毎年のように言っていること、此度もまた記す。
① 入学時点での 「学力」 偏差値は、もう拘るのはよせ。
そんなもん、諸君の 「知力」 にはほとんど関係ない。
あえて言葉を使い分けてみる。
まず、「学力」 は既得の、皆が知っている(知り得る)命題の、記憶量だ。
絵画で例えれば、どこかで買ってきたり、誰かに与えて貰った、絵筆やキャンバスのようなもの。
一方で、「知力」 は、未知の事象への論理的な想像力であろう。
これまた絵画に例えれば、まさに諸君が描いていく絵だ。
はて、それでは、「知力」 に偏差値があるだろうか…誰がどういうデータから算出するのよ?
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② ただし。
大学出てからどうなるのかについては、拘るべきだ。
就職は採用先と諸君との経済的な合意、さらに人格上の信用にまで則ってのこと、こちらは 「知力」 のウェイトがかなり高い。
じゃあ縁故採用はどうなんだ、と言うかもしれないが、縁故採用する企業側が将来業績が上向くか、はたまた、くたばっていくかは、まさに採用企業と送りだした大学の 「知力」 の問題である。
ともかくも、採用企業と大学の間には期待能力と信用関係が強く働くと見ておくべきだ。
ということはだよ、君たちの大学での知力の研鑽次第で、「うちへ来ないかね?ん?どうかね?」 と誘ってくれる企業が - 企業ではなくともそんな人々が必ず居るってこと。
そうなると、後押ししてくれる大学関係者だって居る。
ましてや、君たちの年代は頭数が少ない、だから世の中では、少なくともジジイやババアよりは需要が高いのだ、カネの配分以前の真理だ。
さぁ!自信を持っていけ。
くだらん左派連中の不安扇動に引き込まれるな、そんなもん、カネのつまみ食いでしかないんだ。
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③ 発想方法について。
大学では、「何が/何を」 「どうなる/どうする」 「なぜ」 「誰が、いつ、どこで」 について、情報がワンサカワンサカ、洪水のように押し寄せて、また冗談みたいに雲散霧消していく。
ただ、理科系も社会科系も藝術系も問わず、必ず根本に据えなければならぬ着想起点は、「何が/何を」 だ。
なぜなら、「何が/何を」 だけは、情報のみならず厳然としたモノの存在そのものであり、真偽そのものであるからだ。
そこからこそ 「どうなる/どうする」 が生じ (言語にしたって、名詞があるからこそ動詞があるのだ)、だからこそ、君たちの知力のうちに 「なぜ」 もおこる。
それからやっと 「誰が、いつ、どこで」 の出番となる。
この順番を間違えると、在りもしないモノにまつわる大ウソに騙されかねない。
大学教授がどんな損得から、何をどんなふうに語ろうとも ─ いいかね、エネルギーも電気も水も炭素もピカソもゴーギャンも、厳然として存在するのだよ、誤魔化しようが無いのだよ。
思考の順番だけは間違えぬよう。
以上
ちょっとだけ愛を込めて (男子へじゃないぞ)。