しかし自然物のうちには、とてつもなく卑近でありつつも厳密な解釈が固まっていない、そういう真の意味でのワイルドな対象物もある ─ 今般取り上げる本はそういう分野についてのものである。
『「香り」の科学 平山令明・著 講談社BLUE BACKS 』
本書が紹介するコンテンツは、未だハッキリと定義しきれていない「匂い(香り)の分子と嗅覚のかかわり」、次々と引用例示される化合物の数々、それらの実体から実態へ、どのように絞り込むべきか≒さらに絞り込み得るか、こんご更に何が導かれうるか、いくぶん雑然としてはいるもののそこが"新しさ"バツグン。
特に化学ファンや生物学ファンの読者は、想像力とともに創造力すらも掻き立てられてやまない、かもしれぬ。
そんなことを考えつつ、あくまで本書中盤までのさわりの箇所ではあるが、以下に【読書メモ】として略記しおく。
<遺伝上の形質>
生物は、原始にては水棲であったため、水中の物質に鋭敏な化学感覚(嗅覚や味覚)を有していたはず。
しかし霊長類(含む人間)は進化の過程で色覚を獲得し、生存を色覚能力に大きく依存するようになり、その反面で化学感覚は生存決定能力ではなくなってきた、と想定されている。
我々人間は嗅覚にかかる遺伝子を821個(種類)有しており、じっさいに嗅覚細胞の細胞膜の中に「嗅覚受容体(タンパク質)」を体現させている遺伝子だけでも396個有ると見做されている。
色覚(三原色への)に対する受容体と比べれば、嗅覚受容体の種類は極めて多い。
なおチンパンジーやオランウータンは人間よりも嗅覚受容体の種類が少ない。
我々の嗅覚細胞膜における嗅覚受容体に、或る特定の「匂い分子」が結合すると、その情報は特定の糸球体に入力され、これが2つのルートで脳に伝わる。
1つは視床でいったん中継され、そこから大脳新皮質へ送られて情報処理されるルートであり、これは他の感覚情報処理と同じである。
もう1つは大脳辺縁系領域にダイレクトに送られ、記憶や情動を活動させるもので、こちらのルートでは意識による解析を経ていないが、古来の生物にとっては嗅覚が急を要する感覚であったためにこういう短絡ルートが出来たのではないか、と考えられている。
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<嗅覚受容~伝達メカニズムの概括>
そもそも、細胞膜に埋め込まれているさまざまな受容体(レセプター)タンパク質は、細胞間の化学伝達物質を選択的にさまざまな細胞質へと浸透させている。主要な受容体タンパク質は「Gタンパク質共役型受容体(GPCR)」形式のものであり、立体構造は実験的には未だ明らかではないが、細胞膜を内外に貫通する7本のヘリックスが外部の情報を細胞質に伝える ─ とシミュレーション上は了解されている。
GPCRは人体における多くの病気の発症に関与しているが、その作用分子(リガンド)との関係を逆用することで発症の制御も可能、これを模した医薬品の研究開発も進められている。
GPCRの研究にて、レフコウィッツとコビルカは2012年にノーベル「化学賞」を受賞。
さて、嗅覚受容体もGPCR形式のものである。
細胞膜に埋め込まれている嗅覚受容体に何らかの匂い分子が結合すると、Gタンパク質のサブユニット分子のうちα分子が反応してグアノシン三リン酸と成り、これが嗅覚受容体におけるアデニル酸シクラーゼ酵素を活性化させる。
活性化されたアデニル酸シクラーゼは、アデノシン酸リン酸(ATP)を環状アデノシン一リン酸(cAMP)に変換。
この一連のタンパク質の反応が、匂い分子と嗅覚受容体の結合を細胞質に伝える。
なお、嗅覚受容体と匂い分子が外れると、アデニル酸シクラーゼは初期の不活性状態に戻り、Gタンパクのサブユニット分子も元の状態に戻る。
かつ、ここで細胞膜内のcAMPは細胞外からおもにカルシウムイオンを細胞内に流れ込ませ、細胞内の+イオンを高めつつ(分極させつつ)、塩化物イオンを細胞外に排出する - いわゆるイオンチャネル機能を有している。
こうして細胞膜の活動電位が高まり、これが神経細胞間の電気信号となって脳に伝わってゆく。
なお、「匂いの分子」と嗅覚受容体の対応関係は単純なものではない。
我々の鼻には嗅覚細胞が約1000万個有り、外部からの匂い分子を粘液で溶かして捉える。
これらの嗅覚細胞1つあたり、たった1つの嗅覚受容体しか載っていない、にも関わらず、約400個の嗅覚受容体に対しては総じて約40万種類の匂い分子が結合しうる、とされている。
このように、匂い分子と嗅覚受容体の精密な対応付けは極めて難しく、我々が実際に識別出来る(であろう)匂いの数も1万種類程度だという説から1兆種類を超えるとの説までばらついている。
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<分離/識別技術の概括>
自然状態でさまざまに混じり合っている匂い分子を、人間の嗅覚のみによって識別することはほとんど不可能である。
匂い分子を化学的に分離し判別する方法としては、ガス・クロマトグラフィーがよく用いられる。
分離目的である2種類の「匂い分子(試料)」を「固定相」の物質に吸着させガラス管のカラムに封入し、ここに「移動相」のキャリア・ガスを混ぜて気化させると、これら2種類の匂い分子はキャリア・ガスに乗って固定相から分離する。
これら2種類の匂い分子と固定相の吸着強度に依って、分離の距離も時間も異なるはず、この違いによって匂い分子を化学的には分離出来る。
※ なお、ガス・クロマトグラフィーの固定相には、匂い分子(有機分子)を吸着はするが化学反応は起こさない物質として、シリカゲル、活性炭、アルミナなどを起用、一方で移動相(キャリア・ガス)としては、匂い分子と化学反応を起こさないヘリウムを使用している。)
ただし、こうして分離したほとんどの匂い分子には色が無いため目視では物質特定が難しく、そこで更に電気的な検出(水素炎イオン化検出)や熱伝導度検出などの技術を用いて特定を図っている。
これら一連の検出によって化学的(つまり論理的)に匂い分子を特定出来るため、未知の匂い物質の成分を類推するさいにも広く応用されている。
なお、匂い分子の「化学構造そのものを見極める」ためには、さらに質量分析法、赤外線吸収スペクトル法、核磁気共鳴スペクトル法が起用されている。
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<化学属性>
匂い分子の多くは分子量が30~300の低分子有機化合物であり、分子量の大きな匂い分子ほど(分子数は少なくても)我々の嗅覚受容体と強く結合し、だから匂いを長く感じる。
匂い分子の多くは常温/常圧にて液体であるが、沸点は20℃~370℃まで幅広く、ほとんどは300℃以下。
匂い分子は、我々の嗅覚上皮の粘液に溶ける親水性である、しかし嗅覚細胞膜の中の嗅覚受容体に辿り着くので親油性でもある …
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…以上、第6章のさわりまでとりあえず読んではみたが、いや、匂い分子の化学属性は簡単に箇条書きでまとめうるほど易しいものではなさそうだ。
さらにp.113 には「化学構造と香りを1:1で関係付ける法則はまだ見出されていない」 とある。
p.136にある匂い分子の「濃度」と「嗅覚強度」の対数式(ウェバー=フェヒナーの法則)も、検知や認知の閾値についての概念理解には有効とはいえ、特定関係の定義づけには遠い。
とはいえ、本書の第6章以降は、さまざまな分子モデルと匂い特性についての「関係論」がぞくぞくと紹介される ─ まさにこの"新しさ"ゆえに、本分野は簡単に要約しうる代物ではなかろう、が、それゆえにこそ、特に化学分野に通じる読者諸兄にとっては、多くを実験的に推察しまたおのれのインスピレーションを引き出しうる巨大な源泉たりえよう。
以上