪行為の責任の追及と犯罪の予防は、必ずしも矛盾せぬこと。
また、過去の行為への非難を通じてこそ、将来の犯罪を予防すべきであること。

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【罪刑法定主義と裁判所】
フォイエルバッハの着想に始まった罪刑法定主義は、議会による民主的決議による刑事立法こそが、市民の自由な行動と犯罪行為を判然と区分すべきである、という原則である。
よって、裁判所よりも議会こそ信頼し得るとの前提に立ってきた。

日本国憲法(31条)にては ─ 「何人も、法律の定める『手続き』によらなければ、その生命若しくは自由を(つまり法益を)奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」。
ここでの『手続き』は、刑事手続法のみならず、犯罪と刑罰についての実体法による法定を要求している、と解釈すべきである。

罪刑法定主義を貫くならば、既定の刑罰法規についての「類推解釈」と適用は原則として禁止であるはずである。
にもかかわらず、我が国の裁判所は刑罰規定を柔軟に類推解釈しつつ、犯罪の成立を認める傾向にある ─ だから無罪判決が回避されがちとなる。
これは歴史的にみて、近代過渡期に日本で犯罪が激増したこと、よって裁判所があらゆる法益保護を(目的論として)最優先してきたことによる。
実際、現在に至るまで、我が国では刑罰法規それぞれが簡潔かつ包括的な表現に留め置かれている。

なお日本国憲法では、アメリカ法の刑罰法規の影響のもと、刑罰の明確性の原則と、その刑罰の程度における適正原則(実体的デュープロセス理論)を保持することとしている。
そして裁判所に対して、違憲立法審査権を与え、刑事立法に対して無効解釈ないし制限的解釈を認めている。

ところで、地方自治法にては、地方公共団体による制定条例が刑罰法規を含むことを認めている。
条例といえども、民主的議決による自治立法であるから、国法と刑事法に準じた強制力を有するはずで、よって刑罰法規の設定は罪刑法定主義に反した立法ではない。

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※ とりあえず、ここまで。
さらに本書にては、法益の種類と実践的な定義(電気通信がらみの法益については是非注目したい)、犯罪論、量刑論、刑事訴訟法、国際比較と続く。
法分野に通じた人はむろん、これからかじりたい学生諸君などなどにも是非とも薦めたい総括本である。
だが、平易な文面の良書とはいえ、くれぐれも速読はなさらぬよう。
僕なりに、上のとおり刑法の基本観念につきまとめてみただけでも、けして一筋縄では括りきれない多元的な相克の解釈世界なのである!