2018/08/12

座頭市考

座頭市(ざとういち)とは架空の人物で、江戸時代後期を生きた盲目の按摩、ということになっている。
尤も、按摩とは平時の生業であり、人生をドスッと賭けた本業は渡世人、渡世人で分からなければ流浪の「やくざ者」である。
もっと精密に座頭市の在りようを斬り分ければ「義賊」ということになろう、いや義賊でも分からないというのなら、要するに「正義を知るやくざ者」ってこった。

年輩層はともかくも、若年層とくに学生諸君などは座頭市の「ざ」の字も聞いたことがなかろうから、ちょいと解釈論をぶつけさせて頂きやす、どちらさんも、よぅござんすか、よござんすね。
そもそも、座頭市については映画を視ればさまざまな発見を楽しむことが出来る。
だから本稿も、映画について記す
とはいえ、盲(めくら)という圧縮的な表現の妥当性がどうだの、主演を張り続けた故・勝新太郎がこうだの、それを継いだビートたけしが云々などと、枝葉末節をつつく積りはない。
そういう浅薄な映画批評には片づけたくないのだ、ゆえに、もっとシンプルにエッセンスのみをズバッと斬らせてもらう。

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座頭市の映画は20本以上も制作された。
そのどれもが(おそらく)ストーリーが似通っており、概ね「以下のようなもの」である。

まず、正義の看板で以て鳴る一門/一家があり、義侠心の篤い連中が揃っていて、(ほとんど)真っ当な事業や興行を取り仕切っている、と思っておくんなせぇ。
惜しいことに、この一家にはどうにも軽率な親分さんと、輪をかけて軽薄な息子がいなすって、この人たちがどうにも厄介の種。
しかし、泣かせるじゃござんせんか、才色兼備の姉や妹が一所懸命に一家を支えていなさるんだ。

さぁて、この正義の一家の商売利権を奪取せんと悪事のかぎりを尽くすのが、卑劣きわまる対抗勢力の連中、すなわち悪党の親分と手下ども、って寸法でござんす。
もちろんこの悪党どもの後ろ盾には腐りきった悪代官などの権力機構がふっふふふふふ、さらに厄介なことに、腕の立つ用心棒がしばし控えていなすったり。

さて盲目の座頭市であるが、残酷に言えば滑稽なほどの不器用な身体を引き摺って、こちらさんとあちらさんを行ったり来たり。
フン、あんな盲(めくら)に何が出来るか、などと嘲笑され侮られつつも、座頭市はさりげなく按摩をこなしつつ、悪事の企てを聞き出したり、賭場に出向いて悪党どもの度肝を抜いたり、と。
そんな浮世の虚しさに、いったんは物事の顛末から身を引く座頭市、へぇ、どちらさんもご免なすって。

とはいいつつも、そこは正道を知る座頭市、次第に正義の一門に肩入れすることとなり、のっぴきならぬ深みに立ち入ってゆく羽目に。
さあ、もうあらかたお察しでござんしょう ─ 
座頭市の恐るべき仕込杖がついにその哀しみの刃をギラリと剥いて、悪党のやくざ連中や侍どもをズバッズバッと斬るわ斬るわ、奇跡と恐怖の大活劇。

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座頭市の映画における技巧上の素晴らしさは、幾つも挙げることが出来るが、すぐに思い立つ処は概ね以下のとおり。

ひとつは、文字通りの「暗示性」。
人間精神の基底に蠢く短慮や刹那や強欲、これらから成るさまざまなエピソードはいわば「不条理の暗示」ともいえよう。
そして、それらを暴き出し清算してゆくのが(闇しか知らぬはずの)座頭市、彼の怒りの仕込杖こそが「条理の暗示」となっている。

もうひとつは、座頭市が徹底して貫く専守防衛の精神。
座頭市は仕込杖の刃をおのれから抜くことはけしてない。
悪漢どもに挑発されて、その凄まじい切れ味を瞬時に見せることはあっても、また、悪漢どもにとり囲まれて命を狙われたさいに反撃することはあっても、自身からは絶対に先制攻撃を打たない。
先制攻撃が出来ぬように、敢えて盲目の座頭市を主人公に据えている ─ かどうかは与り知らぬが、この設定は真に深淵である。

さらにもうひとつ、ずばぬけた演出効果。
盲人ならではの座頭市の朴訥とした佇まいを、光学や音響が静謐に浮彫りしており、これがなかなか見事だ。
それでいて、ひとたび殺陣が始まれば、座頭市の居合抜刀が空間と時間のとばりを超え、光の刃は宿命の円舞を成し、いびつな影を切り裂いている。
ここへきて、スリラー映画さながらの音響がじつに効果的である。
※ なお、殺陣とは「たて」と読み、平たくいえば戦闘場面のことである。

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世から蔑まれる「やくざ者」、そのやくざ者がしばし神仏のように崇められることもある、それが座頭市なのさ、そこが日本人の日本人たる愚かしさなのだよ、あっははは ─ 
いや、そうではない!座頭市は世界中に居るのだ。
世界各地で古くから語り継がれてきた勧善懲悪ものを思い出せ。
知らぬのなら今こそ読め。
ロビンフッドや怪盗ルパン、そして遠山の金さんは言うに及ばず、正義のやくざ者=義賊の物語は世界中にある (水滸伝などは義賊物語のてんこ盛りといえよう)。

と、なると、万民共通の「わるいやつら」もまた定義しやすい。
正義の義賊とは逆の道を行くやつら、つまり、神仏のごとく奉られるべき存在でありながら、私利私欲に溺れて何でもかんでも好き放題、万民から蔑まれても平然と居直りを決め込んでいる連中こそが、わるいやつらなのである。


以上