2021/04/11

大学新入生諸君へ (2021)

大学入学おめでとう。

半ば狂ったような昨今の世界において、君たちは取りあえずは大学に進むこととなった。
尤も、もともと学校とは一般社会の市場関係からかなりかけ離れた機構組織であり、とくに大学ともなると何のために存在し存続している組織であるのか分かりにくい。
大学自身も、おのれらの根元的な存在意義そのものを実社会に対して発信していない。
とりわけ昨今は、教養そのものの本来的な意義がほぼ誰にも分からなくなっている。
だから諸君らはしばらくは拍子抜けするような虚しい時節をやり過ごすことになろう。

しかし、いつまでも拍子抜けしてばかりはいられない。
そこで、今この時節だからこそ伝えておきたいことを、ごく簡易に記す。

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昨今の学術知性は危機に瀕している
それはデジタル化が一層進めつつある知性の「外部化」、「断裂化」、「希薄化」、「無文脈化」である(他にもいろいろ言いようはあるが、ともかくこんなものである。)

もともと、我々の知性とはさまざまな知識のさまざまな集積であり、その連続した「力」であり、自律と他律が連綿とつづく「仕事」ともいえる。
気取って言えば、知性とはつまりさまざまなベクトルなんだ、アハハン。
しかしデジタル化が進むと、知識は人間自身からどんどん離れ、外部資源のどこかにバラバラに収納された断片に帰されてしまう。
慨嘆しつつさらに気取っていえば、知性がバラバラ無関係のスカラー量  ─ それどころか、ただの記号のすっ転がしにまで堕ちてしまうということだ。

平易かつ極端に例示してみよう。
たとえば、(4+3) と (3+4) はどちらが大きいだろうか、と問われたら、諸君は「同じだよ」と答えるだろう。
ここで、デジタル化の進展とは、これらが同じだと察するための知性を諸君から引き剥がし、3と4と+をバラバラに解体し、それぞれをどこか外部資源に収納してしまうということ。
そうなると、「どちらが大きかろうと、もうどちらでもいいじゃないか」となり、よって「僕には(あたしには)分かりません」となる。
ここで誰か見知らぬ者が大きな声で「(3+4)の方が大きいだろう!」と怒鳴り散らすと、君たちは「そうっすね」と答えているかもしれない。
ということは、翌日さらに別の誰かがカネをばらまきつつ、「(4+3)の方が大きいに決まっている!」と叫び声をあげるや否や、「そうっすよ」と答えてそのカネを頂きますと。
これを、デジタル・ニヒリズムという。
こんなこと幾つもいくつも繰り返していれば、そのうちに思考の文脈がウヤムヤになり、希薄になり、おのれ自身が何者か分からなくなる。

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もうひとつ、今度はヨリ卑近な例を。
昨今あらたに書店に並ぶ本の多くは、イライラするほど文脈を捕捉し難いものが目立つ。
しかも、時代が下るとともに、そういう本がどんどん増えているように見受けられる。
その理由としてすぐに気づくこと ─ 文面においていわゆる接続副詞が減っているのである。

英語など欧米言語であれば、もともと数学の証明あるいは論理学テキストのようにガッチガチの論理構造をとった文章のため接続副詞もかなり頑固に残存している。
だが、日本語の書籍がいけない、本当に接続副詞が希少になっている。
接続副詞が希少なので、或る文面ひとつとってもそれが一般則なのか特定事例なのか、肯定的に加勢した文意なのかはたまた反証が始まっているのか、ホントに分かりにくいんだよなあ。
本当に人間が執筆しているのか、否、きっとそこら中のAIエンテイティに書かせたものを無機的に貼り合わせているのかな、それはきっと安上がりだからだろう…と、うがった見方すらしてしまうほどだ。
ともかくも文脈を捕捉し難いので、読む側としても無文脈の離散的な断片知識ばかりが雑多に増えてしまう。
こんな読書ばかり続けていれば、やっぱり知性はベクトルからスカラーへとバランバランに低次元化してしまうってことだ。

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世界には、知性の分断と虚無化を継続し、価値だの価値観だのとカチカチ空論を練り上げて間隙を繕いつつ便乗利益をはかり続ける、そんな勢力も根強い。
そして、世界チャンピオン級の超名門企業さえもが、いやそれどころか、世界の大ボスと崇められてきた超名門の巨大国家でさえもが、ガタンガタガタドスーーーンと無文脈の無責任の無能な断片としてバランバランに解体され霧消しつつある昨今ではある。
しかしだ。
此度あらたに大学に入学した君たちまでもが一緒になって無文脈の離散バカに帰してはならぬ。
そこで。
入学してからしばらくは、学術の範疇をとわず、思いきって何らかの古典に挑んでみたらどうだろうか。
古典の古典たるゆえんは、いつでもどこでも様々な意気によって大切に守り抜かれてきた巨大なベクトルであり、巨大かつ確固たる軌跡であり、君たちが将来描くであろう新たな軌道のため、そしてそれら軌道修正のための
─ まあ要するにそんなものだ、スポーツでいえば背筋力や脚力のようなものだ、地味でつまらぬものかもしれぬが、すべての根幹だ。


世界はさらにバカバカしい日々を送ることになるかもしれない、しかし君たちは同じ時間を同じバカバカで過ごす必然なんかないんだ。
どうせなら「俺は/あたしはこれほどのものなんだ!」と堂々と胸を張ってゆく勇壮なバカを目指して欲しいものである。


(おわり)