2018/01/27

マラトン

アテネの勝利を伝えんと、マラトンの丘から走り続けた男を、今の我々は勇敢だとも愚直だとも批評出来る。
批評どころか、嘲笑することさえも出来る。
尤も、当時のマラトンの丘からアテネの城門までの本当の距離を、いや、その逸話の真偽さえも、我々は知ることはない。
それでも嘲笑するということはだぜ、我々は心のどこかで、はるかマラトンからアテネまで命懸けで駆け抜けた男の実在を想像し、信じているということだ。

なるほど、マラトンから駆けてきた男は、アテネの城門の前で死んだ。
ローマによる侵略に挑んだ英雄ハンニバルも死んだ、亡国的な権益に反旗を翻した魁傑カエサルも裏切られて死んだ、ナポレオンと戦ったネルソン提督も戦火のまっただ中で死んだ、国家統一をはかった織田信長もクーデタで死んだ、新たな経済システムを夢見た坂本龍馬も暗殺されて死んだ、乃木希典も山本五十六も死んだ。

人はいつか死ぬ。
それでも、死んだ者たちは ─ その精神のエネルギーは、いつか再び顕在化する。
空間を超えて時間も超えて、人種も言語も世代も超えて、豪気と歓喜の波長をおこし、交信とリレーを続けつつ、ふたたびどこかの誰かのもとに、きっと蘇る。
ふたたび蘇る真の思念は、三度でも四度でも、何度でも蘇りうる。
いまわれわれの、おのれの意思は、意思を支える命の意味は、どこかからやってきたもの、そしてどこかへ送り届けるもの。

アインシュタインは、量子運動の確率論に懐疑的なあまり、つい、神はサイコロを振らないと言った。
ということは、神なる存在は認めていたわけである。
あるいは、神なるものは、人間による物理学や数学の側には居ない - かもしれぬ。
しかしそれでも、神なるものは、我々人間の側にこそ、姿かたちを変えながら、教義も名前も変えながら、きっと生き続けている。

今宵に仰ぎ見る天空の星座は、いずれは必ず変わりゆく。
しかし、人間が続く限り、いつかまた同じ星座が見出され、同じ神話が語られ続ける。


以上