いわゆる文系のうち、社会系の学問、つまり経済学や法律学や政治学の目的は;
①人間の意思決定における「量的な最適化」の探求
②人間の意思決定にかかる「手続き論」の探求
少なくともこのどちらかであろう。
どちらも、実際に「何についての」「何の」を考えてみると、ものすごく難しい。
物理学に準えれば、「力」の定義が無いのに「仕事」の定義をおくという(だからエネルギーも定義するという)、そういうムチャクチャ状況に同じ。
あるいは、生命とは何かとの根本定義が無いのに、木星や土星には生命が存在するだろうかと問うような、そういう支離滅裂な状況に同じ。
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まず、①意思決定における量的な最適化について。
このためには、まずは「何の」量かを定義し、万民に共有されなければならぬ。
それを突き詰めると、「価値」の量、および「権利」の量、経済学用語でいえば「需要」の量、ということにならないだろうか。
それらの量を定義するには、根元単位および上限量をおけばいい…などと、ちょっと数学風を吹かせてみると、たちまち、それは「通貨」の量ですよとしたり顔で片付けるアホがいるので、困ったものである。
じゃあ訊くが、通貨の根元単位はなにか?
水素か、酸素か、炭素か、いや電子か、いや素粒子か重力子か?どれも違う、つまり通貨の根元単位などは定義のしようがない。
一方では、通貨の上限量は論理的に設定できるか?
できない。
根元単位も上限量も無い、だから通貨の量は物価インフレ率などの人間の経験則でとりあえず数量化しているに如かず。
いやいや、「価値」「権利」「需要」の量的な定義は、国家領域あたりの人口で決まるのですよ、というかもしれない。
じゃあその人口の上限量と下限量を言ってみろ。
言えない。
人間にとって必要な水や電気の上限量と下限量も、生産性だのインフレ率だので経験的な定義は出来るが、根元は言えない。
頼みの通貨でさえも、人口でさえも、水や電気でさえもこんなふうに量的定義が出来ないのだから ─ 「価値」「権利」「需要」の根元単位および上限量をおくことはとてつもなく難しそうだ。
よって、①「人間の意思決定における量的な最適化」は、学問として恐ろしく困難である。
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次に、②人間の意思決定にかかる「手続き論」について。
手続き論であれば、合意があり(経済学)、正当性があり(法律学)、公平性も保証(政治学)されなければならぬ。
そうすると、「何についての」手続き論か、これを定義しなければ考察出来ない。
すると、これまた、「価値」「権利」「需要」について、とならないだろうか。
「価値」「権利」「需要」の量的な定義がいかに難しいかについては、上の①で記したとおり。
量的な定義が出来ないそれらについて、合意だの、正当性だの、公平性だのと、どこをどうすれば万民が納得出来るのだろうか?
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経済学、法律学、政治学はそもそも、「人間が常に何らかの愚策に陥り、損ばかりして、さまざまな財貨において不足し、よって永遠の競合関係に在る」、との前提に立っているようである。
もしも、人間にとってあらゆる財貨が永遠に余剰の供給超過となるのなら、経済学も法律学も政治学も不要となる ─ そんな気がしてしょうがない。
あらためて数学論を引っ張ってくれば、どれも不等式の学問とはいえまいか。
しかし、たとえこの不等式のアプローチが着想として正しいとしても、「何が」「何の」についての根元的な定義はずっとずっと有耶無耶にうっちゃられたままだったようだ。
ということは、不等式かつ関数の数学ということになり…ここでさまざまな集合や要素にどんな数を充当しようとも、万民が合意する方程式まで導くのはつくづく難しい学問ということになるでしょうね。
だから、経済学や法律学や政治学について勉強するのはよせ、などと言っているのではありませんよ。
空論に終わってはいけません、活かしなさい、皆を納得させなさい、総論として合意を導きなさい、そのためには、「何が」「何の」について量的に定義してゆくことが必然となるでしょう、と学生の皆さんに伝えておきたいのである。
以上
 
 
 
            
        
          
        
          
        
座頭市(ざとういち)とは架空の人物で、江戸時代後期を生きた盲目の按摩、ということになっている。
尤も、按摩とは平時の生業であり、人生をドスッと賭けた本業は渡世人、渡世人で分からなければ流浪の「やくざ者」である。
もっと精密に座頭市の在りようを斬り分ければ「義賊」ということになろう、いや義賊でも分からないというのなら、要するに「正義を知るやくざ者」ってこった。
年輩層はともかくも、若年層とくに学生諸君などは座頭市の「ざ」の字も聞いたことがなかろうから、ちょいと解釈論をぶつけさせて頂きやす、どちらさんも、よぅござんすか、よござんすね。
そもそも、座頭市については映画を視ればさまざまな発見を楽しむことが出来る。
だから本稿も、映画について記す。
とはいえ、盲(めくら)という圧縮的な表現の妥当性がどうだの、主演を張り続けた故・勝新太郎がこうだの、それを継いだビートたけしが云々などと、枝葉末節をつつく積りはない。
そういう浅薄な映画批評には片づけたくないのだ、ゆえに、もっとシンプルにエッセンスのみをズバッと斬らせてもらう。
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座頭市の映画は20本以上も制作された。
そのどれもが(おそらく)ストーリーが似通っており、概ね「以下のようなもの」である。
まず、正義の看板で以て鳴る一門/一家があり、義侠心の篤い連中が揃っていて、(ほとんど)真っ当な事業や興行を取り仕切っている、と思っておくんなせぇ。
惜しいことに、この一家にはどうにも軽率な親分さんと、輪をかけて軽薄な息子がいなすって、この人たちがどうにも厄介の種。
しかし、泣かせるじゃござんせんか、才色兼備の姉や妹が一所懸命に一家を支えていなさるんだ。
さぁて、この正義の一家の商売利権を奪取せんと悪事のかぎりを尽くすのが、卑劣きわまる対抗勢力の連中、すなわち悪党の親分と手下ども、って寸法でござんす。
もちろんこの悪党どもの後ろ盾には腐りきった悪代官などの権力機構がふっふふふふふ、さらに厄介なことに、腕の立つ用心棒がしばし控えていなすったり。
さて盲目の座頭市であるが、残酷に言えば滑稽なほどの不器用な身体を引き摺って、こちらさんとあちらさんを行ったり来たり。
フン、あんな盲(めくら)に何が出来るか、などと嘲笑され侮られつつも、座頭市はさりげなく按摩をこなしつつ、悪事の企てを聞き出したり、賭場に出向いて悪党どもの度肝を抜いたり、と。
そんな浮世の虚しさに、いったんは物事の顛末から身を引く座頭市、へぇ、どちらさんもご免なすって。
とはいいつつも、そこは正道を知る座頭市、次第に正義の一門に肩入れすることとなり、のっぴきならぬ深みに立ち入ってゆく羽目に。
さあ、もうあらかたお察しでござんしょう ─ 
座頭市の恐るべき仕込杖がついにその哀しみの刃をギラリと剥いて、悪党のやくざ連中や侍どもをズバッズバッと斬るわ斬るわ、奇跡と恐怖の大活劇。
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座頭市の映画における技巧上の素晴らしさは、幾つも挙げることが出来るが、すぐに思い立つ処は概ね以下のとおり。
ひとつは、文字通りの「暗示性」。
人間精神の基底に蠢く短慮や刹那や強欲、これらから成るさまざまなエピソードはいわば「不条理の暗示」ともいえよう。
そして、それらを暴き出し清算してゆくのが(闇しか知らぬはずの)座頭市、彼の怒りの仕込杖こそが「条理の暗示」となっている。
もうひとつは、座頭市が徹底して貫く専守防衛の精神。
座頭市は仕込杖の刃をおのれから抜くことはけしてない。
悪漢どもに挑発されて、その凄まじい切れ味を瞬時に見せることはあっても、また、悪漢どもにとり囲まれて命を狙われたさいに反撃することはあっても、自身からは絶対に先制攻撃を打たない。
先制攻撃が出来ぬように、敢えて盲目の座頭市を主人公に据えている ─ かどうかは与り知らぬが、この設定は真に深淵である。
さらにもうひとつ、ずばぬけた演出効果。
盲人ならではの座頭市の朴訥とした佇まいを、光学や音響が静謐に浮彫りしており、これがなかなか見事だ。
それでいて、ひとたび殺陣が始まれば、座頭市の居合抜刀が空間と時間のとばりを超え、光の刃は宿命の円舞を成し、いびつな影を切り裂いている。
ここへきて、スリラー映画さながらの音響がじつに効果的である。
※ なお、殺陣とは「たて」と読み、平たくいえば戦闘場面のことである。
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世から蔑まれる「やくざ者」、そのやくざ者がしばし神仏のように崇められることもある、それが座頭市なのさ、そこが日本人の日本人たる愚かしさなのだよ、あっははは ─ 
いや、そうではない!座頭市は世界中に居るのだ。
世界各地で古くから語り継がれてきた勧善懲悪ものを思い出せ。
知らぬのなら今こそ読め。
ロビンフッドや怪盗ルパン、そして遠山の金さんは言うに及ばず、正義のやくざ者=義賊の物語は世界中にある (水滸伝などは義賊物語のてんこ盛りといえよう)。
と、なると、万民共通の「わるいやつら」もまた定義しやすい。
正義の義賊とは逆の道を行くやつら、つまり、神仏のごとく奉られるべき存在でありながら、私利私欲に溺れて何でもかんでも好き放題、万民から蔑まれても平然と居直りを決め込んでいる連中こそが、わるいやつらなのである。
以上