2018/07/01

自由形


小学校の3年生の頃だったか(4年生の頃だったかな)ハッキリ覚えていないが、スイミングクラブに通っていたことがある。
或る体育大学に併設されたスイミングクラブ、そしてインストラクターの多くはそこの体育大の女子大生たちであった。
プールサイドでの準備運動の指導からしてなかなか堂に入った厳しいもの、僕らがいい加減な態度で臨んでいると、彼女たちがいわゆるビート板で僕らの背中や尻をバシーーーンと引っぱたく。
こらっ!ちゃんとやれっ!
(この頃から暫くの間、女子大生がおっかなくて堪らなかった。)


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僕ら、と記したが、このスイミングクラブへは学校の級友2人と連れだって通っていた。
土曜日の午後に設定された練習コースを選択、1時間だか90分だかが割り当てられていたと記憶している。
なにしろ小学生のころの思い出ゆえ、ところどころがバラバラかつ曖昧であるが、やはりうすぼんやりと思い出す限りでは、クラブに入った最初の段階にてはオレンジ色のスイミングキャップを支給されていた。
僕たちはこのオレンジ色のキャップを着用して、いわゆる本当の初心者からスタート。
俗にいうバタ足の練習から、バタバタバタ…、ダメダメ姿勢がなってないなどと女子大生インストラクターの叱責の声、そして、僕らの頭をビート板でバシンバシンと。

そんな初心者段階の僕らにとって最初の関門が、クロールで25mの完泳である。
これを突破すればいわゆる進級を成し、あらたに背泳ぎのクラスに編入となり、緑色のキャップが支給されるのであった。

さて、或る土曜日の進級テストでのこと。
一緒に通っていた級友2人が、立て続けにクロール25mを完泳し、背泳ぎクラスに進級を果たし、見事に緑色キャップを掌中におさめたのである。
このとき、僕だけが完泳出来なかった。
相変わらずのオレンジ色を握りしつつ、子供ながらに歯ぎしり、悔し涙すら湧いてきて、思えばこれが僕なりに初めて体験したいわゆる敗北であり格差感覚であった。
これ見よがしに緑色キャップをひけらかすこの2人の級友がもう憎くてたまらず、学校でもろくに口も聞かなくなるほどで。
とはいえ、そんな緊張関係も数週間のこと、やがて僕もクロール25mを完泳して、念願の緑色キャップを…

こんなふうに、クラスが進むとともにキャップの色も変わってゆき、平泳ぎクラスに進級すると青色のキャップ、バタフライのクラスに進級すると赤色のキャップが支給されたのであった。
そういえば思い出したが、級友のうち1人がバタフライクラスへの進級を断念して、クラブを休むようになった。
僕は心中で喝采していた ─ あいつは負け犬だ、逃げたんだ、僕はバタフライクラスへの進級も果たし、まだ踏みとどまっているではないか。


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これで、僕のささやかなライバルが定まった。
もう一人の級友であったMくんである。
Mくんはバタフライクラスへの進級も僕よりちょっと早く、筋もよかったのだろうが、同時に年齢不相応ななかなかの策謀家でもあった。

どんな態度で水泳に挑もうとも、進級テストは必ずやってくる。
テストの直前になって、Mくんが小声で僕に打ち明けることには、 「バタフライまでは、なんとかなる。でもこの上の級はキツイぞ。なあ、このあたりでしばらく遊んでいようよ」
「いやだよ、せっかくやる気が起こっているんだから」 と僕は答えた。
「タックンは物事を深く考えないんだな、だから上達しないんだよ」 とMくんが偉ぶった口調で続けた。
おまえだって俺と大して変わらんじゃないか…と、カッとなりつつも、僕は皮肉をこめて言い放ってやった。
「何度考えても、出来るものは出来るし、出来ないものは出来ないんだ」
そして僕は進級テストで「いの一番に」バタフライ25mに挑み、見事に完泳をやってのけた。
(そういえば、数字の1を自分なりのラッキーナンバーと見なすようになったのも、この日からだったような気がする。)
この時、プールサイドで待機していたMくんはちょっと驚いたふうに僕を見つめていたが、やがて自分の番となると、どこからそんな力が湧いて出てきたのか、豪快なバタフライで泳ぎきりやがった。
そして、はぁはぁ息せき切りながらも僕を睨み返し、さぁどうだお前なんかには負けないぞと云わんばかり。

本性や心意気はさておくとしても、僕とMくんは揃って更なる上のクラスに駒を進めたのだった。
いよいよここからが、複合種目のクラスである。
これまたうろ覚えだが、おのれの得意な泳法で50mを泳ぎきること、それから、それぞれの泳法にて25mx4の個人メドレーなどなどが次なる課題であった。


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練習を続けつつ、またまた進級テストの日がやってきた。
Mくんがまたもや策謀家ぶりを発揮し、小声で僕に囁いた。
「今日のテスト、受けるのやめようよ。もしも合格してしまったら次からはいよいよ厳しい練習に突入することになるよ」
「そんなことは受かってから考えればいいんだ」 と僕はうそぶいた。
「またそんな気取ったこと言ってんのか。ふん、ともかく俺はテストは受けない」 とMくんがふてくされたように言う 「俺だって50mを泳ぐ自信はあるけど、身体がばらばらになりそうだよ。もっと力がついてから受けることにする」
じっさい、僕だって50m完泳は辛かった、しかし迷いは無かった ─ 出来るものは出来るんだ。
結局、Mくんは棄権し、僕はまたも「いの一番に」テストを受けて、颯爽と自由形を披露、我ながらびっくりするほどの快泳で50mをあっさり泳ぎ切っていた。
Mくんが呆れたように僕に呟いた 「タックンは贅沢な性格だなあ」
「贅沢って、どういうこと?おまえの考え方こそが贅沢だろう」 と僕は反論していた。

こののちも、僕とMくんはさらに暫くの期間このスイミングクラブに通い続けた ─ はずなのだが、どうもハッキリとした記憶がない。

いつしか、僕たちは個人メドレー100mをこなせるようになっていたし、キャップの色はすでに純白でつまり小学生の最高クラス、何となくプライド感覚も高まってゆき、いまやカラフルなゴーグルを装着して水中ターンも華麗にこなしつつ…
それでも5年生に進級する頃には僕ら2人ともどもクラブを辞めていたのだった。
水泳に徹底的な拘りを抱くに至らなかったという文脈からすれば、結局はMくんが正しかったことになる、だがMくんにはもっと別の意気や見解があったのかもしれず、この由、彼とは中学進学後に全く交際が無くなってしまったためもう確かめようがない。

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ついでに。
中学生になった僕は、夏休み期間にほぼ毎日のように学校のプールに足を運び、よく泳いだものである。
水泳にはこれといった意気も拘りも無かったものの、時おりプールサイドに監視監督に立つ美人教師から 「山本クンは筋が良さそうね」 などと褒められるのが嬉しくて、友人たちともども大いに意気高揚。
しかも体力あり余ってふざけあい、空中回転跳びこみや潜水レスリングなどなど。
さらに、更衣室でタバコを吹かしてみたり、と。
そんな或る日のこと。
おそらくは僕たちの所業を見かねたであろう彼女の報によって、敢然とプールサイドに乗り込んできたのが、精悍に日焼けした体育教師男である。
「何をやってんだオマエたちは!学校内で悪ふざけは許さん!」 と怒鳴り声、僕たちの顔面にバチーーンと飛んできたビンタの嵐、鼻血が出るほど強烈だっがが、このさまを見届けている美人教師の手前、グッと涙を堪えて立っていたのも、プールサイドの掟といえようか。
でも、どうせなら、この美人教師にビート板で頭を軽くこつんと小突いて欲しかったな (ははははは)


おわり