2018/08/20

社会科の難しさ

いわゆる文系のうち、社会系の学問、つまり経済学や法律学や政治学の目的は;
人間の意思決定における「量的な最適化」の探求
人間の意思決定にかかる「手続き論」の探求
少なくともこのどちらかであろう。

どちらも、実際に「何についての」「何の」を考えてみると、ものすごく難しい。
物理学に準えれば、「力」の定義が無いのに「仕事」の定義をおくという(だからエネルギーも定義するという)、そういうムチャクチャ状況に同じ。
あるいは、生命とは何かとの根本定義が無いのに、木星や土星には生命が存在するだろうかと問うような、そういう支離滅裂な状況に同じ。



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まず、①意思決定における量的な最適化について。
このためには、まずは「何の」量かを定義し、万民に共有されなければならぬ。
それを突き詰めると、「価値」の量、および「権利」の量、経済学用語でいえば「需要」の量、ということにならないだろうか。

それらの量を定義するには、根元単位および上限量をおけばいい…などと、ちょっと数学風を吹かせてみると、たちまち、それは「通貨」の量ですよとしたり顔で片付けるアホがいるので、困ったものである。
じゃあ訊くが、通貨の根元単位はなにか?
水素か、酸素か、炭素か、いや電子か、いや素粒子か重力子か?どれも違う、つまり通貨の根元単位などは定義のしようがない。
一方では、通貨の上限量は論理的に設定できるか?
できない。
根元単位も上限量も無い、だから通貨の量は物価インフレ率などの人間の経験則でとりあえず数量化しているに如かず。

いやいや、「価値」「権利」「需要」の量的な定義は、国家領域あたりの人口で決まるのですよ、というかもしれない。
じゃあその人口の上限量と下限量を言ってみろ。
言えない。
人間にとって必要な水や電気の上限量と下限量も、生産性だのインフレ率だので経験的な定義は出来るが、根元は言えない。

頼みの通貨でさえも、人口でさえも、水や電気でさえもこんなふうに量的定義が出来ないのだから ─ 「価値」「権利」「需要」の根元単位および上限量をおくことはとてつもなく難しそうだ。
よって、①「人間の意思決定における量的な最適化」は、学問として恐ろしく困難である。

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次に、②人間の意思決定にかかる「手続き論」について。
手続き論であれば、合意があり(経済学)、正当性があり(法律学)、公平性も保証(政治学)されなければならぬ。
そうすると、「何についての」手続き論か、これを定義しなければ考察出来ない。
すると、これまた、「価値」「権利」「需要」について、とならないだろうか。

「価値」「権利」「需要」の量的な定義がいかに難しいかについては、上の①で記したとおり。
量的な定義が出来ないそれらについて、合意だの、正当性だの、公平性だのと、どこをどうすれば万民が納得出来るのだろうか?

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経済学、法律学、政治学はそもそも、「人間が常に何らかの愚策に陥り、損ばかりして、さまざまな財貨において不足し、よって永遠の競合関係に在る」、との前提に立っているようである。
もしも、人間にとってあらゆる財貨が永遠に余剰の供給超過となるのなら、経済学も法律学も政治学も不要となる ─ そんな気がしてしょうがない。
あらためて数学論を引っ張ってくれば、どれも不等式の学問とはいえまいか。

しかし、たとえこの不等式のアプローチが着想として正しいとしても、「何が」「何の」についての根元的な定義はずっとずっと有耶無耶にうっちゃられたままだったようだ。
ということは、不等式かつ関数の数学ということになり…ここでさまざまな集合や要素にどんな数を充当しようとも、万民が合意する方程式まで導くのはつくづく難しい学問ということになるでしょうね。

だから、経済学や法律学や政治学について勉強するのはよせ、などと言っているのではありませんよ。
空論に終わってはいけません、活かしなさい、皆を納得させなさい、総論として合意を導きなさい、そのためには、「何が」「何の」について量的に定義してゆくことが必然となるでしょう、と学生の皆さんに伝えておきたいのである。

以上