「あったりまえの」 ことに絞ったが、だからこそ踏まえておいて欲しいことを、いくつか。
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生業とバイトは根本的に違う。
どっちが偉いか、なんてことは分からないし、そんなこと語るつもりもない。
ただ、生業っていうのは、何らかの雇用/被雇用の関係において、両者がともに何か新規に生み出すことを前提に、継続的に働き続ける、そういう仕事をさす。
企業組織だけとは限らないよ、個人でプロになるにせよ、継続的に新規の創出を追求するならば、おのれの生業だ。
そして、そういう継続や協業の関係を構築したくない場合に、雇用者は言うがままの労働者を暫定的にのみ使役し、これをバイトという。
生業として何らかの仕事を選び、それに挑むなら、日々学ぶこと、周囲を大切にすること、かつ、遠慮せぬこと、ケンカも辞さないこと。
それでおのれがパワーアップを実感出来るのなら、その仕事はおのが生業に向いてるってこと、逆に環境から弾き出されるのなら、向いていないってことだ。
向いているか向いていないかは、本気でつっかからないと分からないよ。
それから。
社会生活では責任という言葉が錦の御旗みたいに横行している、が、新規に何にも創出しない仕事、そんな職業に、責任なんかもとより存在しないんですよ。
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仕事とは、そもそも何か?
物理学ならともかくも、人間世界にて仕事の定義は途方もなく難しい ─ ような気がする。
しかし、それでも思いっきり簡単に了解するならば、人間の仕事の根元は、「何が/何を」 だと察する。
つまりは、モノだ、マテリアルだ、それからもうひとつがエネルギーだ。
なんだ、あたしはサービス業だし…などと早とちりせず、さあ、ちょっと大胆に考えてみてほしい。
人間が利用可能なモノやエネルギーの複合的な組み合わせが、新たなモノやエネルギーを生み出す。
ここまでは、いいですね。
それらに働きかける仕事を ─
栽培と言い、収穫と言い、漁獲と言い、伐採と言い、探索と言い、軍事と言い、発送電と言い、洗浄消毒と言い、医療といい、調理といい、技術開発と言い、製品開発と言い、設計と言い、部材調達と言い、製造と言い品質管理と言いメンテナンスと言う。
そして、これらの仕事があってこそ。
数理コンピュータがありITがありICTがありロボットがあり、輸送貿易があり卸売や代理店業があり、金融があり証券があり経理があり財務があり、法務があり人事勤労があり、だからこそ、教育産業や娯楽産業があり、政府があり裁判所があり、議会もある。
誰が偉い、とかではなく、仕事を考察する上で何が何に優先し、どういう行為がどういう行為に依存しているかを、ざっとまとめたつもり。
これが分かれば、仕事の意義だの位置づけだので、いちいち混乱せずとも済む。
そして、経済や企業経営を考える上でも、国家/国際経済を考える上でも、これが基本。
ちっちゃなタコ壺に嵌まって苦しむなかれ、いつもトータルにでっかく考えろ。
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就職してから、誰もが一度は考え、しばし悩むこと。
『労働者たる我々人間は、この世の中で「不足」することになっているのか、あるいは、必ず「余って」しまうことになっているのか』。
このバランシングは、何らかの仕事の根元であるモノやエネルギーの多様化の速度が、労働者の増加速度よりも速いか遅いかで決まる、とはいえないだろうか?
ちょっとだけ思考実験だ。
たとえば地球上の有機化合物、これらは確認されているだけで数千万種類は在るというが、これらのうち数百万種類でも、人間が仕事として取り組めるモノが在るとしてみよう。
それらの組み合わせが多様になり、それが労働者の増加速度を上回っていけば、農産品だって飲料水だって薬剤だって繊維素材だって工業製品だって、必ず種類が増え続けるだろう。
産品や素材や製品の種類がどんどん増えていけば、だ、いずれはどんな人間だって何らかのモノに携わる(だから諸サービスに携わる)機会が生じることになるでしょう。
それなのに、実際にリストラが続き、ベテランやジジィババァがどんどん職を失い、一方では若者も参入出来ない ─
となると、きっと誰かがどこかでモノとは関係無い利害を振り回しているってことになる…
こういう検証を科学者や経済学者が真面目に進めているかどうかは知らないよ。
とまれ、要するに、頭に留め置いて欲しいことは ─
モノやエネルギーの多様性から鑑みれば、産品が増え素材が増え製品が増え、だからサービス業だって増えるから、誰だっていずれは、おのれの仕事にかかる何かにたどり着けるんじゃないかな、ってこと。
発想はでっかく行け、でっかく!
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価値観の多様性という言葉について。
学生が学術探求のために使いまわすのはよい、でも社会人になったら、もうこんな言葉を使うのはよせ、みっともない。
理由は簡単。
上に挙げた様々な仕事は、どれもさまざまなモノやエネルギーに根本に拠っており、それぞれの仕事に従事する人間が、みんなバラバラに異なった価値(観)を有しているのはあったりまえ。
それを、多様に、もっと多様に!と叫ぶ連中は、よっぽど画一的で統制的な労働世界が前提にあるのだろう。
どうせ本音はカネ、カネ、カネ、俺らにも回せ、だ、ほっとけ。
こんごの先進国では、そういう連中はどんどん締め上げられていくだろう。
以上