2018/06/27

恋のトリコロール


パリに業務出張した時のこと。

或る現地代理店との商談のため、先方のサブマネージャと会う段となった。
尤も、その代理店からは夕刻時の或るレストランを指定されたため、僕はちょっとガッカリした。
それは目抜き通りを数ブロックほど南に進んだ処に在る、洒落た造りの大きなレストラン。


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レストランに入店してみれば、店内は静かで落ち着いた風情、そして此度の代理店の名で席が予約済み。
ほほぅあちらの席かとまっすぐその席に歩み寄って…僕はドキッとした。
そこには、(察するに20代後半の)二人の女性が列席しており、サッと同時に立ち上がると僕に会釈、それから自己紹介。
一人は黒髪でキリっとした容姿の美人タイプ、実名は明かせないが「ジュスティンヌ」と呼ばれており、どことなく日本美人にも似た聡明な目鼻立ち、彼女こそが此度の代理店のサブマネージャであった。
ハハン、と僕は察していた ─ してみると、このもう一人の方は、この金髪で痩せ気味で垢ぬけないトンボ眼鏡をかけた田舎風の女は、ボンヤリした部下ってところかな。
続けてその痩せたトンボ眼鏡の女が続けて自己紹介したが、意外にも、彼女もまた同格のサブマネージャであり、実名は隠すが「エマ」と称していた。

ジュスティンヌがビジネス概況を語り始めた。
流暢な英語がカッコよく、しかもその語り口調がちょっとチャーミング、僕は彼女の美貌に吸い込まれるようにまっすぐ正対しつつ、もうメモなどは上の空。
一方でエマはといえば、トンボ眼鏡の奥の青い瞳は無表情に僕を観察していたようで、ほとんど口を開かず、細い身体を時おり左右に揺すりながら、何かを思案している風であった。
ジュスティンヌが笑い声を挙げた。
「ふふふっ、面白いでしょう?エマは何かを考えるとき、こうやってメトロノームみたいな仕草をするのよ」
僕はアハハハと吹き出しそうになったが、エマがやはり表情を変えず、ちょっとぎこちない英語で 「あまり面白くはないでしょう」 と続けたので、僕は黙っていた。


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さて翌朝である。
いよいよこの代理店にて勤務開始。
美貌のジュスティンヌと朝から晩まで同伴して楽しいビジネスライフを、などと想像しつつ僕はウキウキしながら出勤した ─ だが其処で僕に応じてくれたのはエマだけであった。
あのぅ、ジュスティンヌは…思わず問いかけようとした僕を制しつつエマが言った 「ジュスティンヌは居ないわよ、別の仕事があってパリを離れたの」
エマの抑揚の無い口調が、ちょっとだけ気に障った。

しかし、エマのデスクの隣に席を構えて彼女の仕事所作を眺めているうちに、僕はちょっと唖然とした。
僕が提示するつもりであった或るセキュリティシステムについて、彼女は既にあらかた概要を了察していたようで、関連仕様の図案をパタパタと展開していく。
「へーー。よく、調べているんだねぇ」 と僕が軽く驚き声を挙げたら、エマは 「仕事だから、あたりまえよ」
エマの額にかかっている金色の前髪が、時おりふわんふわんと揺れ、トンボ眼鏡の奥にある真っ青な瞳はモニター画面をじっと見つめたままであった。


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それから、意外な展開となった。

エマと製品技術についての情報交換を続け、それから昼食を供にし、夕刻まで隣席で仕事をこなしているうち、僕はエマに 「君はスマートだね、なんだかホウキみたいだ」 と冗談を発し、エマが 「あなたはずんぐりとしたペンケースみたいよ」 と返す、そんな打ち解けたムードに至っていた。
エマは口数が多い方ではなく、時おり、文字通りメトロノームのように身体をスイスイと左右に傾け、さらに、痩せてはいるが長い手足を前後に大きく振りながら、僕のちょっと後ろを、否、ちょっと前を闊歩していく。

一週間ほど経過し、美貌のジュスティンヌは出張中のままであったが、僕は次第にこの不愛想だがどこか楽しいエマに心奪われていったのである。
それどころか、夢の中にさえエマが現れるようになった
ホテルで目覚めも、どこか夢心地のまま。



その日。
いつものようにエマの隣席において秘かにドキドキしつつ、彼女の出勤を待っていると。
彼女は平素のトンボ眼鏡はどこへやら、素顔でやって来たのだった。
「おはよう」 と、僕たちはほぼ同時に声を掛け、さらに同時に 「眼鏡が」 と切り出していた。
エマが曰く、コンタクトレンズに替えたとのことで、どうしてかと尋ねると、彼女はちょっとだけ恥ずかしそうに、「この方が少しは美人に見えるでしょう」 と言った。
もちろん、この日の僕はもう仕事にならず、それでもエマは淡々とパソコンのモニターを見つめながらプログラムと機能を確認し続けていった。


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そして。
二週間が経ち、僕がパリを発つことになった、その前夜のこと。

初めて出会ったレストランにて、僕はエマと二人だけでささやかな夕食を。
「あたしが、おごるわよ」
「いや、僕がおごってあげたいくらいだ」
そんな会話を、ぽつっぽつっと。
「あたしは、やっぱり眼鏡の方が似合うかしら」
「さあ、どっちでも」 どっちでも素敵だ、とは言えなかった。
「ねえ、タク、あなた幾つなの?」
「君とほとんど変わらないよ、頭の中はね」
「そう」
しばらく黙って食事を続けていたが、やがてデザートが運ばれてきたとき、エマが肩をかすかに張った仕草になって、「ジュスティンヌがさっきパリに帰ってきたのよ」 と言った。
「へぇ、そうなの」
「…それだけよ」
「ふーん」

「ねえ、タク」 とエマが身を乗り出してきた 「…フランス国旗の、自由と平等と博愛のトリコロール。この3つは相互に補完しあっているのよ」
エマがこれだけ立て続けに喋ったのは、初めてであった。
「ふーん、そんなもんかね」
「そんなもんよ…ねえ、ちょっと聞いて。面白いパズルがあるの」
「ハハン?」
或るところに、男が1人、女が2人いる、とします。この3人のうち『何人か』が、いつも嘘をついています。さて、誰が嘘つきなのかを、この3人のうちの誰かが証明出来ますか?
だしぬけにこの問いかけであり、僕は狼狽したが、それでも答えた 「もう1人、中立の正直者を立てて、彼に判別させれば」
「ダメよ、3人だけの世界なの」
うぐっ、と僕は黙りこくってしまい…えーと、1人だけが嘘つきだとして、いやいや2人が嘘つきだとして……あー分からないよ降参だと笑い ─ それでも、エマをもっともっと好きになっていたのである。
この細い身体で、ぎこちない仕草で、洒落っ気の無い風情で、それでいて、こちらの想像を超えた才気というか意気というか…


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翌朝。
シャルル=ド=ゴール空港にて、僕を見送りにやって来たのは、ジュスティンヌであった。
「あのう、エマは、来ないのですか」
「エマは仕事で、今朝早くスイスに向かったわよ」
「そうですか…」
「ねえ!エマからの言付けがあるの」 とジュスティンヌが楽しそうに微笑んだ 「あのね、昨晩のパズルのヒントをひとつだけ。えーと、3人とも嘘つきだとしたら証明は出来ないらしいのよ。さあ、これで、あなたに判るかしら」
「そうですね、そういうことなら嘘つきは1人だけですね、そしてそれは男ですよ、たぶん」
それから僕は、 「今回の出張ではこれといって成果を上げられなかったのが残念だ」、とジュスティンヌに告げ、さらに 「エマについてはとりわけ伝えたいことはない」 とも付け足して ─ そうして出国の途についたのである。

エマによるこのパズルの正答がどんなものであるのか、僕にはいまだに判らないが、エマのことだから今でも黙って僕の返信を待っているのかもしれぬ。



おわり