本書は古代ギリシアの原子論から現代最先端のループ量子重力理論まで、物質(実体)への段階的かつ透過的なアプローチをいわば物理学者たちの列伝形式にて書き綴ったもの。
なるほど "すごい" "講義" と銘打たれてはいるが、高校教育までの物理学に一通り馴染んだ読者であれば2晩で読み通せる程度の概括コンテンツに抑えられている「はずであり」、むしろエッセイ集に近いともいえよう。
しかしながら、本書は文面がやや反復的にして分量も過大であり、同義のタームについてさまざまな語彙を充てて躍らせるなど、ところどころ却って気が散ってしまい読みにくい。
だから本書の読者諸兄には、理論書や数学書に対するような精読は敢えて勧めない ─ むしろ速読が望ましいというのが僕なりの雑感であり、そんなわけで本ブログにおける書評メモには載せずに済ませようかとも思った。
とはいえ、本書は量子力学が成り立つ論拠を(つまり量子力学という学術上の着想方式を)かなり明確に要約しており、ここが本書を推す理由である。
それはp.129前後に簡素に纏められており、すなわち;
① <量子の粒子性>
物質も、現象も、場も、無限小の何かによる連続無限の運動ではなく、離散的な有限個の超微小粒子(つまり量子)の振動から成り、その発生量(の情報)も有限である。
② <量子の相互関係性>
量子は静的ないし完結的な存在ではなく、振動しながらさまざまな系と相互作用し、相対的に影響を与え合うものである。
③ <量子の不確定性>
超微小に振動する量子がいつ、どこに出現するのかを確実に予見する方法は現在まで見つかっておらず、だから量子から成る物質と現象は人間にとっては不確定(確率的)な存在と言わざるをえない。
これらを着想上の論拠として様々に活かしつつ、量子力学のうちでもとくに「ループ量子重力理論」へと誘うのが、おそらくは本書の大筋である。
それでは、本書コンテンツにつき僕なりにざっと読み抜いた上で、読書メモを以下に列記する (なお本書中における「世界」は「宇宙」と同義であると考え、以下のメモではすべて後者を採っている。
<古代~近代>
デモクリトスは、万物を成す基本的かつ共通の最小物質が「存在する」と直観し、しかもそれは有限個であるとし、これが現代まで続く原子仮説のはるか遠い太祖となった。
一方で、ゼノンやプラトンやアリストテレスは、無限に小さなサイズの物質や時間を足し合わせればやはり無限かそれとも有限個かといった、形而上学つまり数学の議論を深めてゆくに至り、これは近代数学における収束や発散の理論につながってゆくことになったが、物質の実在を見極めんとする物理学の端緒とはいえない。
とはいえ、ピタゴラスとプラトンとプトレマイオスは、古代の数学と天文学を集大成し、「数学による演繹は万物を記述しうる」ことを明らかにした。
また、アリストテレスは物理現象を徹底的に「観察」して記述、観察というアプローチを以て物理学と称した。
このように、近代以降の物理学を支える「観察」と「数学」が、それぞれ古代ギリシアの隆盛期に確立されかけていたのである。
近代初めに、コペルニクスとケプラーは「観察」と「数学」を以て、プトレマイオス以来の天文学を大胆に書き換えることになった。
コペルニクスをもとにして、ガリレオは物体の運動を「実験」と「数学」で記述し、物体が為す一定の速度変化(つまり「加速度」)と時間の法則を導いた。
ニュートンは、月が起動の中心に向かって動く加速度がガリレオの明かした地上物体の加速度と同じであることから、あらゆる物体を「直接引きつけあう重力」が存在するとし、重力とニュートン定数を数式で表現。
また、宇宙は巨大で一様な「空間」から成り、そこでは「微小な粒子」が直接に作用を及ぼしながら、「時間」の流れの中で永遠に運動を続けている、とした。
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<電磁場・時空間>
ファラデーは、空間のいたるところにて物体と物体の間に何らかの力を運び合う「力線」の「場」が存在し、そこで力線が波のように振動することに気づいた。
ファラデーの観察をもとに、マクスウェルが数学を投入して「電場」と「磁場」の方程式をまとめた。
さらにマクスウェルは、ファラデーの力線の移動速度が「光速」と一致していると気づく、つまり、光とその振動である色はまさにファラデー力線の揺らぎであることになる。
アインシュタインの「特殊相対性理論」は、あらゆる空間(その距離)を超えて独立不変の絶対時間など存在しないことを見抜いたもの。
時間は極小の領域に過ぎず、その領域を空間が超えると時間がずれる、つまり、空間と時間は互いに独立した次元ではなく同じ次元であるという、これが「時空間」の概念のはじまり。
さらに、電場と地場も互いに独立した次元ではなく、「電磁場」として同じものだと。
アインシュタインはさらに、エネルギーと質量も同じ実体であり、一方から他方に変換出来、保存則と総和はいつも等しいと考え、質量1グラムから得られるエネルギー値を表した。
アインシュタインによる「一般相対性理論」は、ファラデー/マクスウェル以来の力線と場のコンセプトを重力にまで適用させたもの。
電磁場と重力の場は同じものである ─ つまり統一的にみて宇宙のすべての場は"巨大な軟体動物のような"「重力場」のみであるとした。
この宇宙をつくっている実体は「重力場」となんらかの空間「粒子」のみであることになる。
なお、アインシュタイン自身は数学が不得手であったが、数学の得意な友人たちの協力を得つつ、ガウスやリーマンによる屈曲空間の数学を導入することに成功。
こうして一般相対性理論では、時空間のリーマン曲率がニュートンの重力定数と物質のエネルギー量の積に比例する由の方程式を導き出した。
一般相対性理論によれば、天体が燃焼を終えると自重に耐えるだけの熱を生み出せなくなり、圧縮されて潰され、そのさいに空間が激しく歪みブラックホールを成す、としており、ブラックホールはじっさいに現在までに数多くが発見されている。
また、重力が波のように激しく振動することも予見、この重力波も現在までに多く観測されている。
「現在の」宇宙が膨張し続けているとの見解は、アインシュタイン自身の直観ではなく方程式そのものから導かれてしまったものだが、やはりすでに事実として確認されている。
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<量子論>
プランクは、電気的に平衡状態にある高温の箱の内部にてどのような電場が形成されるかを実験観察、その結果を公式化するために、電場のエネルギーが何らかの微小サイズの粒子の形態をとって分布していると推定。
その何らかの粒子を「量子」とおき、量子がもつ熱エネルギーは電磁波の「振動数」と特定の係数つまりプランク定数との積である、と「仮説」した。
アインシュタインは、それまでに知られていた光電効果をプランクの仮説と併せて、「光」を定義しなおした。
光は電磁波であるのみならず、独立単体で存在するエネルギー粒子つまりフォトンが集まって成るものであり、個々のフォトンが持つエネルギーは振動数によって決まる、とした。
ボーアは、それぞれの元素の電子が振動して発する色、つまり光の「スペクトル」と、それぞれの電子の「振動速度」の相関を突きとめようとした。
そこで、電子は原子からの距離が特定の値となった時のみに存在し、かつ、それぞれの原子がもつ特定の軌道間を電子が跳躍する、と「仮説」した。
ここまでで、量子を粒子として捉える見方が確立された。
ハイゼンベルクは、ある特定の瞬間において或る電子が(粒子として)別の粒子と相互に影響しあっているという、まさにその場合にのみその電子が存在している、と閃いた。
そこで、粒子間の相互関係作用を一覧する行列(式)を作成、こうしてボーアの仮説は数学となった。
さらにディラックは、あらゆる物体を量子の集まりとして、あらゆる物体の運動とエネルギーが他の物体と相互作用を起こした時のみに起こり、それぞれの変数は或る特定の値のみをとる、と数学的に総括し、「量子力学」の方程式を記した。
ここまでで、量子は相関性の物質であるとの見方が確立された。
しかし、ディラックがまとめた量子力学はあくまで確率予測の数学に留まっており、「じっさいに量子がいつ相互作用を起こして姿を現すのか」を予測する物理学上の手法は、現代まで確立されていない。
ここまでで、量子は不確定性の物質であるとの認識も共有されるに至った。
ディラックはまた、量子式学の方程式を「場」にも適用出来ると気づき、「場の方程式」をまとめた。
たとえば、電磁場はファラデー力線だが、その振動数とエネルギーは特定の値しかとらない、よって、微小なスケールで見れば電磁場もフォトン粒子つまり量子の集まりといえる。
逆に言えば、電子をはじめあらゆる粒子状の物体、つまり素粒子は、場を成す量子でもある。
ここから、場と素粒子が量子として一体であることが明らかになった。
二十世紀を通じて、「重力を除いた」場における素粒子の標準模型理論が組み立てられてきた。
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<量子重力>
ランダウとブロンスタインは、空間の特定の一点で不確定なはずの量子を考慮に入れると重力場を正しく記述出来ない、と気づく。
量子力学と一般相対性理論を併せて演繹すると、「或るスケールを下回る重力場にはいかなる素粒子も存在しない」ことになり、重力場も量子的な存在であるとして最小スケール長を導き出した。
これがプランクの名を採ったいわゆるプランク長であり、10の−33乗センチ長の超微小スケールであり、プランク定数とニュートン重力定数と光速によって数式化される。
こうして、宇宙のあらゆる空間にひろがる重力場さえも超微小サイズの有限個の量子から成る、との見識が始まった。
ホイーラーとド・ウィットは、プランク長サイズの「量子重力場」を、あたかも超微小かつ相異なる図形が重なり合った雲のごときものとイメージ、そこに量子が超微小なスケールで存在する(あるいはしない)と確率上は特定出来る、とした。
この着想に則ったホイーラー=ド・ウィット方程式は数学的には不明瞭なものでもあったが、この解の探求は現代まで続き、その過程で「ループ量子重力理論」が導かれてゆく。
ここでの「ループ」はいわば量子重力場(空間)のイメージであり、量子「節」と、それらをつなぎあう「リンク」から構成されるもの。
各「節」は特定の体積があり、またそれぞれをつなぎあう「リンク」も面積だけは有し、しかもそれぞれの「リンク」に半整数(スピン数)を割り当てる。
このイメージ表現は「ループ」であるとともに、特に「スピンの輪」とも称され、量子重力場の量子的な状態変化を離散的に(確率的に)表現出来る。
※ なお、量子重力場における量子状態を表す「ループ」については、本書紹介の半整数リンクの輪とは別に、リンクが整数ないしゼロ価をとるボース粒子なども広く知られていること、言わずもがなか。
量子重力場における量子の状態変化こそが時空間を成す、として、今や統一的に「共変的量子場」の解釈が…
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…ふぅ、ここまでだ。
僕なりになんとか論旨を了解したつもりで略記してきたが、p.210あたりに差し掛かり、そろそろ訳が分からなくなってきた。
物理学が物質と現象を(それらの正体を)どこまで論理的に突き詰めてきたのか、その高次なアプローチの単純明瞭な総括こそが本書のエッセンスのはずであったろう ─ しかしながら、とにかく文面が不相応に多い、多すぎる、だから読み進めていて思考の焦点がどうしてもぼやけてしまう。
さて、p.210にては、昨今話題となったヒッグス粒子が超対称性粒子の存在証明を導かなかったこと、だから超ひも理論は完全な素粒子論ではないこと、しかしながら本書著者が有力視するループ量子重力理論も確固たるものではないこと…云々が軽くしたためられている。
ここいらから巻末までは、さらにループ量子重力理論に則っての思考アプローチが縦横無尽に補説されるのかな、とも想像するが、なんとなく読む気が失せてしまったので、関心意欲の高い学生諸君にお任せすることとして、とりあえずおわり。
以上