僕自身、物理とは知的相性がけしてよろしくないことを自覚しており、そんな僕だからこそこの教科の難しさを語るにふさわしかろうと、一応の自覚もある。
じゃあ化学は?数学は?となるが、これらとも知的相性が悪いことは自覚しており、とくに数学は高校時代に超美貌の女性教員や女性実習生に指導されつつもやっぱり高得点を採れず、この悔しさやせつなさといったら
─ そんなことはともかくとして、以下、物理の理解の難しさについて考察してみた。
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電気分野にて、ごく基本的なところを再考してみよう。
或る空間に、或る電荷qが在るとする。
え?そんなものが無い場合にはどう考えるのかって?やかましい。
とにかく、在るものとするんだ。
この電荷qは正負±いずれかに相応の電気量を有しているが、話を簡単にするためここでは電気量表現としてq[C]としよう。
電荷の電気量が存在する空間なのだから、もちろんここに電界も存在することになる。
この電界の強さをベクトルE[N/C]→で表すとする。
おや、なぜ強さというのかな、と迷うかもしれないが、力の[N]で表現しているのでまあ強さでよしとしよう。
さて、この空間における電荷q[C]がもたらす(静)電気力は、電荷の電気量と電界の強さの積qE→として表現出来、これを電気力ベクトルF[N]→と表す…
んん??
「電荷の電気量」と「電界の強さ」の「積」とはどういうことか?…量と強さは同じものだと見做しても、これらの掛け算の意義とは?
どうもウヤムヤ感が頭をもたげてくるものの、ここで停まってはいられない。
或る実在の運動による力が何か別の実在に働きかければ何らかの「仕事」が起こるのだから掛け算でいいのかな、ともかく観察上かつ実践上の電気力と電界と電荷電気量の関係なのだろう ─ と強引に納得。
q[C] x E[N/C]→ = F[N]→ としてぴったりフィットするものとしよう。
(ついでに言えば、'quantity', 'electricity', 'filed', 'force'といった英単語を物理の教科書に再発見し、これら単語の真意が分かった気になれるから、モアハッピーだ。)
==============
さらに続けよう。
え?まだ続くのかって?当たり前だ!甘ったれんな!
今度は、ここで実際に生じている電気力F[N]→がこの電荷q[C]に為す「仕事」についてだ。
或る力の世界における或る実体なのだから、この力がこの実体に働きかけ、何らかの仕事が起こるのは当たり前だ、電気電子の世界であってもだ。
やはり話を単純にするため、ここでの電界の強さE[N/C]→は凸凹無く一様であり、またその方向も電荷と直交して仕事が帳消しになることはないとする。
ここで電気力F[N]→が電荷q[C]に対して為す仕事は、電気力F[N]→ x 電荷q[C]の移動距離d[m] という掛け算で表現出来る…。
まーた掛け算が出てきたぞ、今度はどうしてだろう?と、ちょっとビビるが、いやいや、或る力が或る物体に仕事を為す場合、その距離や位置を以て成果表現するのは力学に倣うと考えればよかろう。
だからここでの掛け算はまあ理解出来よう。
それでは、電気力F→によって「仕事」を為された成果としてのこの電荷q[C]の位置は、どう表現するのだろう?
教科書をつらつらと読めば、それが電位だよとあり、これは仕事U[J]ジュール/電荷電気量q[C]という除算つまりJ/C表現ということになる。
むしろ、ここだよ。
なぜ仕事を電荷電気量で除算するんだろう…?この意義はなんなんだ?とまた文系思考人は考えこんでしまう。
が、ここはもう開き直って ─ ともかく仕事はJ表現であること、そしてここで考察している電荷電気量は変わらないことから、電気力によるどの仕事のタイミングをとってみても、電荷1つあたりに為された仕事は方位を問わずJ/Cとスカラー表現出来るのだ、と納得するしかない。
そして、この仕事U[J]/電荷電気量q[C]を総括的に電位V[V]と別表現も出来るのだと。
===============
ここまでを、乗算と除算の定式表現としてまとめると;
電気力F[N]→による電荷電気量q[C]への仕事U[J] とすると、
U[J] = 電気電荷量q[C] x 電界の力E[N/C]→ x 移動距離d[m]
また、U[J] / 電荷電気量q[C] = 電位V[V]
これらをササっと了解出来るか?
出来れば、さらに勉強がサクサクと進む。
「仕事」とくれば、その源泉としての「エネルギー」を同じ量や力を以て表現することも可能、例えばこの電荷電気量の電位を位置ポテンシャルと納得するのもたやすい。
もちろん、ここいらを元手にして量概念や電荷の±、コンデンサもオームもキルヒホッフも直観的に分かるし、ジュール熱とのからみもハハーンと頭に入ってくる。
このように「直観の境地」に達するのが高校物理の勉強の楽しさではないかな、そうさせるのが担当教師たちの務めではないかなと僕なりに想像は出来る。
===========
しかし、だ。
実はここに更なる(そしてもっと本質的な)難しさがあるのでは、と察している。
世界あまねく使いまわされている定式つまり数式は、どのようにバラけてもどのように引っ括られても、どこから入ってどこから出ても、どう乗算してもどう除算しても破綻せぬように組み上げられている。
当たり前だろう、と理数系ファンは笑うかもしれぬが、しかしだね、これが文系思考にとってはとてつもなく難しいのだ。
なぜなら、文系思考とは人間マター、つまり時系列の因果律から成り立っているからである。
英語に則ってハードボイルドに指摘すれば、理数世界の表現にては'as'や'if'は有っても'why'/'because'の区別は厳密ではないし、だいいち時制の観念がほとんど無い。
しかし文系の思考世界では、多くの命題表現が一方向の'why/because'因果で成り立っており、時制秩序も厳密である(しかも仮定法というか皮肉法の表現すら備わっている)。。
たとえば。
電気量Q[C] = コンデンサ電気容量C[F] x 電圧V[V] という定式も高校で学習するだろうが、教科書類の説明は以下のとおり;
「複数の電気回路があり、それぞれ電池とコンデンサが接続されている。これら回路の電気容量が同じであるためには、同じ電圧V[V]をかけた時に同じ電気量Qが電池から供給されなければならない。」
本箇所を読んで、文系思考では例えばどのように捉えうるか。
「そうか、これは特殊な事例なのだな、そして、これら回路の電気量量C[F]は常時は同じにはならないのだな」 ─ とさえ読み取ってしまう次第。
この窮屈さがお分かりだろうか。
==========
…上のようなことを考えつつも、時おり閃くことがある。
男性と比べて時系列にも因果律にもあまり拘らない女性の方が、(意外にも)理科や数学の「直観思考」には向いているんじゃないかなと、ただ乗算や除算のゴチャゴチャした仕上がりを敬遠しているだけなんじゃないか。
こういうのは絵を描かせてみたら、あるいはコンピュータプログラムを書かせてみたら判然とするかもしれぬ。
例えば、高校物理で最も理解し難い波分野について。
一定時間[s]における或る正弦波の振動数f[Hz]と波長λ[m]の積がなぜその波の速さv[m/s]となるのか、そもそも振動数こそが速さじゃないか!…と僕は未だに分からなくなることがあるのだが、こういうのを優しく分かりやすく図案で示してくれる美人女教師が
以上
q[C] x E[N/C]→ = F[N]→ としてぴったりフィットするものとしよう。
(ついでに言えば、'quantity', 'electricity', 'filed', 'force'といった英単語を物理の教科書に再発見し、これら単語の真意が分かった気になれるから、モアハッピーだ。)
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さらに続けよう。
え?まだ続くのかって?当たり前だ!甘ったれんな!
今度は、ここで実際に生じている電気力F[N]→がこの電荷q[C]に為す「仕事」についてだ。
或る力の世界における或る実体なのだから、この力がこの実体に働きかけ、何らかの仕事が起こるのは当たり前だ、電気電子の世界であってもだ。
やはり話を単純にするため、ここでの電界の強さE[N/C]→は凸凹無く一様であり、またその方向も電荷と直交して仕事が帳消しになることはないとする。
ここで電気力F[N]→が電荷q[C]に対して為す仕事は、電気力F[N]→ x 電荷q[C]の移動距離d[m] という掛け算で表現出来る…。
まーた掛け算が出てきたぞ、今度はどうしてだろう?と、ちょっとビビるが、いやいや、或る力が或る物体に仕事を為す場合、その距離や位置を以て成果表現するのは力学に倣うと考えればよかろう。
だからここでの掛け算はまあ理解出来よう。
それでは、電気力F→によって「仕事」を為された成果としてのこの電荷q[C]の位置は、どう表現するのだろう?
教科書をつらつらと読めば、それが電位だよとあり、これは仕事U[J]ジュール/電荷電気量q[C]という除算つまりJ/C表現ということになる。
むしろ、ここだよ。
なぜ仕事を電荷電気量で除算するんだろう…?この意義はなんなんだ?とまた文系思考人は考えこんでしまう。
が、ここはもう開き直って ─ ともかく仕事はJ表現であること、そしてここで考察している電荷電気量は変わらないことから、電気力によるどの仕事のタイミングをとってみても、電荷1つあたりに為された仕事は方位を問わずJ/Cとスカラー表現出来るのだ、と納得するしかない。
そして、この仕事U[J]/電荷電気量q[C]を総括的に電位V[V]と別表現も出来るのだと。
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ここまでを、乗算と除算の定式表現としてまとめると;
電気力F[N]→による電荷電気量q[C]への仕事U[J] とすると、
U[J] = 電気電荷量q[C] x 電界の力E[N/C]→ x 移動距離d[m]
また、U[J] / 電荷電気量q[C] = 電位V[V]
これらをササっと了解出来るか?
出来れば、さらに勉強がサクサクと進む。
「仕事」とくれば、その源泉としての「エネルギー」を同じ量や力を以て表現することも可能、例えばこの電荷電気量の電位を位置ポテンシャルと納得するのもたやすい。
もちろん、ここいらを元手にして量概念や電荷の±、コンデンサもオームもキルヒホッフも直観的に分かるし、ジュール熱とのからみもハハーンと頭に入ってくる。
このように「直観の境地」に達するのが高校物理の勉強の楽しさではないかな、そうさせるのが担当教師たちの務めではないかなと僕なりに想像は出来る。
===========
しかし、だ。
実はここに更なる(そしてもっと本質的な)難しさがあるのでは、と察している。
世界あまねく使いまわされている定式つまり数式は、どのようにバラけてもどのように引っ括られても、どこから入ってどこから出ても、どう乗算してもどう除算しても破綻せぬように組み上げられている。
当たり前だろう、と理数系ファンは笑うかもしれぬが、しかしだね、これが文系思考にとってはとてつもなく難しいのだ。
なぜなら、文系思考とは人間マター、つまり時系列の因果律から成り立っているからである。
英語に則ってハードボイルドに指摘すれば、理数世界の表現にては'as'や'if'は有っても'why'/'because'の区別は厳密ではないし、だいいち時制の観念がほとんど無い。
しかし文系の思考世界では、多くの命題表現が一方向の'why/because'因果で成り立っており、時制秩序も厳密である(しかも仮定法というか皮肉法の表現すら備わっている)。。
たとえば。
電気量Q[C] = コンデンサ電気容量C[F] x 電圧V[V] という定式も高校で学習するだろうが、教科書類の説明は以下のとおり;
「複数の電気回路があり、それぞれ電池とコンデンサが接続されている。これら回路の電気容量が同じであるためには、同じ電圧V[V]をかけた時に同じ電気量Qが電池から供給されなければならない。」
本箇所を読んで、文系思考では例えばどのように捉えうるか。
「そうか、これは特殊な事例なのだな、そして、これら回路の電気量量C[F]は常時は同じにはならないのだな」 ─ とさえ読み取ってしまう次第。
この窮屈さがお分かりだろうか。
==========
…上のようなことを考えつつも、時おり閃くことがある。
男性と比べて時系列にも因果律にもあまり拘らない女性の方が、(意外にも)理科や数学の「直観思考」には向いているんじゃないかなと、ただ乗算や除算のゴチャゴチャした仕上がりを敬遠しているだけなんじゃないか。
こういうのは絵を描かせてみたら、あるいはコンピュータプログラムを書かせてみたら判然とするかもしれぬ。
例えば、高校物理で最も理解し難い波分野について。
一定時間[s]における或る正弦波の振動数f[Hz]と波長λ[m]の積がなぜその波の速さv[m/s]となるのか、そもそも振動数こそが速さじゃないか!…と僕は未だに分からなくなることがあるのだが、こういうのを優しく分かりやすく図案で示してくれる美人女教師が
以上